第53話 黒板の向こうで見ていた人
湯気の立つ茶が二つ、食堂の隅の机へ置かれた。
宿の主人は雨戸を閉めると、二人の席の灯りだけを残して奥へ引っ込んだ。外を走る馬車の音も途絶えている。結衣の返事を急がせる気はなく、悠真は杯を手に取った。
「学校での俺なんて、そんなに面白いことをしてなかったと思うけど」
「面白いから見てたんじゃないよ」
結衣が少し笑う。
「悠真くん、最後の授業が終わったあと、よく黒板を拭いてたでしょう」
その一言で、白い粉の匂いが頭に戻ってきた。
転移する数か月前の専門学校では、当番が黒板を消し忘れて帰った日に悠真が教室に残ることがあった。翌朝まで文字が残っていると、最初の授業で消す時間がかかる。ついでに拭けば済む話だと思っていた。
「誰も見てないと思ってやってた」
「私は忘れ物を取りに戻ったの。最初は、それだけ」
その日、結衣は教室の扉の前で立ち止まったという。中では悠真が机の紙屑を捨てて黒板消しの粉を落とし、教師の机まで拭いていた。誰かに頼まれた様子もない。
「声を掛けようと思ったのに、悠真くんがすぐ帰っちゃって。次の日、ありがとうって言えばよかったんだけど、私が当番だったわけでもなくて」
「別に礼を言ってもらうようなことじゃなかったしな」
「そう言うと思った」
結衣は杯を置き、悠真が思い出すのを待ってから続けた。
「それから気になるようになったの。黒板だけじゃなくて、誰かが落とした消しゴムも拾ってた。雨の日には入口の水を拭いてたでしょう。転ぶ人がいるからって」
「誰かが滑ってたから」
「うん。その人がいなくなったあとで拭いてた」
自分でも忘れかけていたことを、結衣は驚くほど鮮明に覚えている。悠真は困って笑うしかなかった。
教室のどこへ座っていたか、昼によく何を飲んだか、帰りにどちらの階段を使ったか。幾つか並べたところで、彼女はようやく気づいたように口を止めた。
「……気持ち悪い?」
「驚いてる。でも、そんなふうには思ってない」
答えると、結衣の肩から力が抜けた。今度は悠真のほうが杯を置いて、彼女の顔を見る。
「どうして声を掛けなかったんだ。覚えてくれるくらい見てたなら、俺だって話したかった」
「掛けたこと、あるよ」
「え?」
「春の課題の提出日。ペンを貸してって」
それは覚えている。結衣がペンを忘れるのは珍しいと思いながら予備を渡すと、放課後に返ってきたペンには小さな菓子が添えてあった。
「あのとき、同じペンを鞄に持ってたの」
「借りる必要なかったのか」
「話すきっかけが欲しくて。でも悠真くん、どうぞって渡したあと、すぐ課題へ戻るんだもの」
思わず額に手が行った。あの日は提出直前で、自分の計算が一つずれているのを見つけて焦っていたのだ。結衣の気持ちに気づく余裕など、まったくなかった。
「悪い。あれは俺が鈍かった」
「今なら気づいてくれる?」
茶の匂いと雨の音に包まれた席で、結衣の声だけが近くなる。
悠真は視線を逸らさなかった。
「ここまで聞いたら、さすがに分かる」
「じゃあ、ちゃんと言うね」
彼女は机の上で組んでいた手をほどいた。
「好き。王宮で追い出されたから可哀想だとか、こっちで強くなったから素敵だとか、そういうところから始まった気持ちじゃないの。学校にいた頃から、悠真くんが好きだった」
はっきりと告げられて、胸が熱くなる。あの結衣が、俺を好きだと言った。教室の男子が知ったら、どんな顔をするだろう。
そういえば菓子と一緒に、礼を書いた小さな紙ももらっていた。
「ペンを返してくれた時の紙、ずっと筆箱に入れてたんだ」
「取っておいてくれたの?」
「ああ。ああいうのを女の子からもらったこと、あまりなかったから」
結衣は目を大きくしてから、頬を緩めた。
「そこへ、もっとはっきり書けばよかった」
「そうしたら、課題が手につかなかったかもしれない」
声を立てて笑う結衣につられて笑いながら、悠真は机の上の彼女の手を見た。今なら、自分から取れそうな気がする。
「ありがとう。そんなに前から好きでいてくれたなんて、嬉しい」
結衣は唇を結び、目を潤ませた。
