第65話 先輩に奢る夜
日の暮れた通りに、赤い角の看板が灯りを受けて揺れていた。赤角亭の扉を開けると、焼いた肉と酒の匂いが一度に押し寄せた。
ガレスが片手を上げるだけで、奥の店主が笑った。すぐに大きな席が空けられ、七人分の杯が並ぶ。常連なのは、店の者の気安い声からもよく分かった。
「今日は若いのが奢ってくれる。いい酒を頼むぞ」
ガレスの言葉に、店主が悠真を見た。
「大丈夫かい。こいつは飲むぞ」
「約束だからな。料理も一番いいのを頼む」
悠真が答えると、ガレスが豪快に笑った。惜しくはない。雷獣の魔石には十分な値がついたし、先輩に奢るなんて、一度やってみたかった。
深い色の酒が注がれるのを待って、ガレスが杯を持ち上げた。
「今日の勝利と、悠真のとんでもない雷に!」
杯が触れ合う音が、机の上で重なった。
悠真は一口飲み、思わず息を吐いた。昨日の蜂蜜酒よりも香りが深い。喉を通ると温かさが広がり、身体の中に残った迷宮の緊張がほどけていく。
「旨いな」
「だろう。ここのいい酒は、働いたあとに飲むと最高だ」
満足そうに杯を見つめるガレスの隣で、トーマは喜んで飲み、ベラはゆっくり香りを楽しんでいる。リラの目は酒より先に、運ばれてきた肉へ釘づけになっていた。
「悠真さん、これ、骨まで大きいです」
「食べたいだけ食べていいぞ」
そう言うと、リラの笑顔がさらに明るくなる。賑やかな席を見渡せば、今日の稼ぎが皿の上で湯気を立てていた。
トーマは酒が半分になる前に、雷の話を始めた。
「あの親玉、前に見たときは別の組が十人で逃げてきたんだ。それを雷で押し返すんだからな」
「相手も雷を使うなら、こっちのほうが強ければいいだろ」
「簡単に言うなあ」
ガレスが笑い、悠真の杯へ少しだけ酒を足す。
「強い力を手に入れて、嬉しくて仕方ない顔だな」
「ああ。まだ試してみたい使い方がある」
「その気持ちは分かる。俺も初めていい盾を買った日は、何でも受けてみたくなった」
ベラがすぐに首を振った。
「その話なら、最後まで言ってあげて。荷車を止めようとして轢かれかけたところまで」
目を丸くするリラの前で、ガレスは参ったという顔をして杯を置いた。
「止まると思ったんだ。馬があんなに嫌がるとはな」
「盾を見せて道の真ん中に立てば、馬も驚くわよ」
セリカの突っ込みに、トーマが吹き出した。頼れる先輩にも、そういう頃があったのだ。そう思うと、ますます話を聞きたくなる。
ガレスの顎の傷へ目を向けると、彼は気づいたらしく指で触れた。
「これは別の日だ。仲間が剣を落としてな。拾ってやろうと屈んだところを、魔物に殴られた」
「それで、その傷か」
「そうだ。剣へ手を伸ばした瞬間に殴られて、歯が飛んだ。仲間に担がれて帰ったよ」
笑い話にしているが、その選び方がいかにもガレスらしい。危ないときほど、後ろにいる者のことが頭に浮かぶのだろう。
「今なら、盾で守ってから拾うんだな」
「ああ。それと、落とすなと言っておく」
「今でも言われる」
肩をすくめるトーマの横で、ベラが静かに笑った。
店主がもう一枚運んできた大皿は、香草を詰めて焼いた鳥だった。切ると湯気が上がり、それを悠真が三人へ取り分けていると、ガレスが感心したように見てくる。
「よく世話を焼くな」
「喜ぶ顔が好きなんだ」
「そりゃ、皿が空くまで見ていたくなるな」
口いっぱいに頬張ったリラがこくこく頷く横から、セリカが自分の気に入った肉を悠真の皿へ返してきた。
「あなたも食べなさい。今日はたくさん戦ったんだから」
「まだまだいけたけどな」
「それは知ってる。食べるほうも、遠慮しなくていいの」
セリカに押し切られ、悠真は大きく切った肉を口へ運んだ。旨い。彼女の笑顔も近くて、贅沢な味がした。
酒が進むと、トーマは自分が欲しい弓の話を始めた。ベラは広い薬草棚が欲しいと言い、ガレスは家の庭に大きな焼き台を置きたいという。
「宝を掘って、結局は食べ物に行くのか」
悠真が笑うと、ガレスは堂々と頷いた。
「いい暮らしってのは、好きな連中に旨い物を食わせられる暮らしだ。お前も分かるだろ」
