第12話 Poisson I 腰が低い領主
路地を出た。
エルヴァさんの姿はもうなかった。街の午前の空気は変わらずふつう。ただし、こっちの中の何かがわずかに動いてた。
歩きながら、何度か考えた。
ゼーヴっていう名前。久しぶりに外から聞いた。自分の中ではずっとある名前。ただし、誰かとその名前を共有することは、もうないと思ってた。
ゼーヴが姿を消して何年だろう。たぶん五年か六年。そのときも何の説明もなかった。ふらりといなくなった。まるで最初からいなかったみたいに。
ふーん、と思う。
別に悲しんでない。そういう人だって、知ってた。ただ、誰かがゼーヴの名前を知ってるっていう事実がちょっと面白い。しかも、それを知ってるのがふつうの商人じゃないっていう事実が、もっと面白い。
楽しみ♪
*
ポーチをトンと軽く叩く。
——お、薄い。
中身、というか、財布。地下茸を買い込んで、ボルドさんのお店でも奮発して、パン屋でも黒麦と林檎の両方買った。そりゃ薄くなる。
食材はたんまりある。ただし現金が薄い。
軽く首を傾けた。朝のふつうの金欠。
ふつうなら節制する。ただし節制っていうのは、面倒。あたしの辞書に載ってない言葉なの。
別の解決策が頭の中にすぐ浮かんだ。ギルド。街の外の魔物退治。一日で現金たんまり。
うん、それで。
*
ギルドに入った。
朝の入店のときと違って、店内はふつうの賑わいだった。カウンターには列。朝の依頼を終えて報告に戻ってきた冒険者たちが、それぞれ自分の番を待ってる。
列に並ばずにカウンターの隅に立った。受付のミラさんがこっちに気付いた。
「あ、カレンさん」
「お腹すいた」
「お金、ですか?」
「うん」
「あの、依頼ですよね?」
「うん」
「常識的な質問しちゃった、わたし」
ミラさんが自分でため息をついて、カウンターの裏の依頼書の束をめくった。
「えっと、今出てるのは、街の北の薬草採取と、街の東の魔物退治と、街道の護衛と——」
「魔物退治」
「あ、即答」
「報酬いちばんいいやつでいい?」
「うん」
「では、これ。街の東、林の入口の魔物。三体。種類は中型。報酬、四千レイド」
「うんー、それで」
「あの、おひとりで、ですよね?」
「うん」
「依頼書、ハルトさんと一緒で——」
「ひとり」
「あ、はい、ひとり」
ミラさんはもう深く聞かなかった。依頼書のサイン欄を指し示す。ただし登録はまだだった。
「あ、登録、しないんでしたよね」
「うん」
「じゃあ、特別措置、ですね。ハルトさんの紹介ということで、書類は回します。あとでハルトさんに、説明、頑張ります」
「うん。よろしく」
「あの、本当に、よろしくお願いします」
ミラさんは、本当に「よろしくお願い」を両手で束ねたような顔。
——お、今日も頑張ってるね、ミラさん。
*
街の東の林の入口。
ぶらぶら歩いて半刻くらいで着いた。林の手前で足を止める。
三体。中型。種類は林にふつうにいるやつ。ただし気配がおかしい。ふつうの中型獣の気配じゃない。中に、もうひとつ別のねじれた流れがある。
強化されてる。たぶん外から。たぶん地下のあの気配と繋がってる。
ふーん、と思う。
——ま、まとめる方が早いかな。
「面倒だから、まとめて」
ぽつり。
指先がほんの少しだけ動いた。
林の奥の空気がわずかに流れる。音はほとんどない。ただ、三体の気配が同時に途切れた。ぷつり、と糸を切るみたいに。
……
林に入っていく。
一体目の死骸を確認した。中型。鱗。腹のあたりに、小さく不自然な結晶のようなものがある。
ピンセットでつまむような慎重さで刃を入れた。鱗の下の肉は、思ったより締まってた。強化されてる個体は、生体の反応まで少し違う。刃を入れた指先に、いつもの中型獣より硬い抵抗が返ってくる。
結晶を取り出す。
灰色。ほぼ透明。ただし中で何か、不自然な流れが動いてた。
これだ。これが強化の媒介。
ふつうの魔物には入ってない。ふつうの街のふつうの魔物には。でも、ヴェルデンの東の林の中型獣には入ってる。
つまり、誰かが入れてるのね。
ヴェルデンの北の魔物。東の魔物。たぶん街の外周ぐるりに配置されてる。街の繁栄の副産物。か、あるいは、その逆。
