第1話 書記は勇者になれない
11月3日〜8日は、毎日10時から10話、17時から10話を10分おきに公開します。11月9日からは、毎日9時20分・12時20分・18時20分の3回更新です。
内定が出たかどうかで、教室の後ろはさっきから騒がしい。二年制の専門学校も、秋になればこうなる。
黒板の隅に残った白い線を消したとき、朝倉悠真の足元が光った。
昼休みを前にした教室には、弁当を開ける音や椅子を引く音が満ちている。誰かがプロジェクターをつけたのかと思ったが、光は床いっぱいに広がり、机も人もまとめて包み込んだ。
「悠真くん!」
白瀬結衣の声が聞こえた。振り向くより早く床の感触が消え、胃の底が浮き上がる。次に足が着いたのは、冷たい白い石の上だった。
頭上には巨大なシャンデリアが灯り、高い窓からも昼の光が差し込んでいる。壁際には旗が掛かり、槍を立てた兵士が並び、正面の階段の上の玉座には、深紅の衣に冠をかぶった男が座っていた。五十を過ぎた年格好で、顎髭には灰色が混じっている。
悠真は黒板消しを握ったまま、短い黒髪についたチョークの粉を払うのも忘れて周囲を見た。同じ専門学校に通う、みな二十歳のクラスメイトたちが、実習服や私服のままで立っている。さっき就職試験の話をしていた男まで、口を開けたまま天井を見上げていた。
「ようこそ、異界の勇者たちよ」
冠の男が両腕を広げた。
「余はアルディア王国の王、ハーゲン。そなたらには、我らを脅かす魔王を討ってもらいたい」
前にいた佐伯蓮が、戸惑いながらも一歩進み出る。クラスで一番背が高く、明るい茶色に染めた髪をいつも整えている男だ。
「ちょっと待ってください。ここはどこですか。俺たちは学校にいたはずです」
「そなたらの世界とは異なる地だ。突然の召喚は詫びよう。だが我が国には、もはや異界の力に頼るほか道がない」
王の横に立った白髭の老人が、魔物による被害を語り始めた。辺境の村が襲われ、街道が断たれ、近く魔王の軍勢が王都にも迫るという。
悠真が一番知りたいことは、そこではなかった。
「帰る方法はありますか」
声を出すと、王の視線が初めて悠真を捉えた。
「魔王を倒せば、そのための道も開けよう。今は生き抜くため、授けられた力を知ることだ」
はっきりした答えとは思えない。ただ、周りには槍を持つ兵士が並んでいる。ここで怒鳴ったところで状況がよくなる気もしなかった。悠真は黒板消しを足元に置き、老人が持ってきた水晶を見た。
触れれば、その者のスキルが分かるらしい。
最初に蓮が手を置いた。水晶の中で金色の光が渦を巻き、誰の目にも見える文字が浮かぶ。
『聖剣士』
広間がどよめいた。
「伝説の剣を扱う者か!」
王が腰を浮かせた。兵士が豪華な剣を持ってきて、蓮の前に膝をつく。蓮が柄を握ると鞘から光が漏れ、驚いたクラスメイトが拍手を始めた。
「すごいじゃん、佐伯!」
「本当に勇者なんだ……」
蓮も悪い気はしていないらしい。剣を持つ姿に、いつもの自信が戻り始めていた。
悠真の前にいた男が、蓮をよく見ようと半歩ずれた。その肩越しに金色の剣が見える。教室で人の輪の外から話を聞いていた時と、同じ場所に立っていた。
自分の番には、どんなものを渡されるだろう。
同じ水晶へ触れる順番が、早く来てほしかった。
次々に名前が呼ばれる。剣士、雷術師、結界師。聞くだけで戦いに役立ちそうな能力が続き、そのたびに衣服や装備が運ばれてくる。
クラスで誰より人目を集めていた結衣が、艶のある黒髪を耳にかけて触れると、水晶は柔らかな白い光に満ちた。
『聖女』
老人は息をのみ、その場で深く頭を下げた。
「癒やしと聖光を司る、尊き御力です」
結衣は説明を聞くより先に、悠真の方を見た。目が合うと、少しだけ安心したように微笑む。教室でも何度か向けられた顔だったが、この場で見た笑顔は不思議と胸に残った。
やがて悠真の番になった。
水晶に手を置く。冷たさの奥から何かが指へ流れ込み、胸の内側に静かに収まった。
『書記』
しばらく誰も声を出さなかった。
悠真は浮かんだ二文字を見つめる。文章を書く役職なら知っている。だが、魔法がある世界の書記に何ができるかは分からない。
「どんな力ですか」
「文字を扱う、下級の補助職ですな」
老人の声から、それまでの熱が消えていた。
「記録を残す者に適性があるのでしょう。戦場へ連れていくものではありません」
王は椅子の背へ体を預けた。
「王宮の書記は足りておる。勇者の養成には莫大な費用がかかるのだ。役立たぬ者まで抱える余裕はない」
「まだ何ができるかも試していません」
「職名が示しておる」
短い返事だった。悠真の能力について、これ以上考えるつもりはないらしい。
広間の空気が変わった。さっきまで同じように戸惑っていたクラスメイトたちと、自分だけが王の一言で引き離される。その感じが気に入らず、悠真は顔を上げたまま王を見た。