「分かる。俺は広い風呂も欲しい」
「それもいいな。迷宮の汚れを落としたあとで飲む酒は格別だ」
リラがすぐに顔を上げた。
「庭も欲しいです。大剣を振っても、何も壊さないくらい広いの」
「私は台所。自分の好きな料理を覚えてみたいわ」
「私は、悠真くんの部屋の隣」
結衣だけ願いの種類が違い、机を囲む全員が一瞬静かになった。それを破ったのは、ガレスの大きな笑い声だった。
「そりゃ一番大事だな!」
リラが慌てて手を上げた。
「私も隣がいいです!」
「私は……部屋の前でもいいわ。出てきたら会えるもの」
セリカまで加わると、三人の目が揃って悠真へ向いた。
「俺の部屋の周り、全部埋まりそうだな」
「埋めるよ」
結衣の返事があまりにも早くて、悠真は笑ってしまった。悪くない。朝に扉を開ければ好きな相手がいて、夜にもすぐ会える。そんな家のためなら、迷宮にいくらでも潜れる。
ガレスは三人の話を楽しそうに聞き、やがて悠真へ顔を寄せた。
「お前、ちゃんと全部大事にしろよ。強い男の仕事は多いぞ」
「分かってる。俺が欲張ってるんだからな」
「いい返事だ」
悠真は差し出された杯に自分の杯を合わせた。
そのあと、結衣が自分で食べるつもりで切った肉を悠真の口へ向けてきた。素直に受け取ると、彼女は次の一切れまで用意し始める。
「結衣も食べてくれ。皿が減ってない」
「もう一つだけ。さっきのお返し」
悠真は、ガレスたちの視線が刺さるのも構わず口を開けた。結衣の手元をじっと見ていたリラが、次は自分の隣の席に来てほしいと頼んでくる。
トーマが羨ましそうに息を吐く。
「俺も、もっと強くなろうかな」
「まず食べ方を綺麗にしたら?」
ベラに口元のソースを指摘され、トーマは慌てて拭いた。ガレスがまた笑い、酒場の夜は一段と賑やかになった。
悠真は空いた酒瓶を下げに来た主人を呼び止め、同じものを一本買って帰れるか尋ねた。すぐ飲むためではなく、今度この味を頼む時の名を覚えておきたかった。
「気に入ったのか?」
ガレスに聞かれて、素直に頷く。
「昨日のより好きだ。強いけど、あとに残る香りがいい」
「なら覚えとけ。同じ酒でも、樽で少し違うからな」
主人は瓶に残った印を見せ、次に頼む時の呼び方を教えてくれた。受け取った一本を収納へ収めると、セリカがあとで少し味を見たいと言うので、迷宮から帰った日に開けようと約束した。
飲みすぎる前に、ガレスが明日の話へ戻した。
「深層へ行くなら朝からだ。今日はこの辺で切り上げよう」
「分かった。明日はもっと大きな宝を見つけたい」
「俺もだ。お前となら、奥まで見られそうな気がする」
悠真は頷いた。先輩にそう言われると、明日は少し格好をつけたくなる。手に入れた雷も、今度はもっと大きな相手へ試せる。
勘定を済ませると、店主が悠真へ小さな包みを渡した。朝に食べられる干し肉だという。
「気持ちよく飲んでもらったからな。また七人で来てくれ」
「ああ。次もいい酒を頼む」
包みを収納へしまう。戻りたい店が、この街に一つ増えた。
店を出ると、夜風が火照った頬を撫でた。ガレスたちと別れ、四人で銀枝亭へ向かう。満腹のリラは足取りまで幸せそうで、結衣は悠真の腕を抱いたまま離れない。
「今日は、楽しかったね」
結衣が言う。
「ああ。ああいう夜は、何度でも欲しい」
「じゃあ、明日もいっぱい勝って帰りましょう」
お腹を押さえて言うリラに頷いたところで、通りの向こうを歩くガレスの背中が目に入った。
「次も、あの店でいいか?」
振り返った先輩が、大きく手を上げる。同じように手を上げ返して、悠真はリラたちと宿へ向き直った。
宿の前で、セリカが悠真の襟を引いた。近づいた頬へ短いキスが落ちる。
「明日も、格好いいところを見せて」
「任せてくれ」
悠真が答えると、リラは先に玄関を開けた。セリカの赤い頬を見て微笑んだ結衣が、明朝は私も、と悠真へ囁く。
悠真は緩みっぱなしの顔で部屋へ戻り、明日に備えて月鋼剣を磨いた。深層の宝へ届く準備は、もうできている。
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