第40話 街が呼ぶ名前
巨獣が立ち上がると、広間が狭くなったように感じた。
熊に似た体は、悠真の背丈の倍ほどもある。二本の氷角が天井をこすり、白い欠片を落とした。咆哮の余韻が、まだ胸の奥で震えている。
悠真は月鋼剣を握り直した。
強い。だからこそ、試すにはちょうどいい。
「リラ、足を止められるか?」
「はい!」
「セリカは角を焼いてくれ。俺が頭を狙う」
巨獣が突進した。
床を割りながら迫る重い体の正面へ、悠真は障壁を三枚重ねて置いた。その一枚目があっけなく弾け、二枚目にもひびが入る。
思ったより重い。
思わず笑みがこぼれる。ならば、こちらも力を上げればいい。
三枚目を厚くすると、巨獣の頭がようやく止まって角から霜が噴き出した。その脇へリラが飛び込み、獣王の大剣を脚へ叩きつける。
毛皮の下から鈍い音が響く。
巨獣の膝が折れた。
「いまです!」
角へ絡みついたセリカの炎で、白かった氷が赤く染まって湯気を噴き上げる。獣が首を振って炎を散らそうとした瞬間、悠真は風歩で頭の上へ迫った。
月鋼剣に身体強化の力を乗せる。
頭蓋へ落とした一撃は、刃の重さ以上の衝撃を生んだ。巨獣が床へ伏せ、広間を震わせる。
まだ動こうとする顎へ、火球を突き込む。
内側から赤い光が漏れた。
巨体が一度だけ跳ね、それから動かなくなる。
悠真が着地して息を吐くと、頭を打ち据えた場所から床に亀裂が広がっていた。月鋼剣に欠けはなく、腕にはまだ一撃の手応えが残っている。
「やりました!」
リラが大剣を下げ、悠真へ駆け寄る。目の前でぴたりと止まり、撫でてほしそうに頭を差し出してきた。
「今の剣、すごかったです。頭が床まで沈みました」
「リラが止めてくれたから、狙いやすかった」
「もっと褒めてください」
遠慮のない催促が可愛い。悠真は耳の間を撫でて、望まれるままに褒めてやった。角の残骸を拾うセリカの目が、こちらを向いている。
「私もちゃんと燃やしたわよ」
「もちろん。紅蓮剣を買ってよかった」
「剣だけ?」
悠真は彼女をまっすぐ見た。
「セリカがいてくれてよかった」
頬を赤らめたセリカが、折れた角を悠真へ押しつけてきた。
「だったら、次も頼って。炎を集めやすくなったところなの」
巨獣の奥には、下層へ続く門があった。
門の隙間から冷気が流れ、霧が足元へ沈んでいる。悠真が手を近づけると、障壁の外側へ薄く氷が張った。これまでよりずっと強い冷たさだ。
リラが鼻を動かした。
「人の匂いは、ここまでです。下にはありません」
「なら、今日は戻ろう」
悠真の言葉に、セリカが少し驚いた顔をした。
「まだ戦えそうだけど」
「俺も戦いたい。でも、戻って救助できたことを伝えたいし、防寒具も欲しい。何より、麦穂亭の肉料理が食べたい」
リラの尾が勢いよく振られた。
「賛成です!」
「最後のが本音ね」
「全部本音だよ」
巨獣の魔石と角は、悠真がまとめて収納した。厚い毛皮も、高値で売れるだろう。
門の前へ目立つ印を残し、三人は来た道を引き返した。
途中で休んでいた冒険者たちへ下層の様子を伝えると、皆が素直に頷いた。門から流れる冷気の話を聞いて、今日はここで引き返すと決めた組もある。
入口で待っていた男が、三人を見て大きく手を上げた。
「全員、地上へ出したぞ!」
「ありがとう。こっちも中層までは片づけた」
「中層まで? あの氷角の大熊もか?」
悠真が角を少し見せると、男は笑い声を上げた。
「こりゃ今夜、酒がうまいな!」
彼らと地上へ出た途端に冷たかった空気が柔らかくなり、夕方の光が悠真の顔を照らす。
リラが眩しそうに目を細める。
「帰ってきましたね」
「ああ。今日は腹いっぱい食べよう」
セリカが彼の隣へ並び、紅蓮剣の柄を軽く叩いた。
「私、甘い物も食べたい」
「いいな。二つ頼もう」
「三つです」
リラの即答に、三人で笑った。
ギルドへ戻ると、広間にいた者たちが一斉に振り返った。
フィナが受付から飛び出してくる。
「お帰りなさい! 皆さんが、悠真さんたちに助けられたって」
彼女の視線がリラとセリカにも向き、二人とも胸を張った。受付へ向かう悠真には、道を空けた冒険者たちが背を叩いては助かった仲間の名を教えてくれる。
奥からローデンが現れた。
「ちょっと来てくれ。渡す物がある」
悠真は別室へ行くのかと思ったが、ギルド長はその場で新しい証を差し出した。
