第72話 隣の部屋は譲れない
屋敷の扉を開けると、悠真を迎えたのは朝の光だった。
昨日はよその家を見に来た。今日は、自分の家に帰ってきた。そう思うと足が止まり、玄関から廊下の奥まで見渡してしまう。
「悠真さん、早く入りましょう」
背中を押したリラが、荷物を抱えて先へ進む。大半は悠真の収納に入っているので、たいした量ではない。それでも、自分の服だけは自分で運びたいと言って聞かなかった。
新しい鍵を眺めながらセリカが続き、最後に扉を閉めた結衣は、その音に微笑んだ。
「ただいま」
小さな声に、悠真の胸が温かくなる。
「おかえり。これからは、何度でも言えるな」
「うん。悠真くんにも、毎日言うね」
結衣がさっそく腕へ寄り添ってきて、居間へ向かう足取りまで軽くなる。
すぐあとに、ガレスの紹介したニナが訪ねてきた。紺の前掛けをつけた、二十代後半ほどの女性だ。玄関を見るなり、懐かしそうに目を細める。
「またこの家に灯りが入るんですね。嬉しいです」
「よろしくお願いします。俺たち、迷宮へ出ることが多いから」
「留守はお任せください。皆さんが帰ったとき、気持ちよく休めるようにしておきます」
これで、安心して家を空けられる。
台所や食堂を一通り見たニナが、昼食を用意してくれることになった。居間にはまだ家具が少ないので、今日は残されていた机を使う。
では、その間に部屋を決めよう。
悠真がそう言った瞬間、三人の空気が変わった。
「私は、悠真さんのお部屋の右がいいです」
リラが一番に宣言する。
「左なら朝日がよく入るわ。私は左ね」
セリカもすぐに続いた。
結衣はにこやかに二人を見ている。その落ち着きが、悠真には少し気になった。
「結衣は、どこがいい?」
「悠真くんの向かい。扉を開けたら、すぐ会えるから」
リラの耳がぴくりと動き、セリカも一瞬、向かいの部屋を見直す。左右の近さと、顔を見られる向かい。思った以上に難しい勝負らしい。
廊下から四つの扉を見渡すと、どの部屋も声をかければすぐ届く。いい配置だ。
「じゃあ、それで決まりにしよう」
「待ってください。向かいだと、悠真さんが出てきたらすぐ分かるんですよね」
「リラ、右の部屋からでも声は聞こえるわよ」
「でも、扉の音は向かいが一番……」
結衣の笑顔が少し深くなる。こらえきれずに吹き出したのは、悠真が先だった。
「まず荷物を置いてみよう。窓の明るさや、服を置く場所も違うから」
収納から三人の箱を出すと、リラは右の部屋へ運んで窓から顔を出し、庭の声もよく聞こえると喜んだ。セリカは左の部屋で、さっそく服を並べ始めている。
結衣はというと、悠真の扉を軽く叩いてみせた。
「これなら、すぐ聞こえるね」
「聞こえる。俺が結衣の部屋へ行く時も、こうすればいいか」
「うん。たくさん来て」
向かいの部屋へ戻る前に、彼女は一度だけ振り返った。今夜はお茶を飲みに寄ると約束して、悠真もその扉を覚えておく。
結局、最初に選んだ配置で落ち着いた。リラは庭を見下ろせる右の部屋、セリカは朝日の入る左の部屋、結衣は向かい。皆が悠真を近くに感じられる場所だ。
部屋に入ったリラは、真っ先に獣王の大剣を壁へ立てかけた。それから箱の服を広げて、耳を潰さずに眠れる高さへ枕を置く。
「ここで眠って、朝になったら悠真さんに会いに行くんですね」
「起こしに来てくれていいぞ」
「では、毎朝行きます!」
嬉しそうに頷かれ、悠真はつい頭を撫でた。頬を寄せてくるリラの尻尾が揺れて、広い部屋に彼女の明るさが満ちていく。
セリカの部屋では、服を掛ける場所が足りなかった。持ってきた上着を見比べて、彼女が買いすぎたかしらと呟く。
「足りなければ、家具を増やせばいい」
「そう簡単に言うのね」
「金を稼いだんだから、好きに使おう。セリカの服、もっと見たいし」
彼女が振り返った。
「それ、私のため?」
「俺の楽しみも入ってる」
「……正直ね」
頬を染めながらも、セリカは嬉しそうだった。新しい服を着たら最初に見せてくれると約束し、悠真の胸を軽く指で押す。
