月の光と金色の鳥
その水差しは、綺麗な薔薇色の切子硝子で作られている可愛らしい物で、普通のコップ一杯分の水が入るかどうかという大きさだった。
まるで人形遊び用に作られたようなもののように見える。
レティシアは、ちょっとだけためらった。レティシアの幼い手の中にすっぽりとおさまるそれには、自分でさえ二口くらいで飲めてしまう量しか入っていないのだ。こんな少しの水で、あの金色の鳥が満足してくれるのだろうか? だが、ないよりはましかもしれない。
レティシアは、硝子の水差しを手にとると、落とさないように気をつけながら露台へ出た。
「ごめんなさい。今、これしかないんです」
青年が切子の水差しを受け取って月の光に透かして見ると、中で薔薇色の水がゆらりと揺れた。
「これはまた、ずいぶんと可愛らしい」
「わたしは夜、お水を飲んじゃいけないことになっているの。だから・・・・・」
そこまで言ってレティシアは、ふっと頬を染めた。
その様子で理由に思い当たったらしい青年は、笑いをこらえるように口元を歪めた。
「ははぁ、なるほど。でも小さなレディ、このお水、僕が貰ってしまっても大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫。今日は喉が渇いてないの。それに私、小さなレディじゃなくて、レティシアって言います」
「レティシア? ・・・・・・では、この城の姫君だね」
青年は、何かを思い出したように眉間にかすかに皺を寄せた。
「金色の鳥さん、私のことをご存知ですか?」
レティシアは小首をかしげた。
「金色の鳥って僕のことかな?」
青年は眉を上げて自分にしか聞こえないくらいの声で小さくつぶやき、それからレティシアを見た。
「お名前だけは・・・・・・。あなたは、ここの末のお姫様でしょう。もしかして、ずっとここにお一人なのでしょうか?」
レティシアは小さくうなずいた。
「はい。お母様、いえ、母と兄は別のところにいると思います」
そう、と青年は考え込んだ。
彼も、この国の揉め事の噂は聞いていた。
最近やっと形の上でだけは収まったようだが、まだまだ内紛が続いている。
裏でそれぞれの思惑にのっとったさまざまな陰謀が行われているのだろう。
囚われの身の上になった姫君の話も聞いていた。そして更なる嫌な噂話も・・・・・・。
そう、確かあれは・・・・・・。
「あの、金色の鳥さん?」
自分の考えを追うのに気を取られていた彼の顔を、真剣な表情のレティシアが覗き込んでいた。
彼はふっと笑顔になった。やはり彼女は自分のことを鳥、しかも金色の鳥だと思っているようだ。
その子供らしい思い違いが可愛らしくて、つい彼の口元が綻んでしまう。
「あぁ、ごめんなさい、レティシア姫。なんでしょうか?」
「お水、それではたりませんか?」
真剣なレティシアのまなざしに青年は微笑みながら、小さくかぶりを振った。
「いいえ、大丈夫。これで充分ですよ」
薔薇色の水差しのふた代わりになっている小さなコップを右手に取ると、青年はそれに水を慎重に注いだ。薔薇色の切子硝子のおもちゃのように小さなコップの中で、月の光を浴びた水が薔薇色に染まっているのが見える。青年はすぐには水を飲まず、座り込んだ姿勢のままで、できうる限り高くコップを掲げた。
「月の光よ。それへ宿る金の光よ。我が命の水に癒しを与えよ」
深く柔らかい声が呪文を唱えると、彼が高く掲げた薔薇色のコップの中から、金色の光がまるで溢れるように零れ落ち、彼の全身に纏わりついた。
その光景のあまりの美しさにレティシアは声をあげるのも忘れ、ただ見入っていた。
それはどれだけの間、続いたのだろう。その間中、レティシアは息を詰め大きな目を見開いて、不可思議なその光景をじっと見つめていた。
やがて青年は、静かに光の溢れているコップを口元に運んだ。光はコップの淵から、絶え間なくこぼれ落ちている。
「・・・・・・いただきます」
くいっと思い切りよく空けられたコップの水は、ごくりと一口で飲み干された。
大きくのけぞった彼の白い喉を、その水が煌めきながら滑り落ちていくのが、レティシアの目にはっきりと見えた。
光は彼の胸に留まり、そこで柔らかな光を放っている。
やがて、彼の胸から三本の矢が、ぽろぽろと粉々に崩れて落ちた。
そしてそれとともに、青年が深く溜め息をついた。
彼の手がゆっくりと自分の胸を撫でていく。
その手の動きに連れて、光が少しずつ位置を変え弱まっていき、とうとう最後にはまるで見えなくなった。
そこまで行き着くと、やっと青年は顔を上げてレティシアの方を向いて微笑を浮かべた。
「応急処置ですけど、なんとかなりました。ありがとう、姫君」
彼からはさっきまでの苦しげな様子が無くなっていて、片方だけ見えている明るい緑色の右目がきらきらと光っている。
「まぁ!」
あいかわらずレティシアの目はまん丸に見開かれたままだったが、そこには恐怖というものはない。
「鳥さんって魔法が使えるんですね! 素敵だわ」
青年は再び低い笑い声を上げた。
「僕は金色の鳥、ですか? 姫君」
レティシアは戸惑った。勝手にそう呼んでしまったけれど、いけなかっただろうか?
