第6話 Pain ギルドのパン
朝の街はもう噂で持ちきりだった。
「東で、トルクさんが、十体」
「北では、誰かが、五体」
「同時刻なんだろ?」
「ありえねえだろ、普通」
「いやでも、現に」
聞いていない。
厳密には聞こえてたけど、興味なし。
朝。
ヴェルデンの大通り。
雲は薄く、風はほんの少しぬるい。
雨季の終わりのいい朝。
ハルトとは通りで別れた。剣の整備の残り、らしい。
約束の地下茸の煮込みは今夜改めて。
昼までは自由時間♪
まずパン屋に向かった。
*
街の南西、大通りの角の小さなパン屋。
看板はない。
ただ毎朝、煙が勢いよく立ち昇る。
それだけで客が来る。
「お嬢さん、今日は、何にする?」
主人は白髪の小柄な男だった。
六十代くらい。指先が粉で白い。
「うーん。今日のおすすめは?」
「黒麦のパン。今、出たばかりだ」
「お、いいね」
「あと、林檎の、季節のやつ。中に、ちょっと、酒が入ってる。お嬢ちゃんには、まだ早いかね」
「えー、見た目で決めるやつ。これでも17、だし」
「お、こりゃ失礼」
「両方ね」
「両方か。お嬢さん、見かけによらず」
「あたしじゃなくて、おじさんのおすすめが上手いの。買うじゃない、ふつう」
主人がにやりと笑った。
——お、いい笑い方。
黒麦のパンと林檎のパンをひとつずつ買った。
黒麦のパンをその場でひとくち。
……
「あー、なるほどねー」
噛みながら頷く。
表面、ぱりっと。
中、しっとり。
麦の香りが噛むほどに出てくる。
焼く前に一度、温めた油を表面に薄く塗ってる。
だから皮が香ばしい。
そして生地の中に、ほんの少しだけ塩が強く効いてる。
たぶん、北の岩塩。
灰色の、粒の粗いあれ。
「おじさん、これ、北の岩塩、使ってる?」
「お、分かるか」
「分かるよ。塩の粒の溶け方が違うの。海の塩だと、もっとすっと消えるでしょ。岩塩は舌の上で少しだけ残るの。あと、温度。仕込みのときの水、ちょっと冷たすぎでしょ。発酵、ぎりぎり。だから生地の中の気泡が、ふつうよりちょっと小さくて密。噛んだときのもちもち感が強くなる。これ、たぶんわざとでしょ? 黒麦と組み合わせるならこっちの方が、麦の風味、立つから。あと林檎のパン、中に入ってるお酒、たぶん林檎酒。だけど量はぎりぎり。お酒が麦に勝ちすぎない。仕込み、もう一段、寝かせてる? たぶん、四日。三日だと少し若い。五日だと、酸が立つから——」
「……お嬢さん、料理人か?」
「ううん。ただの食いしん坊」
主人はしばらく答えなかった。
それから低く笑った。
「気が向いたら、また来てくれ」
「うん。たぶん明日も」
「ヴェルデンに、長くいるのか」
「うん。少しだけ」
「そうかい」
林檎のパンをポーチにしまった。
黒麦のパンの残りは歩きながら食べる。お、いい朝♪
*
街の通りをぶらぶら歩く。
通り過ぎる人たちがちらりちらりとこっちを見ていく。
視線の理由は、たぶんふたつ。
ひとつは見慣れない顔だから。
もうひとつは昨夜の噂と関係してる、と。
——あー、もう回ってるね、噂。早いのよねこういうの。
気にしてない。
ただ、パンを噛んでる。
「お嬢ちゃん、ちょっと」
声がした。
振り返ると、見覚えのある顔。
ハルト。
両手剣を背に担いでる。
朝なのにもう装備、まんま。
「お、ハルト。整備、終わったの?」
「お前、街門で目撃情報があったぞ」
「それあたし?」
「他に、誰がいるんだ」
「あー」
「ギルドが、お前を捜してる」
「面倒ー」
ハルトが額に手を当てた。
——お、今朝も額シリーズ。
「面倒、で済む話じゃないな」
「なんで?」
「昨夜の、北の魔物五体。あれを片付けた人間を、ギルドが特定したがってる」
「あー、それあたし」
「分かってる」
「うん」
「ミラさんから伝言だ。ギルドに来てくれ、と」
「面倒ー」
「俺も同行する」
「ね、いいでしょ」
ハルトが深く息を吐いた。