「それで、俺はどうすればいいんですか」
「王都から出よ。勇者に混じっておれば、いらぬ期待を生む」
「呼び出しておいて、出ていけと」
「餞別は渡す。平民の暮らしなら十分な額だ」
側近が布袋を持ってきた。悠真の手へ落とされた袋は、想像よりずっと重い。口を開くと、丸い金貨が十枚入っていた。
老人がわざわざ説明を加える。
「一人が一年暮らせる金だ。働き口を探す間にも困るまい」
悠真は袋を閉じた。蓮の前には剣を載せていた赤い布が残り、自分の前にはもう誰も立っていない。側近は次の者へ鎧を渡そうとしていた。
このまま黙って端へ下がれば、王の決めた役目を受け入れることになる。
「分かりました。金はもらいます」
蓮が気まずそうに近づいてくる。
「朝倉、俺から何か言おうか。雑用とかなら、置いてもらえるかもしれないし」
「雑用をするために、ここへ来たわけじゃない。俺は自分で仕事を探す」
「でも外は魔物がいるって」
「ここにいれば、いずれ魔王と戦うんだろ。どっちも危ないなら、自分で選びたい」
蓮は剣へ視線を落とした。悠真はそれ以上何も言わず、出口へ向かう兵士の後を追う。
「待ってください」
結衣の声が、広い部屋によく響いた。
彼女が列を離れようとすると、白衣の女性たちが前へ出た。聖女の力は不安定で、今すぐ検査が必要なのだという。結衣は説明に目も向けず、悠真を見ていた。
「悠真くん。行く場所は決まっているの?」
「これから探す。まずは宿かな」
「私、ちゃんと――」
「聖女様、こちらへ」
女性が強く促す。結衣の唇が閉じ、表情から笑みが消えた。その静かさに、悠真は少し驚いた。
けれど次に彼へ向けた声は優しい。
「気をつけてね。私、悠真くんのこと、忘れないから」
「うん。白瀬も」
扉が閉まる直前まで、彼女の視線は悠真から離れなかった。
城の外へ出るまで、案内の兵士は余計なことを言わなかった。前を歩く背中で剣の柄が揺れ、腰袋には見慣れない道具が下がっている。
悠真は自分の手を見た。水晶に触れたときの感覚が、まだ指の奥にある。書記。文字を扱う力。それだけで本当に何もできないのだろうか。
兵士が城門の手前で立ち止まった。
「歳は幾つだ」
「二十歳です。同級生も、みんな」
「なら、一人でやっていけるな。南の門を出て街道を行けば、リーデンだ。冒険者の多い街で、身元をうるさく尋ねられん。王都より暮らしやすいだろう」
「冒険者は、書記でもなれますか」
「断られた話は聞かん。引き受けた仕事ができれば、それで金になる」
「仕事を選ぶのも自分で?」
「受ける前ならな。王都で奉公する口もあるが、そっちの方がいいのか」
「リーデンへ行きます。まず、宿を探します」
「街道沿いなら今夜の宿には困らん。この街で泊まるなら外壁近くにしろ。城の近くは高い」
口調はぶっきらぼうだったが、使える話だった。悠真は礼を言う。
兵士は少し迷い、腰から小さな鞘を外した。短剣よりは長い、飾りのない鉄剣だった。
「古い予備だ。門の外で丸腰はまずい。鞘ごと持っていけ」
「いいんですか」
「書記殿の初仕事は、無事に宿へ着くことだな」
笑った顔に悪意は感じられなかった。悠真は剣を受け取り、重さを確かめる。これで戦えるかは分からない。それでも、手に何もないときより呼吸が楽になった。
門をくぐると、街の音が押し寄せてきた。
石畳を馬車が進み、屋台から肉の焼ける匂いが流れる。人の頭には角や獣の耳が混じっていた。荷物を担ぐ男が笑い、長い尾を持った女性が店先を掃いている。
悠真は足を止めて空を見た。青さは知っているものと変わらないのに、遠くの山の上には大きな鳥とも竜ともつかない影が飛んでいた。
腹が鳴った。
それを聞いて、近くの屋台の主人が手招きする。
「兄ちゃん、焼きたてだぞ。食ってから驚け!」
悠真は思わず笑った。金貨を見せると主人が目を丸くしたので、両替できる店を教えてもらう。両替屋の隣の古着屋で、実習服の上から羽織れる厚手の上着と旅用のマントも買い、袖を通してから屋台へ戻った。
熱い肉を挟んだパンが手に入り、一口かじると脂と香草の味が広がった。
うまい。
さっきまでの重い気分が、その一口で少し軽くなった。
門に向かって、剣を背負った二人組が歩いている。店先の男が名を呼び、片方が笑って手を上げた。
あの二人のように、街の人から名前で呼ばれてみたい。何もしないうちから役立たずと決めつけられるのは、もうごめんだった。
「この先に、安い宿はありますか」
「南門の外なら旅人宿がある。リーデンへ行く連中もよく使うぞ」
悠真は礼を言い、金貨の袋を腰の内側へしまった。鉄剣の鞘を確かめ、食べかけのパンを片手に南門へ続く通りを歩きだす。
城は一度も振り返らなかった。
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