第36話 霧を裂いて進め
白霧の迷宮へ続く丘には、昼間なのに冷たい風が吹いていた。
入口に立った悠真の足元へ、奥から霧が流れ出してくる。いつもは石の階段を薄く覆う程度の霧が、今朝から人の腰まで膨らんでいるという。戻ってきた冒険者の話では魔物の数も多く、知っている道さえ見失いやすいらしい。
フィナから渡された水と包帯も収納へ入れてあるから、怪我人を見つけても手当てには困らない。
「冷えますね」
リラが耳を揺らす横で、セリカは紅蓮剣の柄に触れて階段を見た。
「私の炎が役に立ちそう。霧ごと追い払えないかしら」
「中に人がいるから、広く燃やすのは様子を見てからにしよう」
「分かってる。見つけた魔物からよ」
悠真は頷いて石段を下りた。
入口の広間には、これから進もうとする冒険者が十人ほど集まっていた。一本の長い縄を、全員が片手で握っている。
見慣れない光景に、リラが首をかしげた。
「その縄、何に使うんですか?」
「霧の日の決まりだ。手を離さなきゃ、誰もはぐれない」
答えたのは先頭の男だった。いつもの薄い霧なら、それで奥まで行けるのだろう。けれど今朝は腰まで霧が満ちて、十人並んだ列の最後尾はもう白くかすんでいる。
「中は魔物が多いって聞いた。縄を握ったまま戦えるか?」
「そこなんだ。放せば霧にまかれる。握っていれば剣が片手になる。おまけにこの長さじゃ、後ろが襲われても前は気づかん」
「なら、前は俺たちが引き受ける。縄は握ったまま、少し離れてついてきてくれ」
先頭の男は悠真の札とリラの大剣を見て、黙って頷いた。
話がまとまると、悠真は火術で石壁へ小さな黒い点を焼きつけ、進む方向を示す印をその横へ指で描き足した。
「帰りはこれをたどってくれ。霧が濃くなっても、壁は動かない」
焦げた印に先頭の男が顔を近づける。
「焼き印か。刃で刻んだ傷より、ずっと見やすいな。霧の中でも黒く浮いて見える」
セリカが楽しそうに笑い、悠真の隣ではリラが誇らしげに胸を張っている。
「悠真さんは、こういうのも得意なんです」
男たちが縄を握り直したのを見届けて、三人は先に霧の通路へ入った。
広間を抜けると、霧が急に濃くなった。
悠真の明視なら薄暗さの中でも壁や床の輪郭は捉えられるが、霧そのものがここまで厚いと遠くまでは見通せない。代わりにリラが鼻を動かし、進む方向を確かめた。
「人の匂いがいくつもあります。それと、獣の匂い」
「近いか?」
「はい。待ち伏せしてます」
悠真が月鋼剣を抜くと、セリカの紅蓮剣にも炎が灯った。二人の剣を見て、背後の冒険者たちが足を止める。
低い唸り声が重なる。
霧を割って白い狼が飛びかかってきた。踏んだ床に薄く氷が広がる。
悠真は剣を振った。
狼の体が横へ弾けて石壁へ叩きつけられ、手に伝わった重さは一瞬で消えた。左右ではリラの大剣が別の一頭を床へ沈め、セリカの炎が三頭目をのみ込んでいる。
息をつく間もなく、霧の奥に赤い目が次々と灯った。
「多いな」
「たくさん斬れます」
嬉しそうに答えたリラの構えには、もう迷いがない。その背を守れる場所に立ち、悠真は襲ってくる狼をまとめて受けた。
爪が障壁を打つ。硬い音に冒険者が悲鳴を上げたが、壁は揺れもしなかった。
「そこにいれば大丈夫だ。焦って出てこないでくれ」
そう言い残して、障壁の外へ踏み込んだ。
身体強化に風歩を重ねる。
狼が口を開けるより速く、悠真は群れの間を抜けて月鋼剣で白い背を裂いた。どの狼も、のろく見える。噛みつこうと首を引くのを見てからでも、余裕で剣を合わせられた。
風歩、最高だな。
「セリカ、右を頼む!」
「任せて!」
金色の炎が霧を押し広げる。セリカの剣が一度巡っただけで、その先の狼たちが燃えながら倒れていった。熱をものともせず、彼女は笑っている。
最後に残った大きな一頭を、リラが迎え撃つ。
体当たりを受け止めた大剣が鈍く鳴り、彼女の足元で石が割れる。それでも体は下がらず、狼の方が首をすくめた。
「悠真さんの前に、出てこないでください」
振り上げた一撃が、狼を霧ごと跳ね飛ばした。