レティシアは、ちょっと不安そうに小首をかしげた。
「・・・・・・違ってますか?」
その様子に青年は、にっこり笑ってうなずいた。
「いいえ、それでいいのですよ。どうぞ、そのようにお呼びください」
「はい」
つられたようにレティシアがにっこり微笑むと、ふっくらとした頬に小さなえくぼができた。
「本当に、可愛らしい姫君ですね。お一人でずっとこんなところにいては、さぞかしお寂しいでしょう?」
青年が優しい声で言いながらレティシアの顔を覗き込むと、彼女の明るい茶色の瞳がふっと曇った。
「でも、昼間は世話をしてくれる侍女がおります。一人なのは、夜だけなのですもの」
だが、その夜が一番寂しいのだ、ということを青年はよく知っていた。
こんな小さな女の子にとって、暗闇はさぞかし怖いだろう。夜の優しさに気づく前に、その闇の深さに怯えてしまうだろう。
青年は右手をちょっと上げて、指をぱちんと鳴らした。ぽっと何もない闇の中に、大人の拳ほどの小さな蒼白い灯りが生まれた。灯りはまるで子犬が跳ねるように上下に揺れながら、二人の周りをくるくると回った。
「姫君、手を前に出して御覧なさい?」
目を丸くして灯りの飛び跳ねるのを見ていたレティシアは、言われるままに右手をふっと前に突き出した。
ぽんと勢いをつけた蒼白い灯りが、突き出されたレティシアの掌に乗ると、その上で大人しくなった。
灯りはまるで熱をもたず、重さも感じない。ただふわふわした気配があるだけだった。
よく見ると灯りは、今にも跳ね回りたそうに、ふるふると小さく揺れている。
「餌を食べているリスみたいだわ。可愛い!」
前によくお城のお庭にいたんです、とレティシアは、くすくすと小さな笑い声を上げた。
「姫君の命令どおりに動きますよ。何かおっしゃってみてください」
「・・・・・・跳ねてみて?」
レティシアが少し自信なさげに声をあげると、灯りは手のひらの上でぽんぽんと楽しげに小さく跳ねてみせた。
「もっとなんでもいいつけてください。少しなら空も飛べますし、何でもできますよ」
金色の鳥の言葉に、レティシアは大きく目を見張った。
「すごい、空も飛べるんですね」
「どうぞ、お試しあれ」
彼はにこっと笑った。
「飛んで!」
すかさずレティシアが叫ぶと、小さな灯りはのけぞって見上げなければならないほどぽーんと大きく跳ねて、再び掌の上に戻ってきた。
「回って!」
灯りはものすごい速さでその場で回り、それから大きく跳ねて姫君の頭のてっぺんから足までくるくると螺旋状に回って再び掌に戻ってきた。
「すごいわ。なんてお利口さんなの!」
レティシアは、少し興奮したような弾んだ声をあげて頬を上気させ、灯りがほめられて少し恥らうように、もじもじと揺れた。
その様子を見守っていた青年が、やはりにこにこと笑いながら
「お気に召しましたか?よろしければ、姫君に差し上げますよ」
と言うと、レティシアは少し不安そうな顔をした。
「でも、でも・・・・・・見つかったら? 取り上げられてしまうかも・・・・・・」
あの意地悪そうな侍女に、と言う言葉を、レティシアは飲み込んだ。人の悪口ははしたない、とお母様に教わったではないか。
だが青年は、レティシアの飲み込んだ言葉がわかっているかのように、ちょっと悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「大丈夫。これは光だから、朝になったら見えなくなります。あるいは、部屋の隅の暗闇にでも隠れるでしょう。夜、誰もいなくなったら、呼んでくださればいいんです」
「ほんと? 本当にこの子をくださるの?」
思わず声がはずむ。嬉しかった。これで夜も一人ぼっちじゃない。青年は、にっこり笑った。
「ええ、どうぞ可愛がってやってください。お水のささやかなお礼です」
言いながら、青年はゆっくり立ち上がった。
すらりと細身で、かなり背が高い。
彼の背中に、滝のように金色の髪が流れ落ちた。レティシアは目を丸くして、青年を見上げた。
「金色の鳥さんは、背が高いのね。お父様みたいです」
「ヘンリー王のことですか? そうですね。でも、僕より彼のほうがもっと大きかったですよ。僕は6フィートくらいしかありませんけれど、彼は僕よりこぶしひとつは大きい方でしたからね」
レティシアは驚いてぽっかりと口を開いた。
