第15話 荷物も命も置いていかせない
階段の下には、広い土の床が続いていた。
苔の光はここまで届かず、灯りの輪の外は薄暗い。巨大な柱がいくつも並んでいる。
その間を、冒険者たちが逃げてくる。後ろで、黒い塊が柱へぶつかった。石が砕け、土煙が天井まで上がる。
猪だった。
背は馬車ほどもあり、頭の両側から湾曲した牙が伸びている。荒い鼻息で土煙を吹き飛ばし、逃げる者たちを追ってくる。
「こっちへ来い!」
悠真が叫ぶと、冒険者たちが階段へ向かってきた。
先頭の男は大きな荷袋を投げ捨てた。後ろの女性も籠を置き、足を引きずる仲間へ肩を貸す。
猪が突進した。
地面を踏む音が腹へ響く。真正面からぶつかれば、普通の人間は体ごと潰されるだろう。
悠真は一歩前へ出た。
この巨体を、正面から止められるか。試してみたい。
「リラ、横へ回って。俺が止める」
「はい!」
彼女が走りだす。
猪の牙が目の前まで迫った。悠真はその根元を両手でつかみ、足へ力を込めた。
衝撃が全身へ走った。
靴が土を削り、体がわずかに下がる。重い。これまでの魔物とは違う、丸ごと岩を投げつけられたような重さだった。
悠真は歯を食いしばり、それから笑った。
止まった。
猪の脚が激しく土を蹴っている。だが、悠真を押し倒せない。
「リラ、今だ!」
大剣が金色の光をまとって振り下ろされた。
猪の横腹へ深く刃が入り、咆哮が広間へ響く。巨体が暴れたが、悠真は牙を放さなかった。
そのまま頭を横へ押す。
猪の体が傾いた。
「倒れろ!」
力を込めると、巨体が地面へ転がった。土が大きく跳ね、冒険者たちから驚きの声が上がる。
悠真は牙を離し、鉄剣を抜いた。起き上がろうとする猪の首へ刃を入れる。強い手応えのあと、暴れる脚がゆっくり止まった。
静かになった広間で、悠真は息を吐いた。
手のひらが少し熱い。けれど痛みはなく、腕もまだ動く。
大きい相手を、力で転がす。これは癖になりそうだ。
「やりましたね!」
リラが駆け寄ってきた。悠真が手を上げると、彼女も掌を合わせる。
「いい一撃だった」
「悠真さんが止めてくれたからです。あんな大きいの、正面から受け止めるなんて」
彼女の目に熱がこもっていた。悠真は鼻の下が伸びそうになるのを、どうにかこらえた。
逃げていた冒険者たちが戻ってきた。
全部で四人。先頭にいたのは、傷だらけの革鎧を着た三十前後の女剣士だ。彼女は倒れた猪を見て、呆然と呟いた。
「突進を止めたのか……人の手で?」
「ちょっと重かったですけど」
「ちょっと?」
彼女は悠真と猪を見比べた。仲間の男が笑い始め、やがて全員が力の抜けた顔になった。
「助かった。本当に助かったよ」
悠真は頷き、足を引きずる男を見た。
「歩けますか」
「捻っただけだ。仲間につかまれば帰れる」
「なら、階段の上に休憩所がありました。いったんそこで休んだ方がいい」
男が頷く一方で、まだ十代の終わりにも見える小柄な女性が、投げ捨てた籠を見ていた。
中には青い石がぎっしり入っている。ここまで集めてきた魔石だろう。取っ手がちぎれ、全部持つには抱え直さなければならない。
「置いていくよ」
剣士の女性が言った。
「足を怪我した仲間がいる。全員が身軽にならないと戻れない」
若い女性は唇を噛んだが、やがて頷いた。
悠真はその籠へ手を伸ばした。
「俺が持ちますよ」
「いや、あんたたちの荷物まで増やすわけには」
籠が消えた。
全員の視線が、悠真の手へ集まる。
悠真は次に捨てられた荷袋を収納した。水や食料も入っていたらしく、持ち主が慌てて声を上げる。
「今の、収納か?」
「はい。休憩所まで運びます。あとでそのまま返しますから」
「これだけ全部、入るのかよ……」
若い女性の顔が明るくなった。
「ありがとう。今日、初めてこれだけ集められたの。置いていくのが、悔しくて」
「分かります。俺もせっかく拾った宝は持って帰りたい」
悠真が答えると、彼女は何度も頷いた。
リラが、足を傷めた男へ肩を貸した。大剣を背負ったまま支えても、彼女の姿勢は揺れない。
「ゆっくりで大丈夫です」
男は申し訳なさそうに礼を言ったが、リラは明るく笑った。
出発の前に、悠真は巨大猪の魔石を取り出した。拳より大きく、赤みのある光を放っている。湾曲した牙も根元から切り取ると、剣士の女性が呆れたように笑った。
