第34話 風より速く、君のところへ
白い大兎は、木々の間を矢のように駆けていた。悠真がその姿を捉えた時には、もう道の反対側へ移っている。リラが耳を立て、セリカが剣へ手をかけた。
「速いわね」
「ああ。ちょっと欲しい力だ」
悠真の目には、兎の足元へ浮かぶ文字が見えていた。疾走。魔力を足へ集め、短い間だけ移動を速める能力らしい。
兎が後ろ脚で地面を蹴り、こちらへ飛びかかってきた。
その鼻先を悠真の障壁が受け止めた。跳ね返った白い体がすぐ別の方向へ走ろうとするが、能力はもう複写してある。
疾走の文字へ指を滑らせて、速さを大きく高めながら無理なく曲がれるよう整えていく。風歩という名が浮かぶと同時に、足が驚くほど軽くなった。
悠真は一歩を踏み出した。
景色が後ろへ流れた。
次の瞬間には、逃げる兎の前に立っている。自分でも驚くほど速い。だが体が置き去りになる感覚はなく、止まりたい場所で自然に止まれた。
「いいな、これ」
月鋼剣を振れば、白い大兎は一撃だった。悠真が道へ戻っても、リラとセリカはまだ彼のいた場所を見つめている。
「こっちだよ」
声をかけると、二人が同時に振り向く。
「いつ戻ったんですか?」
「今。新しい力だ」
笑ってもう一度風歩を使うと、少し先の木の根元まで一息だった。そこで止まって戻ってくる足は、きちんと地面を蹴っているのに跳ぶように軽い。
気持ちいい。
木の幹を避けて走り、戻る時には小さな石の手前で止まってみた。曲がるのも止まるのも、思う通りにできる。次は月鋼剣を構えたまま、細い木立を抜けた。
「悠真さん、すごいです!」
声を弾ませるリラの隣で、セリカも感心したように頷いた。
「それなら、追いつける魔物はほとんどいないんじゃない?」
「こっちが追いかけるのにも使えるな」
悠真は白い大兎を丸ごと収納した。帰り道でも、何か走る理由が欲しくなる。
道が川べりへ出たところで、先の方から悲鳴が聞こえた。
橋が揺れていた。
川に架かる木の橋の中央で、人の背丈ほどもある石臼が板を割り、半分ほど沈み込んでいる。転がして運ぶ途中だったらしい。その向こうには、渡りきれなかった旅人たちが取り残されている。
岸の兵士が、動くなと向こう岸へ叫んでいた。割れ目は石臼の重みで少しずつ広がり、誰かが身じろぎするたび、橋全体が軋む。
名乗る時間も惜しんで、悠真は崩れかけた橋の下へ障壁を差し込んだ。
木の裂ける音が弱まった。
「渡れる人から、一人ずつこっちへ。荷物は置いていけ。後で運ぶ!」
「だが、石臼が――」
「俺がどかす」
風歩で駆け出すと、橋の中央まではすぐだった。蹴るたびに板は軋むが、下から障壁が支えている。石臼の横へ着くなり手を触れ、丸ごと収納する。
重みが消え、橋が大きく跳ねた。
その揺れに、石臼の向こうで待っていた女商人が足を滑らせた。考えるより先に、悠真は風歩で距離を詰めていた。落ちかけた腕をつかんで引き寄せ、そのまま安全な板の上へ戻す。
「立てるか?」
「は、はい……ありがとう」
女商人は真っ青な顔で頷いた。悠真が一人で歩ける所まで付き添うと、あとは自分の足で岸へ向かっていく。
リラが向こうから手を振っていた。
「こちらです! 急がなくて大丈夫です!」
リラは渡ってきた人を支えて、岸の広い場所へ案内している。セリカの方は、長い荷物が引っかかった所へ剣を入れて絡んだ縄だけを焼き切っていた。言われる前に、二人とも自分にできることを始めている。
悠真が向かったのは、最後尾の老夫婦だ。足を痛めているらしい夫は歩みが遅く、支える妻と二人分の重さが同じ板にかかっている。
「俺が運ぶ。少しだけつかまってくれ」
夫を背負って風歩で岸へ戻り、下ろしたその足で折り返して妻の手を引く。目を丸くした彼女には、悠真の速さを疑う暇もない。
橋の端へ戻ると、後ろで大きな音がした。
振り向いた先で、支柱の一本が折れていた。障壁へ魔力を足して落ちる部分を受け止め、対岸を見る。残っているのは、岩場にいる二人だけだ。
「悠真、まだいるわ!」
セリカが叫ぶ。
「見えてる!」
橋の板はところどころ抜けているが、足を置く場所はまだ残っている。風歩なら、その隙間を大きな歩幅で越えられる。