「褒め方、考えておいて」
「見れば自然に出てくるよ」
「その言い方も、ずるいわ」
結衣の部屋は、驚くほど整うのが早かった。荷物を置く位置が最初から決まっていたらしい。窓辺に小さな椅子を置き、机の上には花を飾る場所を空けている。
「花、買いに行こうか」
「悠真くんが選んでくれる?」
「いいよ。似合いそうなのを探そう」
結衣は満足そうに頷き、扉のそばへ悠真を呼んだ。向かいに彼の部屋が見える。
「ほら。こうして待っていたら、帰ってきた悠真くんに一番に気づける」
「ずっと待ってる必要はないぞ」
「待つのが好きなの。帰ってくる場所が私のそばなら、もっと好き」
悠真は彼女の腰へ腕を回し、短く抱き寄せた。
「俺が先に戻ったら、ここで待っててもいいか」
「いいよ。私が帰る前に行っちゃわないでね」
結衣が握らせてきたのは、彼女の部屋の鍵だった。その手ごと包み込んでから、窓辺の椅子へ腰を下ろしてみる。向かいにもう一脚置けば、二人で花を眺められそうだ。
昼食は、鶏と根菜の蒸し焼きに焼きたてのパンだった。食堂に四人で座ると、ニナが少し緊張した顔で皿を並べる。
「お口に合うといいのですが」
一口で分かった。肉が柔らかく、野菜の甘さがよく出ている。隣ではリラが、目を輝かせてもう二口目へ進んでいた。
「美味い。毎日これが食べられるなら、帰るのが楽しみになる」
「よかった。リラさん、おかわりもありますよ」
「お願いします!」
元気な返事に、食堂が笑いに包まれた。
午後は庭を歩き、稽古の場所と花壇の場所を分けた。稽古の場所はセリカが剣を振る範囲で決まり、その外側にリラが花を植えたがる。結衣の希望は、食事をする場所の日陰だった。
それならと、食事用の場所は木の下に決めた。そこから稽古の庭まで、花を踏まずに歩ける道を残しておく。リラに立ってもらって大剣の届く幅を確かめると、花壇も十分な広さが取れた。
古い訓練用の柱は、悠真が身体強化で引き抜いた。地面の下から重い石の土台まで現れて、ニナが目を丸くする。
「職人を呼ばなくても、よかったんですね……」
「新しい柱は頼むつもり。古いのを退けるだけなら、すぐだから」
「悠真くん、家具を運ぶのも一人でできそう」
「それは俺に任せて」
悠真が柱を土台ごと担ぎ上げたので、ニナが慌てて置き場を探し始めた。示された庭の端へ重い土台を静かに降ろした途端、感嘆の声が上がる。こういう驚かれ方は、ちょっと気持ちいい。
庭仕事を終えて手を洗うと、ニナが冷たい果実水を持ってきてくれた。悠真は同じ盆に並んだ四人分の杯から自分の分を取り、残りを恋人たちへ回した。
「明日は、皆の好きな杯も買おう。毎朝使うやつ」
「私、持ち手の大きいものがいいです」
「リラは中身をたくさん入れたいのね」
「はい。セリカさんも一緒に選んでください」
杯を空けてから水を冷やしていた場所を聞くと、台所の石室だという。夏には氷を置ける広さもあるそうなので、次は酒も冷やしておいてほしいと頼んだ。
夕方、まだ家具の少ない居間へ皆で座った。約束通り、リラが真っ先に悠真の膝を狙ってくる。セリカと結衣も、すかさず両隣を押さえた。
「狭くない?」
悠真が聞くと、三人が揃って首を振った。
「このくらいがいいです」
リラの声に、セリカと結衣も同意する。
空いている椅子へ足を伸ばし、リラが落ち着けるよう膝の位置を変えてやると、彼女はほっと息をついた。
「明日は、もっと大きなソファを買おう」
「大きくても、私はここがいいです」
胸へ頭を寄せてきたリラの髪を撫でていると、左右の二人も黙って肩を預けてくる。
灯りをともしに来たニナには、暖炉側だけ暗いままにしてもらった。そのほうが、窓の外の庭がよく見える。
リラが寝息を立て始めるまで、誰もその場所を動かなかった。
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