「お父様をご存知ですか?」
青年はこともなげにうなずいた。
「ええ、ヘンリー王があなたくらいの歳の頃から、ね」
「お、お父様と同じお歳なんですか?」
思わず、青年の顔をまじまじと見てしまう。
レティシアの母はまだ二十代だが、父王はとうに五十を過ぎていたはずだ。
だが、この青年は、幼いレティシアの目から見てもまるでそんな歳には思えず、どうかすると母よりも兄たちに近いのかと思っていたのだ。戸惑うレティシアの様子に、青年は面白そうにくくくっと笑った。
「いいえ、僕は姫君のお父様より年上です、ずっとね」
「とってもそんな風には見えません!」
「僕は金色の鳥ですから。人間とは違うんですよ、レティシア姫」
青年が真面目くさった顔つきで答えると、ああそうか、とレティシアは納得した。魔法が使える鳥ならば、きっとそうに違いない。きっと何百年も何千年も生きるんだわ。
青年は優雅な動作で胸に手を当てると、レティシアに向かって正式なお辞儀をした。
「では、姫君。本日のところは、僕はこれにておいとまいたします。後日、ちゃんと傷が治りましたら、改めて御礼にお伺いいたします」
レティシアも寝巻きに裸足のままで、それでも母親に教わったとおりに寝巻きの裾をつまんで膝をちょっと折り、正式なレディの挨拶を返した。
「また是非、お遊びにいらしてくださいね」
レティシアの可愛らしい挨拶に、青年の目が優しく笑った。
「さぁ、姫君。もう中へお入りなさい。もうだいぶ暖かにはなりましたけれど、まだ夜風は冷たいですよ。僕がベッドに入るまでここで見守っていますから」
青年に促されるままに、レティシアは扉を開けた。蒼白い灯りが子犬のようにレティシアの足元にじゃれついてついてくる。
だが、身体を半分ほど中へ入れたところで、レティシアの足が止まった。本当は鳥が翼を広げて飛んでいくところが見たかったのだ。
レティシアは迷った。
そして迷ったあげく、
「あなたが飛んでいくところを、ここで見ていてはいけませんか?」
無作法と知りつつも、小さな声で尋ねてしまった。呆れられるだろうと思ったが、青年はあっさりとうなずいた。
「そうですね。扉の内側からならかまいませんよ」
「はい」
嬉しげにレティシアはうなずいて身体を内側へ入れると、きっちり扉を閉めて閂をかけた。
レティシアの肩には蒼白い小さな灯りが乗っていて、顔の側でふるふると揺れている。
「いい子ね。おとなしくしててね」
レティシアは、振り落とさないように横目で灯りを見ながら声をかけた。
扉の外側から強い風が吹き付けたのか、ぎしぎしときしむ音がした。
なにやら強い気配を感じて目を外に戻したとき、レティシアは息を呑んだ。
いつのまにか青年の姿はなく、高い露台の手摺の上に一羽の巨大な金色の鳥が止まっている。
きらきらと月の光に輝く淡い金色の羽毛がびっしりと身体を覆い、頭のてっぺんからは、ひときわ長く尾を引く金色の冠をいただいたような柔らかな羽根が背中に流れ落ちていた。
振り向いた鳥の目は、右が緑色で左は恐ろしいくらいの金色だった。
レティシアがその目の中に何か大きな恐怖を感じて、思わず一歩、後じさると、その鳥は、それを見とめたようにすぐに顔を前に戻し、大きく翼を広げた。
「なんて綺麗・・・・・・」
たった今の怖かったことも忘れて、レティシアは思わずつぶやいた。
その翼は、レティシアの視界をすべてさえぎるように大きく、空を制してしまいそうに力強かった。
ばさりと羽ばたく音がして、やがて鳥はレティシアが見守る中、空高く飛び去った。
長い尾羽から金色の光がこぼれ、まるで小さな星々のようにあたりに振り撒かれていく。
レティシアは、いつまでもいつまでも窓の外の夜の闇に目を凝らしていた。
金色の光跡を長く夜空に引きながら空の彼方に飛び去った、美しく優しい金色の鳥を思いながら。
「もうあんな遠くへ行ってしまわれたわ」
だいぶ身体が冷えてしまってから、レティシアはやっと窓のそばを離れ、ため息をついた。
名残惜しそうに窓の遠くを振り返り、
「お前は寂しくないの?」
まだおとなしく肩の上に乗っている蒼白い灯りに声をかけてみる。
灯りはまるで、ふわあとあくびでもしたかのように縦に伸びて小さく瞬いた。
その様子にレティシアは、くすくすと笑った。
「あなたにお名前付けてあげるわね。何がいいかしら?」




