金色の鳥と約束
レティシアが目を覚ますと、蒼白い灯りはとうに姿を消していて、代わりにあきれたような顔をした侍女が陶器の洗面台にお湯を張っているところだった。
一緒に持ってきたらしい朝食の盆は布巾をのけられ、すでに食べるばかりになって窓際に置かれている。
朝のさわやかな風と光が部屋中に溢れていた。
いつもなら侍女に寝顔を見られるのが嫌さに、日の出と共に起き出すのだが、珍しくぐっすりと眠りこけていたのだ。
レティシアは急いで半身を起こし、あたりをきょろきょろと見回した。
もちろん、何も変わったものは見当たらない。レティシアは、がっかりした。
ベッドの側にかかっている鏡を覗き込んで、今日は顔に涙の跡がついていないことを確認して少しだけほっとする。
ここのところ布団をかぶって声を殺して泣きながら眠る癖がすっかりついてしまっている。
だが、夕べはそうではなかったようだ。
いい夢を見たからだろうか?
「あれは夢、だったのよね」
小さくつぶやいて顔を擦った。
あんな綺麗で優しい夢ならば、目覚めずにずっと眠っていたかった。
レティシアは唇を噛んだ。
「さぁさ、姫様。早くお顔を洗って、朝食をお召し上がり下さいまし。いつまでも片付きませんからね」
痺れを切らした侍女が、少しだけ声を荒らげた。
レティシアはため息をつきながらベッドを降りて上靴を履こうとしたが、見当たらない。
夕べ眠るときに、ベッドの奥にでも蹴り飛ばしたのだったろうか?
屈み込んでベッドの下を覗き込んだレティシアは、
「あっ!」
と、思わず声をあげそうになって慌てて口を押さえた。
ベッドの一番奥で、蒼白い灯りが小さくまたたいているのが見えたのだった。
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その日、レティシアは浮かれてにこにこしながらも、何処か落ち着かなくすごした。
早く夜がくればいい。
ここへ来てからはじめて、いや、生まれてはじめて心の底からそう思った。
レティシアに常日頃無関心な侍女も、珍しく機嫌のいい姫君に多少首をひねったものの、具合が悪い様子でもない。
むしろいつもより明るく元気で機嫌がよく、扱いやすいくらいだった。
侍女は肩をすくめて、自分の手仕事である刺繍の枠に視線を落とした。
問題がなければどうでもよかった。別に問い詰めて問題をこちらから探す気などはさらさらないのだ。
レティシアのほうは、わくわくどきどきしながらも、自分の態度を怪しまれないように気を使っていた。
それでもはしゃいでしまいそうになる気持ちを一生懸命に押さえている。
美味しくもない朝ご飯や昼ご飯も文句を言わずに食べ、いつもはとらない昼寝も無理やり目をつぶってとることにした。
夜になったら、灯りのチップ――どうやらそういう名前をつけたらしい――と遊ばなくてはならないのだ。
「眠くなったら損しちゃうもん!」
布団をかぶってレティシアは、くすくすと笑いながら眠りに落ちた。
やがて外は夕焼けの赤から蒼く黄昏れはじめ、大気は蒼から濃い紫に染まっていった。
待ちに待った夜が来たのだ。
ぽっちりのパンとスープと焼いただけのお肉というわびしい晩の食事も、今日はまるで苦にならない。
食事が終わると、いつものように侍女は盆を持ってそそくさと扉に鍵をかけ、階段を下りていった。
レティシアは扉に駆け寄り頭を押し付けて、侍女の足音に耳を澄ました。
確かに足音が彼方へ去った事を確認すると、
「チップ!おいで!」
ずっと胸の中にためておいた言葉を、レティシアは小さく声に出してみた。
来なかったら、あるいは、いなくなっていたらどうしよう、というひそかな心配は、すぐにどこかへ消し飛んだ。
呼ばれた灯りは間髪をいれず、ひゅん、と勢いよくベッドの下から飛び出してきて、天井すれすれまで舞い上がり、それからレティシアの膝の上にぽんと着地した。
レティシアは、嬉しそうに笑った。
「まぁ、チップ。あなたは、お利巧さんね。さ、遊びましょ?」
了解! というしるしか、お愛想か、チップはレティシアの膝の上でトンボを切るようにくるりんと一回転して見せた。
くすくすくすとレティシアが笑う。
