第54話 君が痛む必要はない
運び込まれた若い御者は、右脚を抱えて歯を食いしばっていた。
雨で滑った荷台から落ちたのだという。膝の下がひどく腫れ、布の間から血が滲んでいる。宿の主人が寝かせる場所を作る間に、結衣は彼の脇へ膝をついた。
「すぐ治します。少しだけ力を抜いてください」
白い光が結衣の手を包むと、傷口が閉じて歪んでいた脚が元へ戻っていく。御者の荒い息が落ち着いた、そのときだ。結衣の肩が小さく跳ねた。
悠真が覗き込んだ彼女の顔は、唇から血の気が引いていた。
「結衣、どうした」
「大丈夫。あと少しだから」
声が震えている。書記の力で見ると、聖女の文字には治療の説明が続いていた。他者の負傷を癒やす。その代わり、治した傷に相当する痛みを術者が受ける。
こんなものを使って王宮で何人も治していたのか。
悠真は結衣の手首を支えた。
「いったん止めてくれ」
「でも、まだ骨が」
「最後まで治せるようにする。俺に任せて」
悠真の目を見て、結衣はゆっくり魔法を弱めた。リラとセリカも駆けつけてきた。事情を察したらしいセリカが、御者の身体を押さえて結衣のための場所を空けてくれる。
光を弱めても、結衣の指は震えていた。悠真は痛みを転嫁する文字へ目を凝らし、その部分だけを選んだ。
「結衣、手を貸して」
「うん」
掌が重なると、彼女の震えが直接伝わってきた。代償の一節へ指を伸ばして痛みの転嫁を消し、そのうえで治癒が安定して働くよう整える。聖女の文字がほどけて、新しい名へ変わっていった。
聖愛。
白い光が結衣の手に戻った。今度は柔らかく、彼女の顔色を奪わない。
「もう一度、やってみて」
結衣が御者の脚へ手を向けると、光が傷の奥まで満ちた。驚いたように膝を動かした男が、痛みが消えたと何度も呟いている。結衣自身も、自分の手と脚を交互に見ていた。
「痛くない……」
「反動は消した。これからは、治しても結衣は傷つかない」
向き直った結衣の目から涙が零れるより早く、彼女は悠真の胸へ飛び込んできた。
「ありがとう、悠真くん」
細い身体を抱きとめる。つい先ほど食堂で手を取った時とは違って、結衣は声を詰まらせていた。その背を支えたまま、彼女の息が落ち着くのを待った。
「今は、俺につかまってていいよ」
「……ずっと一緒にいる」
耳元の声が熱い。リラが嬉しそうに笑い、セリカが御者へ立ち上がれるか確かめた。
「私の時も思ったけど、こんなに簡単に反動を消すなんてすごいわね」
セリカが言うと、リラも大きく頷いた。
「私も、初めて暴れずに力を使えたときのこと、覚えてます」
結衣は涙を拭きながら、二人へも笑顔を向けた。
御者は立ち上がると、何度も脚を曲げて確かめた。
「朝にはまた働ける。親方に迷惑を掛けずに済む。ありがとうございます、本当に」
「今日は休んでおけよ。馬車は逃げないから」
悠真が言うと、主人もその通りだと彼をベッドへ案内した。食堂に残った者たちの拍手を受けて、結衣が少し照れた顔になる。
今夜のことは町でも話すと言う宿の主人に、悠真は結衣の名と、自分たちがグランゼルへ行くことを教えた。そばで顔を上げた結衣が、嬉しそうにそれを聞いている。
翌朝、雨は上がっていた。
四人は宿の裏庭で、聖愛の具合を確かめることにした。結衣はまだ眠たそうだったが、魔法の話になると目が輝く。聖愛そのものは写せないので、悠真は彼女の許可を得て聖光の魔法だけを複写した。
「俺にも使えるようになった」
掌に白い灯りを浮かべると、結衣が近寄った。
「同じ光だ。悠真くんと一緒だね」
「嬉しそうだな」
「嬉しいよ。私の力が、悠真くんの中にもあるんだもの」
妙に甘い言い方だ。掌の光へ目を落とすと、彼女の力で強くなれるというのも悪くない気がしてくる。この光で、何が撃ち抜けるだろう。早く試してみたい。
ただし宿の庭を吹き飛ばすわけにはいかない。木の枝にぶら下げた古い鉄板を狙い、細く絞った光を放つ。乾いた音を立てて、鉄板の真ん中に穴が開いた。
「……一度見ただけで、それ?」
目を丸くする結衣の横で、セリカが腕を組んでどこか得意そうに頷いた。
