第2話 奪わず手に入る力
王都の南門を抜けて間もなく、馬の悲鳴が聞こえた。
街道沿いの畑で人が走っている。倒れた荷車のそばに、首から肩にかけて恐ろしく筋肉が盛り上がった、狼に似た魔物が背中を丸めている。
悠真は鉄剣の柄を握った。さっき受け取ったばかりの剣だ。握り方が合っているかさえ自信がない。
「そこの若いの、こっちへ来い!」
畑の男が、柵の内側から手を振った。悠真が駆け込むと、男は小さな鐘を猛烈に鳴らす。近くの小屋にも同じ鐘があり、二人の男が顔を真っ赤にして打ち続けていた。
「音で追い払うんだ。岩狼はいつもならこれで山へ帰る。腹を空かせてなけりゃな」
岩狼は鐘にひるむ様子もなく、倒れた荷車へ前足をかけた。車輪の下では、商人らしい男が足を押さえている。
悠真は男の顔を見た。痛そうに何かを叫んでいるが、鐘の音が大きすぎて聞き取れない。
「鳴らすより、先にあの人を運んだ方がよくないですか」
「近づいたら食われる!」
「みんな同じ側から声かけても意味ないでしょう! 反対側から声かけませんか?」
畑の男が鐘を止めた。ようやく商人の悲鳴が聞こえる。
岩狼は荷車を揺らし、商人の脚へ鼻を寄せた。このままでは間に合わない。悠真は落ちていた石を拾い、狼の背へ投げつけた。
乾いた音がした。
獣がこちらを向く。黄色い目を正面から見た瞬間、背中が冷たくなった。
同時に、奇妙な文字が視界へ浮かんだ。
『岩狼 身体強化』
悠真は息を止めた。狼の胸に重なる文字は、日本語で読める。王宮の水晶に映ったときと同じ、不思議な光だった。
視線を集中すると、さらに小さな文字が増える。
『筋力と反応速度を上昇させる。使用中の身体能力、三倍』
「能力が、読める……?」
自分の手を見る。そこにも文字が浮かび上がった。
『朝倉悠真 書記』
『閲覧 複写』
意味が分かった途端、指先が熱くなる。目の前の文字を手元へ写し取れる。そう感じた。
岩狼が柵へ突進した。細い木が砕け、畑の男が尻餅をつく。
悠真は狼の文字へ手を伸ばした。
「複写」
声に合わせて、淡い光が指を伝った。胸の奥に熱が落ち、腕から脚まで一気に力が満ちる。
襲いかかってくる牙が、さっきより遅く見えた。
悠真は横へ踏み出した。軽い。足が地面を蹴る感覚に、体が追いついてくる。岩狼の牙は上着をかすめ、すぐ隣の柱を噛み砕いた。
これなら動ける。
悠真は剣を抜き、獣の肩へ振り下ろした。刃が厚い皮を割り、硬いものにぶつかる。手には強い衝撃が返ってきたが、腕は止まらなかった。
岩狼が転がった。
自分で振った剣の力に、悠真の方が驚く。狼はすぐ起き上がろうとした。血に濡れた牙を見せ、低い唸りを漏らす。
ここで逃がせば、また人を襲う。
悠真は剣を握り直し、獣へ向かった。恐怖は残っている。ただ、今度は体が強張らなかった。足を使い、噛みつこうとする頭を避けて剣を振るう。
重い手応えのあと、岩狼は動かなくなった。
鐘の音も悲鳴も止まっている。悠真の荒い呼吸だけが、妙にはっきり聞こえた。
「おい……今の、見たか」
畑の男が柵の残骸から立ち上がる。
「一人で岩狼を倒しやがった。若いの、お前、何者だ?」
「俺にも、まだよく分からないです」
それだけ答え、悠真は商人のもとへ急いだ。
車輪の下に脚が挟まっている。骨が折れているのかは見た目で判断できないが、荷車をどかさなければ始まらない。
「持ち上げます。引っ張れますか」
「そりゃ男四人は要るぞ!」
畑の男の声を聞きながら、悠真は荷台の端へ手をかけた。体の中にある熱を意識する。身体強化の文字が、視界の端で光った。
荷車が浮いた。
「うおっ!」
商人が自力で脚を引き抜き、畑の男たちが抱えて運んだ。悠真はゆっくり荷車を下ろす。腰にも腕にも痛みはない。
四人分。そう聞いたばかりなのに、一人で持ち上がった。
悠真は口元が緩むのを止められなかった。
これは使える。王が何と言おうと、この力なら仕事を選べるし、自分を守れる。
商人は草の上に座り、何度も頭を下げた。
「命拾いした。もう駄目かと思ったよ。あいつ、馬より俺の方を狙いやがって……」
「立てそうですか」
「少し休めば歩ける。荷物もほとんど無事だ。お前さんのおかげだよ」
畑の男が、水の入った木の器を持ってきた。礼を言って飲むと、喉がひどく渇いていたことに気づく。