ぽーんと灯りが弾け飛ぶ。
まるで鬼ごっこでもしているようにレティシアは、チップを追いかけ、チップに追いかけられしながら息が切れるまで遊んだ。
灯りは、まるで意思を持った生き物のようにじゃれつき、時にはレティシアの無理な注文に拗ねたようにベッドの下にもぐりこんで見せたりした。
そうやって夜もだいぶ更けた頃、疲れ果てたレティシアはチップに見守られながらゆっくりと眠った。
それは久しぶりに心地よい、穏やかで健やかな眠りだった。
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そして、あの不思議な奇跡の夜から三日ほどたった。
もちろんその間ずっとレティシアは、夜になるとチップを呼び出して疲れ果てるまで遊んだ。
チップと追いかけっこをしたりかくれんぼをしたり、あるいは大事にしているあの図鑑を見せて本を読んで聞かせたりしていた。
本の中には、あの金色の鳥の図版もある。
レティシアは、しかつめらしい口調で鳥の図版を指差して、チップに説明した。
「ほうらね? これがあなたを下さった金色の鳥さんですよ? 綺麗でしょう?」
チップはおとなしくレティシアの手元を照らしながら、まるで話を聞いているかのように絵の上でふるふると揺れて見せた。
今もそうしてチップに話し掛けながら、いろいろなページを捲っていると、ふいにチップがもじもじと大きく身動ぎした。
「どうしたの?」
レティシアがそれに気づいた時にはすでに、チップはぽんとベッドの上から飛びだして、窓のほうへ飛んでいた。
まるで窓硝子を拭こうとでもしているように、くるりくるりと落ち着かなげに円を描いている。
「どうしたの? チップ。戻っておいで」
レティシアが声をかけると、チップは再びベッドの側に戻り、それからもう一度窓のほうへ飛んでいく。
あっ! とレティシアは声をあげて、転がり落ちるように慌ててベッドから降りた。
「もしかしたら、鳥さん?! 金色の鳥さんが来たの?」
レティシアが窓へ辿り着かないうちに、コンコンコンと軽く扉を叩く音がして、窓の外に金色の髪が見えた。
閂を空けるのももどかしく扉を引き開けると、やはりそこには金色の鳥である青年がにこにこと笑顔で立っていた。
青年は優雅にひとつお辞儀をした。
「こんばんは、レティシア姫。失礼ながら、夜分にお邪魔します」
お辞儀を返しながら、レティシアの頬は嬉しさで上気していた。
「いらっしゃいませ、金色の鳥さん。どうぞ中へ」
本当は嬉しさのあまり、お父様にするように彼の首に抱きついてしまいたかったのだが、それではあまりにも礼儀にかなっていないと思ってあきらめたのだ。
それに気づいた様子もなく、青年はマントの内側に手を入れた。
「はい、僕からのおみやげです。ここらはまだみたいですけれど、僕のうちのほうでは、もうこんなお花が咲いていましたのでお持ちしました。お気に召しますでしょうか?」
彼が差し出した手には、小さな小さな花束が握られていた。
濃紫の優雅なすみれ、淡い桃色の可憐なれんげそう、そしてその周りには早咲きのシロツメクサがあしらわれ、細い緑色のリボンで留められている。
「まあ、お花だわ! 可愛らしい! ありがとう!」
嬉しげにレティシアはその花束を受け取り、鼻先に近づけた。
青い草の香りと柔らかな春の香りが鼻腔をくすぐる。
「しばらくお花も見ていなかったの」
にこにこと笑いながらレティシアは、青年を見上げた。
「あの侍女・・・・・・。庭の花くらい摘んでくるのは、造作もないことだろうに・・・・・・」
青年が、かすかに眉間にしわを寄せつぶやいた言葉にも、レティシアは気が付かないくらい夢中でうっとりと花束を見つめていた。
その様子に青年の表情が和らいだ。
「やはり姫様は女の子だから、お花がお好きなんですね」
「はい! 大好きです」
レティシアはにこにこと笑いながら元気に答えた。
「じゃあ、もう少し暖かくなったら僕と外にお花を見に行きましょうか?」
青年の言葉にレティシアは目を丸くした。
「え? お外に行くんですか? でも、鍵がかかっています」
青年はにっこりと笑って窓のほうを指差した。