刻まれている文字は、C。
「お前たちは今日からCランクだ。救助と討伐の実績は十分すぎる。これで、受けられる仕事も増える」
周囲から声が上がった。
「また上がったぞ!」
「そりゃそうだろ。白霧からあれだけ連れ帰ったんだ」
悠真が受け取った小さな金属は、手の中でやけに重く感じられた。
近くにいた男が仲間を呼んで証を覗き込もうとするので、わざと胸の高さへ掲げてやる。男たちの目が証から悠真の顔へ移り、その一人が「参ったな」と笑った。
「うちの隊にも来ないか。お前ほどの奴なら、頭が喜んで迎えるぞ」
悠真は隣の二人を見た。リラは獣王の大剣を抱え、セリカは紅蓮剣を腰へ下げている。
「俺たちは三人で白霧の底を目指す。それが終わったら、受ける仕事を考えるよ」
「三人のままか。羨ましい組だな」
男はセリカへも笑いかけた。彼女が「強いでしょう」と答え、悠真は今度こそ顔が緩むのを隠せなかった。
それから、ローデンへ向き直る。
「ありがとう。次は下まで行ってくる」
「頼もしいな。ただ、明日は一日休め。すぐ潜られたら、救われた連中がお前に礼を言う暇もない」
ローデンの声に、広間が笑った。
報酬の袋を持ってきたフィナに魔石と素材を渡すと、彼女は目を輝かせた。
「この大きさ、買い取りの担当が喜びます」
「俺も喜べる額にしてくれ」
「はい。たっぷり喜んでもらいます」
約束通り、袋は手応え十分だった。
麦穂亭の夕食には、大きな肉の塊が出た。
メルが皿を置き、腰に手を当てる。
「今日は特別だよ。うちに泊まってる英雄さんたちに、けちな皿は出せないからね」
悠真は肉の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「英雄って呼ばれると、食べにくくなるな」
「だったら、お腹の空いた若い子たち。ほら、冷めるよ」
リラはもう食べ始めていて、その皿へセリカが笑いながら野菜を足している。悠真も遠慮なく肉を切り、大きく頬張った。
うまい。
迷宮で温め直したパンとは違う、脂と香辛料の濃い味が口へ広がる。やっと、帰ってきた気がする。
隣の席から、助けた剣士たちが杯を上げた。
「悠真と、その仲間に!」
周りも声を合わせる。
杯を上げ返してリラとセリカに向けると、二人も笑って器を寄せてくる。軽い音が重なった。悠真は助けた剣士たちにも席を勧めた。
途中、さっきまで大声で話していた剣士が急に静かになった。その視線を追うと、迷宮で足を折った女性が宿の入口に立っている。杖を借り、もう片方の肩を仲間に支えられていた。
「どうしても、顔を見てお礼を言いたくて」
女性が差し出したのは、セリカの上着だった。洗って乾かした布から、石鹸の匂いがする。
「今夜、ここで食べられるの、あなたたちのおかげです」
上着を受け取ったセリカが、空いている椅子を勧める。もう一人分の料理は、悠真がメルへ頼んだ。
「礼は聞いた。あとは一緒に食べよう」
女性が椅子へ座ると、隣の若い剣士が少し場所を空けた。迷宮で石を叩いていた男だ。その彼が、今度はセリカの席へ身を乗り出してくる。
「あの炎、俺たちの方には来なかったよな。どうやったんだ?」
「蛾だけを狙ったの。あなたたちが近くにいたから、剣を向ける場所は少しずらしたけど」
「火を飛ばすと、壁まで真っ赤になるものだと思ってた」
セリカが腰の紅蓮剣を示し、狙った範囲へ炎を集められると話す。それを聞いた若者は、両手で蛾との距離を作ってみせながら周りへ戦いの様子を語り始めた。
悠真は彼の話を聞きながら、セリカへ集まる驚いた顔を眺めた。彼女の席には、質問が途切れない。
食事の終わりに、甘い焼き菓子が三つ並んだ。リラが自分の皿を悠真へ寄せて最初の一口を分けてくれると、セリカも彼の前へスプーンを差し出した。
「こっちは果実入り。食べて」
悠真は果実入りの菓子を受け取り、自分の皿を二人の方へ寄せた。
「明日は買い物に行こう。俺も欲しい物がある」
「何が欲しいんですか?」
リラが聞く。
「いい服。二人と歩くなら、俺も格好をつけたい」
セリカがぱっと顔を上げた。
「それなら、任せて。朝から付き合ってもらうわよ」
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