静けさが戻る。
悠真が剣を下げて振り返ると、二人とも怪我はなかった。リラは満足そうに尾を振り、セリカは紅蓮剣の刃を愛しそうに眺めている。
後ろで誰かが息を吐いた。
「今の群れを、三人で……」
「白霧狼だぞ。俺たちが一頭ずつ誘い出して倒すやつを」
先頭で縄を握っていた男が、ほっとした顔で悠真へ駆け寄った。
「縄を握ったまま、あの数に囲まれてたらと思うとぞっとする。前を任せて正解だった」
「まだ先に人がいる。話は帰ってからにしよう」
「ああ。俺たちは、ここまでの道を見張る。怪我人が来たら運んでやる」
「頼む。それなら奥の人を連れ戻す時、ここで引き継げる」
列の後ろにいた槍の男が、砕けた床を見つめている。
「獣人の姉さん、その剣、俺でも持てるか?」
リラは悠真の顔をうかがってから、柄を男へ差し出した。両手で受け取った途端に男の膝が曲がり、刃が床へ落ちかける。それをリラが片手で支えたので、周囲から笑いが漏れた。
「これを振り回してたのかよ」
「悠真さんが、力を使えるようにしてくれたんです」
男は片手で大剣を支えるリラを見て、それから悠真へ顔を向けた。
「その剣を振れるほど、強くしたのか」
「今の一撃はリラの腕前だ。見ただろ」
男が深く頷くと、リラは大剣を肩に担ぎ直した。
「次は持つだけじゃなく、振れるようになるといいな」
悠真が男へそう言うと、リラが笑いながら首を振った。
「これは私のです。貸すのは、今だけですよ」
大切そうに柄を撫でる彼女へ、悠真も笑い返した。
道の見張りを彼らに任せて、狼の魔石を手早く集める。赤みを帯びたその石を見せると、セリカが指先で一つを転がす。
「新しい剣の初仕事としては、上出来ね」
「すごくきれいでした。炎が、花みたいで」
リラに言われ、セリカは一瞬きょとんとした。
「ありがとう。あなたの一撃も、見ていて気持ちよかったわ」
悠真はその会話を聞きながら、壁へ帰り道の印をつけた。
道を進むと、分かれ目の壁に剣の傷が見えた。先に入った者がつけた目印らしいが、両方の通路に同じ印がある。
リラは片方へ鼻を向け、それから首を振った。
「こちらは、来た道へ戻る匂いです。人が何度も往復しています」
悠真がもう一方の床へ目を落とすと、霧の薄い所に泥の跡が残っていた。足跡は下へ続く階段へ向かっている。
「迷って戻ってきたのか。階段の方を見よう」
セリカが炎を少し高く掲げると、壁に新しい擦り傷が浮かんだ。その下には革袋の切れ端が落ちている。落とした者が近くにいるかもしれない。
悠真は見張りへ戻る道に印を足し、切れ端も収納へしまった。下へ進む前に、ここで一息入れておこう。
温かい飲み物を出すと、セリカが両手で器を受け取った。リラは彼の横へ座り、肩をぴったり寄せてくる。
「寒い?」
「少し。でも、こうすると暖かいです」
彼女の尾が悠真の膝へ触れる。それを見たセリカが口を開きかけて、飲み物で唇を隠した。
悠真は空いている方の隣を軽く叩いた。
「セリカもこっちに来ればいい。壁から冷気が来る」
「……そうね」
セリカが腰を下ろすと、リラは彼女の剣が床へ当たらないよう、自分の荷物を少し寄せた。
器を覗いていたリラが、悠真へ顔を向けた。
「悠真さん、セリカさんにぴったりの剣を選びましたね」
「私が握ったのを見て、すぐ買うって言ったのよ。心の準備くらいさせてほしかったわ」
「嬉しそうだったからな」
悠真が言うと、セリカは彼の肩を肘で軽く押した。
「そういうところよ」
何が、と聞く前に、リラの耳が動いた。
悠真も器を下げて耳を澄ますと、遠くで何かを打つ音がした。数回鳴ってはしばらく途切れ、また弱く響く。
セリカが立ち上がる。
「剣で石を叩いてる?」
リラは霧の向こうを見つめた。
「人の匂いがします。血の匂いも」
悠真は飲み物を収納へしまい、月鋼剣を抜いた。
「行こう。呼んでる」
階段の下から、かすれた助けの声が届いた。
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