「もちろん、窓から出かけるんですよ」
それから彼は意味ありげに人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく眼をきらめかした。
「秘密のピクニックです」
「はい!」
レティシアは勢いよくうなずいた。
「それじゃあ、今度お出かけしましょう。そうですね、あと三回寝た頃、かな?」
レティシアは小首をかしげた。
「三回寝たら、暖かくなりますか?」
まだ夜の風は冷たい。昼はほんのりと暖かいのだが、青年が持ってきたような花束が作れるような陽気とも思われない。
「ええ、大丈夫。風と仲良しの僕の、ええと、友達がそう言ってましたからね」
なぜか一瞬だけ言いよどみながら、青年はレティシアにうなずいて見せた。
「風と仲良しなお友達がいらっしゃるんですね。うらやましい」
「よかったら今度は彼女も連れてきますよ」
レティシアは手を叩いて喜んだ。
「ええ、ぜひお願いします。楽しみにしています。きっと綺麗な金色の鳥さん、なんですよね?」
あ、と青年は、困った顔をした。
「ええと。彼女の羽根は黒いから、漆黒の鳥、かな?」
「しっこくって何ですか?」
無邪気なレティシアの問いに、ますます困ったような顔になった青年は、鼻の頭をかいて苦笑した。
「漆黒は、つやと深みのある純粋な黒色のことですね・・・・・。まぁ今度、お会いになってから姫君ご自身で確かめてみたらいかがですか?」
「はい、楽しみにお待ちします」
レティシアは、どきどきしながらうなずいた。久しぶりに外に出られるのだ。そのうえ、金色の鳥さんがお友達も連れてきてくれるという。
漆黒の鳥ってどんなに綺麗な鳥さんなのだろう。
『わたし、夢見てるんじゃないのよね?』
レティシアの気持ちに同調してか、チップがくるくるくると嬉しげに円を描きながらあたりを飛び回った。
そのあまりにも嬉しそうな様子のレティシアに、逆に青年の顔が少し曇った。
「まだ、こんなに幼い姫君なのに・・・・・・」
こんなところに閉じ込められていては、楽しみは何もないだろう。
澱んだ空気の日の射さないような地下牢に囚われていないだけましだとは思うけれど、だからと言って可哀想でないということにはならない。
だが、囚われの姫君に何がしてあげられるだろうか。
青年がここを連れ出してしまうのは、とても簡単なことだ。
このまま自分の城へ連れて行ってしまえばいい。彼にとっては、何も負担になるようなことはない。しかし、身寄りのない普通の村の子供であればそれはたやすいことであるだろうが、一国の姫君ともなればそうもいくまい。
曲がりなりにもこの国の国王の血を引いているのだ。
大きな騒ぎになるだろうことは、目に見えている。
青年はその昔会ったヘンリー王の顔を思い浮かべた。まだ子供だった頃、そしてさらに成長して、血気にはやった若者だった頃の彼の顔を。
この幼い姫君の顔の中に、かすかに彼の面影を認め、青年は小さく微笑んだ。あの頃はこんな時代がやってくるなどとは夢にも思わなかった。
自信に溢れたヘンリー王は、自分が亡くなる寸前まで予想もしていなかっただろう。
まして可愛がっていた幼い娘が、ひとりぼっちで長い夜を過ごす心配などもまるでしていなかったに違いない。
青年は心の中で溜め息をついた。
せめてもう少し早く、自分がここへ来ていたら・・・・・・。
だが、もう遅い。過ぎた時間は取り戻せないのだ。ならば今は、僕に出来ることだけをしてあげるしかない。
青年は気を取り直したようにひとつ咳払いをした。
「では、お約束いたします。三日後に秘密のピクニックにお出かけしましょう。
今日は・・・・・・そうですね。何か姫君のお好きそうなお話をひとつして、それから帰りますね」
青年はそう言うと、床の上にゆったりと座り込んだ。
レティシアが、慌てて青年のために薄いクッションを椅子の上から持ってきたが、彼はにっこりと笑って、逆に彼女にそれに座るように促した。
「僕は大丈夫。姫君がそれにお座りください。では、何のお話をしましょうか? そうだ、レティシア姫は、夜の馬というものをご存知ですか? 彼はとても蒼いのですが・・・・・・」