ふーん、と思う。結晶をポーチにしまって、ふたつ目、みっつ目の死骸からも同じ結晶を取り出した。
「これ、ちょっと面白いんだよね。灰色なのに、中がずっと動いてるの」
楽しそうに呟いた。林の奥の鳥が一羽飛び立った。
*
ギルドに戻って、報告をミラさんに出す。死骸の確認は別の冒険者が現地に向かう慣例らしい。報酬の受け取りはその確認の後。
ただし、ミラさんの顔がふだんと違った。
「あ、あの、カレンさん」
「ん?」
「報酬の受け取り、ちょっと変則的、ですね」
「変則?」
「四千レイド、なんですけど、その、領主館経由で」
「お」
「あの、領主様から直接お渡し、ということになっています」
「ふーん。なんで?」
「あの、その、最近、街の周辺の不審な魔物退治、領主様、ご自身が気にされていて。報酬を直接お渡しして、お礼を申し上げたい、と伝言が」
「お、丁寧。領主さんが直々にお礼、って珍しくない?」
「珍しい、です。わたしも初めて」
「ふーん」
「あの、ご足労おかけしますが、領主館、行かれますか?」
「うん」
「ほんとに、ですか?」
「うん。お金、欲しいもん」
「素直」
ミラさんがぽつりと呟いた。
*
領主館は街の東の丘の上にあった。
石造り。ふつうの貴族の館の半分くらいの大きさ。ただし手入れはよくされてる。庭の薔薇の剪定が丁寧で、門の守衛も礼儀正しい。
案内されて、応接間のひとつに通された。待たされる時間はほんの数分。
ふつう、領主が平民を待たせる時間としては短い。
——おー、礼儀あるね。ちょっと期待。
扉が開いて、男がひとり入ってきた。
三十代後半。髪は整えられてるけど過剰じゃない。服装は地味な上質。装飾はほとんどない。ただし立ち方が整ってた。
そして表情が柔らかい。
「お待たせいたしました」
「いえ」
「あなたが、噂の魔道士の方ですか」
「ん」
「街を守っていただいて、助かりました」
男が軽く頭を下げた。
平民に頭を下げる領主っていうのは、ふつうじゃない。こっちの中で何かがほんの少しだけ姿勢を整えた。さっきエルヴァさんの前で出かかったやつと似てる。ただし今度は、寸前で出なかった。
「あー、別に、守ったつもりはないけど」
「ええ」
「魔物、いたから、退治したの。それだけ。あ、お金は、ちゃんと欲しい」
「ふふ、ええ、もちろん」
「お金、ありがとー」
テーブルの革袋をポーチにしまう。男が軽く頷いた。
「申し遅れました。私は、グラハム、と申します。この街の領主を、しております」
「うん。グラハムさん」
「お嬢様のお名前を、お伺いしても?」
「カレン」
「カレン様」
「あ、様、いらない」
「では、カレンさん、と」
「うん」
グラハムさんが軽く微笑んだ。
嫌味のない、柔らかい笑い方。ただし、その柔らかさの奥に何かがある。
……ふーん、と思う。
*
「カレンさんは、しばらく、ヴェルデンに?」
「うん。少しだけ」
「我が街を、お気に召しましたか?」
「うん。ご飯、美味しい」
「ふふ」
グラハムさんが軽く笑った。嫌味のない柔らかい笑い。
「もし、よろしければ、また、お会いしたいですね」
「うん。気が向いたら」
「ふふ」
グラハムさんはもう深く追わなかった。ただ軽く頭を下げて、扉まで自分で案内した。
庭の薔薇は剪定が丁寧。薔薇の香りがふっと立ち上る。たぶん領主が自分でも世話してるのね。そういうことが伝わる剪定。
*
領主館の門を出た。
ぽつり。
「あの人、たぶん、いい人」
……
「だけど、たぶん、それだけじゃ、ない」
楽しそうに街の方角に歩き出した。ポーチの中の四千レイドがほんの少しだけ揺れた。そして、ポーチの中の灰色の結晶も同じだけ揺れてた。
「うん、いいね。役者が揃ってきた」
楽しそうに呟いた。街の中央広場の地下、深いところにある気配は変わらずそこにある。そして、たぶん今、目の前で頭を下げてくれたグラハムさんが、そこに関わってる。
ふーん。
楽しみは、またひとつ増えた♪
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わんだ