走った。
川風が顔を打ち、景色が白く流れる。対岸で待っていた男が何か言いかけるのも構わず、悠真はその腕をつかんで先に一人を連れ戻した。
すぐに引き返すと、残った男は足元の割れ目を見たまま動けずにいた。荷物は捨てていいと言っても、手から包みが離れない。
悠真は隣にしゃがみ、男の背へ腕を回した。
「それも持ってていい。俺につかまれ」
「でも、重くなる」
「あんたと包みくらい、変わらないよ」
抱え上げられた男は目をつぶったが、もう悠真を押し戻そうとはしなかった。障壁で支えた板を蹴り、風歩で一気に岸へ駆け抜ける。
足が地面へ届いたと分かっても、男はしばらく包みを抱えたままだった。
最後の男を岸へ送り届けた途端、橋の中央が大きく沈んだ。悠真は全員が離れたのを確かめてから障壁を解いた。
折れた木が川へ落ち、白い水しぶきが上がった。
岸には、誰も欠けずに立っていた。
悠真は息を吐いた。風歩を何度も使ったが、体はまだ軽い。間に合った。それに、この足はやっぱりいい。
「全員、いるな?」
兵士が人数を確かめ、何度も頷いた。
「いる。全員だ……あんた、何者なんだ?」
「悠真。リーデンの冒険者だ」
岸の人々は顔を見合わせた。その名には、誰もぴんと来ないらしい。リーデンの中なら、もう少し知られてるんだけどな。
「一瞬で橋を往復したぞ」
「あの石臼まで消した。あんなことができるのか」
驚きの声が重なり、やがて歓声になった。収納していた石臼を岸へ出してやると、粉屋の親子が深く頭を下げる。新しい水車小屋へ運ぶ途中だったらしい。悠真がリラとセリカのところへ戻っても、親子はまだこちらを見送っていた。
リラが顔を向けた石臼のそばで、最後に渡った男の連れが仲間の数を数え直して胸をなで下ろしている。
「悠真さん、あの人も手を振ってます」
腕を上げて応える悠真の横では、セリカが助けた人たちに彼の名前を教えていた。遠くから、自分の名が返ってくる。悪くない。
浮かれた気分のまま、岸に散らばった荷物を拾うのを手伝う。
そこへ、先ほど助けた老夫婦が礼を言いに来た。妻が握っていた小さな包みには、焼き菓子が入っていた。ありがたく分けてもらって、リラとセリカへ一つずつ渡す。
「働いた後は、甘いものだな」
「まだ帰り道なのに、たくさんいただきましたね」
嬉しそうにかじるリラを見て、セリカも笑いながら悠真の隣へ腰を下ろす。橋で少し遅れたが、町へ戻る時間は十分にある。
その時、革の前掛けを腰に下げた、太い腕の男が近づいてきた。橋のたもとで荷物を守っていた男だ。
「いい剣の使い手が揃ってるな」
男の視線は、特にセリカの剣へ向いていた。悠真は顔を上げる。
「鍛冶師か?」
「ああ。さっき、縄を焼き切った炎を見た。あの強さを普通の剣へ流していたら、長くは持たん」
セリカが頷いた。昨日も同じことを言われたばかりだ。
「いい剣を探しているの。でも、なかなか合うものがなくて」
「だったら、俺の工房へ来い。見せたい物がある」
悠真は思わず腰を浮かせた。ちょうど欲しかった話だ。収納から石切り場の鉱石を出すと、鍛冶師の目が光る。
「それも面白いな。持ってきてくれ。使い道を見てやる」
「明日、三人で行っていいか?」
「朝から開けておく。赤い煙突の工房だ。通りで聞けばわかる」
悠真が頷いて隣を見ると、セリカの顔には隠しきれない期待が浮かんでいた。
「楽しみだな」
「ええ。私の炎に合う剣、あるといいわね」
鍛冶師はセリカの剣を少し抜かせ、刃の根元を確かめた。
「いまの剣も手入れしておこう。新しい方を選んでも、悪い物じゃないからな」
「お願い。長く使ってきたの」
セリカの返事を聞き、悠真も頷いた。古い剣を預ける時間も、取っておかないとな。
鍛冶師と別れて、三人は町への道に戻った。
町の屋根が見えてくると、セリカはその中から赤い煙突を探し始めた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや☆からの評価をいただけるとうれしいです。
感想も楽しみにしています。