「返事を急がせたいわけじゃないよ。でも、知らないままでいられるのは嫌だった。もう、見てるだけで終わりたくない」
「分かった」
悠真が差し出した手を、結衣は迷わず握ってきた。冷えていると思った指は、茶の熱が移って温かい。
「俺にはリラとセリカがいる。それでも結衣に来てほしいって言ったのは、ただ同級生だからってだけじゃない」
「……うん」
「再会して嬉しかったし、もっと一緒にいたい。今の結衣のことも知りたいんだ」
「全部、教えるよ」
返事が早すぎる。
「少しずつでいい。旅は続くんだから」
「じゃあ、明日も話していい?」
「明後日もな」
結衣は頷いて、つないだ手を自分の頬へ寄せた。離そうとすると少しだけ引き留められるので、そのまま彼女が顔を上げるのを待つ。
しばらくして階段が軋み、水を取りに来たらしいセリカが二人の手を見て足を止めた。
「あら。邪魔した?」
「いや、学校の話を聞いてたんだ」
「学校の話でその距離になるのね」
呆れた顔をしながらも、セリカは怒ってはいないらしい。厨房の脇から取った水差しを手に、空いた椅子へ腰を下ろした。
「リラ、あなたたちがいつ戻るか気にしてたわよ。先に寝るようには言ったけど」
「すぐ戻る。セリカも聞くか、俺がどれだけ目立たなかったか」
「興味あるわ。私は強くなった悠真しか知らないもの」
結衣が嬉しそうに頷く。
「悠真くん、授業で当てられると短く答えるの。でも、先生が困っているときは、説明を足してくれた」
「そんな話までしなくていい」
「聞きたい。続けて」
セリカまで身を乗り出してきた。二人分の視線を浴びると、巨大な魔物の前より逃げ場がない。
ペンを借りる前の日に、お礼の菓子を三軒の店で迷って選んだことまで結衣が話すと、セリカはそこで悠真を見た。
「借りる前から、お礼を三軒も迷ってたのね。それで、おいしかった?」
「うまかったよ。甘すぎなくて」
「よかった。今日のパンも、同じくらいの甘さにしたの」
悠真が昼のパンの礼を言うと、結衣は次も選ばせてほしいと答えた。
「今度は悠真が、何か選んであげたら?」
机の下で、セリカが悠真の膝を軽く押す。その仕草に気づいた結衣が、握っている手を少し緩めた。
「セリカさんも、悠真くんのこと大好きなんだね」
「ええ。だから、あなたにも簡単に全部は譲らないわ」
「私も譲りたくない」
穏やかに見つめ合う二人の間で、悠真は水を一口飲んだ。
「俺がここにいることも忘れないでくれ」
「忘れるわけないでしょ」
「ずっと見てるよ」
同時に返され、観念して笑うと二人もつられて笑った。探り合っていた二人に、俺をからかうという共通の楽しみができたらしい。
階段を上がると、部屋の扉からリラが顔を出した。眠そうな目が悠真を見つけた途端、ぱっと笑顔になる。
「おかえりなさい。お話、終わりました?」
「ああ。待っててくれたのか」
「少しだけです」
頭を撫でてやると、リラは気持ちよさそうに目を細めた。隣で見ている結衣が羨ましそうな顔をしているので、空いた手を彼女の髪へ添える。
結衣が息を止める。
「……今のは、覚えておくね」
「そこまで大事にしなくても」
「大事だから」
まっすぐ言い切られると、何も返せない。悠真は三人へおやすみを告げ、自分の部屋へ入った。
ベッドへ横になると雨音がまた耳につき、紙のことを聞いた時の結衣の顔が浮かんできた。あの短い礼のあとに、今日聞いた言葉が続いていたのか。もう一度読みたくなって、悠真は枕元の明かりをしばらく眺めていた。
翌朝は、一緒に温かい朝食を食べよう。旅を急ぐばかりでなく、結衣が楽しめる時間も作りたい。そう思って目を閉じたところで、階下から切迫した声が上がった。
「誰か治癒術師は! 荷車から落ちたんだ、脚が!」
悠真が扉を開けたときには、結衣も部屋から出てきていた。眠る前の甘い顔が引き締まっている。
「私が診ます。悠真くん、一緒に来て」
頼まれるまでもなかった。悠真は彼女と並んで階段を駆け下りた。
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