「その牙、ギルドに出したら騒ぎになるよ。この層の主みたいなやつだったんだから」
「騒ぎになるなら、なおさら持って帰ります」
悠真は牙と魔石を収納へ入れ、全員と階段を戻った。
休憩所へ着くと、冒険者たちは壁へ背を預けた。
悠真は荷物を返し、水を渡した。若い女性が籠を抱え、嬉しそうに中を確かめる。青い石を一つずつ数え、最後に悠真へ深く頭を下げた。
「一つも欠けてない。本当にありがとう」
「運んだだけですよ」
「運べる人がいなかったから、捨てるところだったの」
彼女の仲間たちも笑った。足を傷めた男は、籠の中を覗いて自分のことのように胸を撫で下ろしている。
「お礼に、下の話をしておくよ」
剣士の女性が言った。
「この先に、灯りが急に弱くなる層がある。あたしたちは手前で戻ったけど、奥で剣が見つかったって話も聞く」
悠真は身を乗り出した。
「剣?」
「白く光る刃だそうだ。古い宝物庫の中にあったらしい。取れずに帰った連中が酒場で話してた」
リラが悠真の腰の鉄剣を見て、それから彼の顔を見上げた。
「悠真さんの剣かもしれません」
「行ってみたいな」
「忠告は聞いておきな。暗い層は、音のする方へ走るだけでも危ない。怪我人を探して戻らない組もある」
「音ならリラが先に拾ってくれます。俺は、聞こえた方へ走る前に見ます」
「見えればいいけど」
剣士の女性は肩をすくめ、それから猪の転がっていた方を振り返った。
「まあ、あんたなら灯りなんかなくても、魔物の方から逃げていきそうだ」
少し話すうちに、冒険者たちは食事を取り始めた。悠真が荷袋を運んだので、水も食料もある。ゆっくり回復してから地上へ戻るという。
足を傷めた男が、悠真へ声をかけた。
「帰ったら、俺の兄貴の店に寄ってくれ。広場で肉料理を出してる。今度はこっちに奢らせてほしい」
「それは楽しみです。リラも一緒でいいですか」
「もちろんだ。二人とも腹いっぱい食ってくれ」
リラの耳が嬉しそうに立った。悠真は店の場所を聞き、地上で会う約束をした。
「あの猪を一人で止めたって、兄貴にも話していいか」
「どんどん話してください。大きめに話してもらっても構いません」
「大きくする必要があるか? あれ以上に」
男が笑い、仲間たちもつられて笑った。悠真は少し顔を熱くしたが、言ったことは引っ込めなかった。
悠真とリラは、別の空いた場所へ移った。
「今日はここで泊まろう。明日、暗い層へ行く」
「はい。私、音をよく聞いておきます」
入口で買った敷物を広げ、厚い毛布を二枚並べる。二人分の水と食料を出すと、それだけで石の部屋が少し宿らしくなった。リラが毛布の厚さを手で確かめ、目を輝かせる。
「軽い方にしなくてよかったですね」
「床が冷たいからな」
リラは隣へ座り、服の内側から指輪を取り出した。紐に通した緑の石が、青い光を受けて小さく光る。
「気に入った?」
「はい。でも、見ていると、箱が口を開けたところまで思い出します」
「それは忘れていいんじゃないか」
「悠真さんが一撃で割ったところも一緒に思い出すので、忘れません」
悠真は笑い、ほどけかけた紐を結び直してやった。
「この先も、いっぱい増えたら嬉しいです。悠真さんと見つけたもの」
「増やそう。装備も宝も、持ちきれないくらい」
悠真が答えると、リラは小さく首を傾げた。
「収納があるので、持ちきれちゃいます」
「じゃあ、どこまで入るか試すくらいだ」
笑い合っていると、剣士の女性が向こうから干し果物を差し入れてくれた。助けた礼だという。悠真は遠慮なく受け取り、リラと分けた。
干した杏を口に入れたリラが、尾を一度だけ大きく振った。
悠真は毛布へ背を預け、リラを隣へ招いた。彼女は肩を寄せ、そのまま腕へ頬を当てる。
「明日の剣、見つかるといいですね」
「うん。見つけたら、まず魔物で試したい」
「私、ちゃんと見ます。かっこいいところ」
悠真は少し笑い、彼女の髪を撫でた。
休憩所の青い石が、静かに二人を照らしている。
白く光る刃を、この手で握ってみたい。悠真は暗い層の方角へ一度目を向けてから、隣の温かさへ体を預けた。
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