「鐘だけじゃ駄目だったな」
男が壊れた柵を見ながら言った。
「普段の岩狼なら、鐘を三つも鳴らせば尻尾を巻く。腹を空かせた奴は、音より餌を見るんだ。そういう時は誰かが餌より近くで気を引くしかないんだが……分かってても、足が出なくてな」
「俺も、石を投げた後でちょっと後悔しました」
「それで一人で倒しちまうんだからな。あんた、戦い慣れてるんだな」
悠真は水を飲み込んでから首を振った。
「実は、初めてです」
男たちは顔を見合わせた。商人だけが、冗談だと思ったらしく大きく笑う。
「初めてであれなら、先が恐ろしいな。どうだ、宿は決まってるか。すぐ先に俺の馴染みがいる。今夜はそこで食おう。礼をさせてくれ」
「お願いします。俺、朝倉悠真といいます」
名乗ると、商人は聞き慣れない響きを確かめるように、悠真、と繰り返した。さっきまで若いのと呼んでいた畑の男も、同じように名前を口にする。
「悠真、助かったよ。またこの道を通るなら寄ってくれ」
彼は顔を上げて頷いた。
岩狼の腹から、親指ほどの灰色の石が出てきた。
畑の男が短剣で取り出してくれたそれは、魔石というらしい。魔道具の材料になり、街の商人や冒険者ギルドが買い取るのだという。
「倒した者のものだ。取っておけ」
悠真は布に包まれた魔石を受け取った。ずしりとした重みがある。自分の力で得た最初の品だった。
修理した荷車を引いて宿へ向かう途中、商人はリーデンの話をしてくれた。迷宮が近く、魔石や武器を扱う店が多いこと。冒険者になれば、身分に関係なく力で稼げること。
「金を貯めたいなら、あそこはいい。強い奴ほど好きに暮らせる街だ」
「俺でも登録できますか」
「二十歳なら十分だ。剣一本で来る若者だって珍しくない。あんたならすぐ稼げるさ」
「リーデンへ行きます。どこへ泊まれば、冒険者の話を聞けますか」
悠真が尋ねると、商人は宿の名やギルドの場所を教えてくれた。明日の朝、道を間違えずに出られるよう、悠真は分かれ道の目印まで聞いた。
街道沿いの宿へ着くと、夕食には煮込んだ肉と大きなパンが出た。商人が酒を勧めたが、今日は水にしておく。初めて見る料理を口に運ぶたびに、向かいの商人が嬉しそうに説明する。
食後、宿の主人までやってきた。
「岩狼を倒したのが、あんたか。南の畑で被害が出て困ってたんだ。今夜はいい部屋を使ってくれ」
「もうお礼はもらってますよ」
「うちからの礼だ。遠慮するな」
案内された部屋には、清潔なベッドと窓際の小さな机があった。窓から見える王都の壁は夕日に染まり、塔の先だけが赤く光っている。
悠真は鉄剣をベッドの横へ立てかけた。
廊下で宿の主人が、別の客へ自分の話をしていた。岩狼を一人で倒した、荷車まで持ち上げた。その言葉を聞きたくて、悠真は閉めかけた扉の前で少しだけ足を止めた。
「さっきの若者が? そりゃ一度、腕を見てみたいな」
客の声に、悠真は口元を緩めた。
王にも見せてやりたい。役立たずと追い出した自分が、勇者たちに負けない剣を振るうのを見たら、王はどんな顔をするだろう。
自分の手を開くと、『身体強化』の文字がまた浮かんだ。
写したあとも、岩狼は力を失った様子もなく襲ってきた。
使える力を見つけて写せば、もっと強くなれる。
悠真は窓際の机に向かった。宿の主人から借りた紙に、何となく自分の名前と書記の二文字を書いてみる。線を引く指先に、戦ったときとは違う熱が集まった。
浮かんでいた文字が、紙の上へ降りてきて重なった。
身体強化。三倍。
悠真がその数字へ触れると、光の輪郭が柔らかく揺れる。まるで、消して書き直すのを待っているようだった。
紙を脇へどけても、文字は机の上の宙に残っていた。もう一度指を近づけると、さっきと同じように輪郭が揺れる。紙がなくても、指で触れれば足りるらしい。
「これ、変えられるのか?」
もし変えられるなら、明日から試せることは山ほどある。悠真は宙に浮いた三倍の文字を見上げ、まず安全に試せそうなことから考え始めた。
窓の外で夜の鐘が鳴った。
悠真は眠ることを忘れ、指先に集まる光を見つめた。
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