「悠真に渡すと、たいてい凄いことになるのよ」
「結衣にも同じようにできると思う。魔力を広げすぎず、一点へ集めてみてくれ」
悠真が手を添えると、結衣は言われた通り光を絞って隣の鉄板へ放った。白い線が鉄を貫く。手を下ろすのも忘れて、彼女は光が通った穴を嬉しそうに見ていた。
「できた!」
「いい感じだ」
悠真が褒めると、結衣は笑ってもう一度試した。三枚目の鉄板も綺麗に抜ける。回復の力に気を取られていたが、聖光そのものも十分に強い。
リラが穴の開いた鉄板を持ち上げた。
「これなら遠くの敵もお願いできますね。私が悠真さんのそばを守ります」
「私もそばにいたいな」
「二人とも、戦ってるときは必要な場所へ行くのよ」
セリカが釘を刺すのを笑って聞きながら、悠真は白い光を消した。
鉄板を片づけていると、厨房の若い娘が庭へ出てきた。湯をこぼしたらしく、腕を濡れた布で巻いている。結衣はすぐにその手へ気づいた。
「見せてもらっていいですか」
「大した火傷じゃありません。昨夜も遅くまで働いていらしたのに」
「今は、何度使っても平気なんです」
結衣が布を外すと、赤く腫れた皮膚が現れた。以前なら、結衣の腕にも同じ熱さが走ったのだろう。わずかに強張った指を、悠真が後ろから支える。
「大丈夫。もう痛くならない」
「うん」
光が腕を包むと、赤みがみるみる薄くなっていく。驚いて自分の肌を撫でた娘がもう痛くないと笑い、つられて笑った結衣が悠真へ顔を向けた。
「本当に、怖がらずに使えるんだね」
「ああ。これからも、好きに使っていい」
結衣が自分から悠真の頬へ唇を触れさせた。軽く触れただけなのに、思わず顔が緩む。リラが羨ましそうに声を上げ、セリカが朝食前から甘いと笑った。
練習を終えると、宿の主人が朝食を庭へ運んでくれた。昨夜の礼だという。蜂蜜をかけた焼きたてのパン、卵、厚切りの肉。悠真は遠慮なく、全員の皿へたっぷり取り分けた。
「この宿、帰りにも寄ろうか」
「賛成です!」
即答したリラに続いて、セリカも肉を口に入れたまま頷く。結衣だけが少し考えていた。
「帰りも四人?」
「当然だろ」
「うん。なら賛成」
短い会話なのに満足そうな結衣の隣で、悠真も温かいパンを噛んだ。帰り道にまで楽しみがあるのは、悪くない。
食後、庭の門から昨夜の商人が顔を出した。
「出発は昼前にする。君たちも同じ方角なら、また乗ってくれないか」
「護衛ってことですか」
「ああ。もちろん報酬は出す。昨日の腕を見たら、ほかの誰にも頼みたくなくなった」
悠真が三人を見ると、リラもセリカも頷き、結衣は白い光を小さく指先へ灯した。
「私も、今度はもっと役に立てるよ」
「じゃあ受けよう。グランゼルへ着く前に、少し稼いでおきたい」
いい宿に泊まりたいし、三人へ買いたい物もある。結衣の杖は、旅で先が欠けたままだ。新しい力を使えるようになったのだから、もっと似合う装備を贈りたい。
喜んだ商人が出発の準備へ戻っていく。荷を収納へしまっていると、結衣が袖を引いた。
「悠真くん。さっきの、もう一回いい?」
「さっきの?」
「手を重ねて、魔法を教えてくれたの」
「分からなかったところがあるか」
「ううん。分かった。でも、もう一回」
セリカが吹き出し、リラが自分もと近寄ってくる。悠真は緩む口元を隠さず、結衣の手を取った。
「今ならゆっくりできる」
白い光が二人の指の間で揺れる。悠真が少し手を離すと、結衣はその明かりを小さな輪へ変えてみせた。
「ただの灯りにも使えるんだな」
「うん。夜に読む時、便利なの。眩しくしすぎると周りの人が眠れないから、こうやって」
二人の掌だけを照らす光は、リラの立つ場所からは見えにくい。悠真も同じ形を作って、二つの輪を並べてみた。
「旅の夜に使おう。昨日みたいに、食堂の灯りを最後まで借りなくて済む」
「悠真くんの部屋で、話してもいい?」
「休む前なら。俺も、続きを聞きたい」
頷いた結衣は、光を消しても手を離さない。出発の知らせが来るまで、悠真はその隣へ腰を下ろしていた。
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