*
ヴェルデン冒険者ギルド、本部。
朝なのにもう、それなりに人が入ってた。
扉を押した瞬間、店内のざわめきが少しだけ止まった。
それからまた何事もなかったかのように再開した。
ただし視線だけはちらりちらりとこっちに集まる。
「お、ハルトさんと、あの嬢ちゃん」
「噂の方か」
「黙ってろ。聞かれるぞ」
「……」
「あの嬢ちゃん、本物の『あとなし』なのか?」
誰かが低い声で囁いた。
別の誰かが慌てて口を塞いだ。
三人連れの冒険者がひそひそと話してる。
一人が笑いかけて、別のひとりに肘で止められた。
ギルドの隅でベテランらしい男が無言で酒杯を傾けてる。
ただしその目はこっちの動きを追ってた。
場の空気がほんの少しずつ重くなっていく。
誰も何も宣言してない。
ただ、空気がそう伝えてた。
聞いてる。
けど、表情は変えない。
黒麦のパンの最後のひとくちを噛んでる。
たぶんいつもよりちょっとだけ塩味がはっきり舌に残った。
「ハルトさん」
ミラさんがカウンターの向こうから手を振った。
「ミラ、来たぞ」
「ありがとうございます。あの、カレンさん」
「どーも」
「ギルド長がお会いしたいって、奥で」
「面倒」
「あの、本当に面倒なんですけど、お願いします」
「面倒ー」
「分かってます。分かってますけど」
ミラさん、必死の顔。
——お、ミラさん、頑張ってる。
軽く息を吐いた。
と、その時。
店の奥の扉が開いた。
ざわめきがまた止まった。
今度はほんの少しではなく、明確に止まった。
視線が一斉に扉の方に集まる。
何人かが座っていた椅子から、ほとんど反射的に立ち上がった。
そしてその一団は自然と、扉とこっちの間に道を空けた。
「……」
ハルトの背筋がわずかに伸びた。
剣帯のバックルに片手が触れた。
触れただけ。
扉から男がひとり出てきた。
*
三十代後半。
背が高い。
肩幅が広い。
鎧は着てない。
装備は軽装。
ただ、腰には片手剣。
鞘の作りが、明らかに量産品じゃない。
革のすり減り方が、長年使い込まれた本物のもの。
髪は短く刈り上げてある。
眼は灰色。
表情は薄い。
ただ、立ってるだけで店全体の空気の重さが変わる。
ギルドの中の誰もが無意識に、姿勢をほんの少しだけ正した。
笑い声は消えてる。
杯を傾ける手も止まってる。
——おー、本物の格、ってやつね。
たぶん、この人がトルクさん。
トルクさんがゆっくりこっちに視線を止めた。
それからハルトにちらりと視線を流した。
ハルトが軽く頷いた。
「お前か」
トルクさんの声は思ったよりも低かった。
「ん?」
「昨夜、北で、魔物を片付けたのは」
「うん。あたし」
「五体だと聞いた」
「うん」
「全部、別の属性で、と」
「うん」
ぱくりと黒麦のパンの最後を口に入れた。
噛む。
噛みながらトルクさんを見上げる。
トルクさんは長い間、答えなかった。
それからふっと口元を緩めた。
「俺はトルクだ。この街のAランクをやっている」
「うん。知ってる。さっき噂で」
「お前の名前は」
「あたしはカレン」
「カレン、登録は」
「面倒」
ギルドの中の誰かが低く笑った。
すぐにトルクさんがちらりと視線を流した。
笑い声はすぐに止まった。
「カレン」
「ん?」
「少し、時間をもらえるか」
「何の?」
「お前の力を、見たい」
ハルトの剣帯のバックルがほんの少しだけ鳴った。
首を傾ける。
わくわくは、隠さない主義。
「お、いいね」
トルクさんの口元がわずかに上がった。
ギルドの中の誰も、何も言わなかった。
ただ、視線だけがふたりの間を行き来した。
そして誰かがぽつりと呟いた。
「……『あとなし』が、来やがった」
聞こえてる。
ただ、聞こえないふりをした。
ポーチをトン、と軽く叩く。
楽しみ♪
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わんだ




