第四部 予報を書き換えて
1. アップグレードされた自分
八月の終わりが近づくと、渋谷の事務所の窓から見える空は、白っぽく霞んだ夏の色に変わっていた。
翔太くんとの食事が習慣になってから、沙織の日常には、小さな変化が訪れ始めていた。
まず、仕事に身が入るようになった。以前は達也との未来のために「安定」を第一に考えていた仕事が、今は自分自身の足で立つための土台なのだと、改めて思えるようになったのだ。『ほうじ茶と林檎のソーダ』の販促キャンペーンは、什器の試作段階に入っていた。沙織は連日、印刷会社や工場の担当者と電話で話し、試作品の寸法を何度も調整した。
「組み立て、三工程で本当にいけるのか」
打ち合わせ室で、森田が試作品の什器を前に、腕を組んでいる。
「はい。昨日、事務所の若手に、説明書なしで組み立ててもらいました。四分二十秒でした」
「へえ。四分台か。……よく詰めたな」
「閉店後にお一人で作業される店員さんのことを、最優先に考えました」
森田は什器の天板を軽く叩いて、確かめるように頷いた。
「最近、積極的になったな。前は先方に言われたことを、きれいにまとめるのが上手いタイプだった。今は自分から、先に動いてる」
「そうでしょうか」
「ああ。いい変化だ」
褒められた。それだけのことなのに、小さな種が芽吹くような感覚があった。失恋の痛みを紛らわすように仕事に打ち込んだ数週間が、いつのまにか、別のものに変わっている。逃げ場所ではなく、自分が立っている地面に。
ある週末の朝、沙織は洗面所の鏡に映る自分を、じっと見つめた。
そこには失恋の影をまだ引きずった、疲れた顔の女がいた。肩を越えて胸の上まで届く、何年も変えていないセミロングの髪。毛先は日に焼けて、色が抜けている。達也が「その髪が好きだ」と言ってくれたから、ずっと変えなかった髪だった。
「これじゃ、ダメだ」
唐突にそう思った。何かを変えたい、という強い衝動が、体の奥から湧き上がってきた。
その日の午後、彼女は予約もなしに、表参道の美容院に飛び込んだ。ガラス張りの白い店内に、冷房の風が心地よく流れている。受付の女性が驚いた顔をしてから、「ちょうど、キャンセルが出たところです」と席に案内してくれた。
「今日はどうされますか?」
担当になった美容師は、橘という、三十代半ばの女性だった。鏡越しに沙織の髪を指で梳きながら、尋ねる。
「ばっさり、切りたいんです。……今までと違う感じに」
「ショートボブとか、いかがです? 顎のラインで、軽く」
その言葉に、沙織は一瞬、息を止めた。
ショートボブ。SNSの写真の中の、あの人の髪型。
「……ボブはやめます」
「あ、そうですか。じゃあ」
橘は沙織の表情を、鏡の中で見つめた。何かを察したのかもしれない。けれど、詮索はしなかった。
「鎖骨に触れるくらいの長さで、レイヤーを入れましょうか。毛先を軽くして、動きを出す。重たい印象を、取りたいんですよね」
「はい。お願いします」
はさみの音が耳元で響いた。冷たい金属の感触。落ちていく髪が、床に黒い小さな山を作っていく。五年間、伸ばし続けた時間が、切り落とされていく。
鏡に映る自分の顔が、少しずつ、変わっていった。額の線が出て、頬のラインが現れる。重たい外套を脱いだような、軽さだった。
「できましたよ。どうですか」
鏡の中にいたのは、見慣れない女性だった。首筋がすっきりと見える。毛先が動くたびに、ふわりと揺れる。顔つきが一回り、明るく見えた。
「……別人みたい」
「いいえ。元から、こういう顔の人ですよ」
橘は鏡越しににこりと笑った。それは過去の自分と決別するための、ささやかな儀式だった。
美容院を出て、表参道の並木道を歩く。うなじを撫でる風が、心地よかった。ショーウィンドウに映る自分に、何度も目をやってしまう。
帰り道、沙織は通りかかったセレクトショップのウィンドウの前で、足を止めた。マネキンが鮮やかなブルーのブラウスをまとっていた。空の色をそのまま布に染めたような青だった。
店に入り、試着室で袖を通す。襟元がすっきりとして、肌が明るく見える。鏡の前でくるりと回った。
「お客様、すごくお似合いです。今の季節の、空みたいな色ですね」
店員の言葉に、沙織は思わず、笑った。雨上がりの空が、こんな色をしているかもしれない。
クローゼットの中に並んだ、達也が好きだったベージュやグレーの服とは、対極にある色だった。達也はいつも言っていた。派手な色は沙織には似合わない、と。落ち着いた色の沙織が、好きだ、と。
本当にそうだったのか。それとも「落ち着いた沙織」でいることが二人の関係を、穏やかに保つ条件だったのか。今となってはどちらでもよかった。
これは誰かのためではない。自分自身を更新するための、自分だけの「自分磨き」だった。
週明けの昼休み、里奈が渋谷まで会いに来てくれた。駅前のカフェで向かい合った途端、彼女は持っていたスプーンを落とした。
「うそ。沙織? ほんとに沙織?」
「そんなに驚く?」
「驚くよ! だって、五年間、ずっとその髪だったじゃん。……かわいい。めっちゃ、かわいい」
里奈は身を乗り出して、沙織の毛先に触れた。それから、ブルーのブラウスの襟元を、じろじろと眺める。
「しかもその服。誰に見せたいの?」
「誰にも」
「うそだ」
「本当に。自分のため。……なんていうか、アップデートしたかったの」
「アップデート」
里奈はその言葉を、噛みしめるように繰り返してから、ふっと目を細めた。
「いい顔になったね、沙織」
沙織は胸が詰まって、返事ができなかった。ただ、里奈の手を、テーブルの上で、そっと握った。
「ありがとう。里奈がいてくれたから」
「やだ、泣かせないでよ。メイク崩れるじゃん」
二人で顔を見合わせて、笑った。
次に翔太くんと会ったのは、その週の金曜日だった。『梟の止まり木』の引き戸を開けると、女将が顔を輝かせた。
「あら、沙織ちゃん。また来てくれたのね。ほら、翔太くんのいつもの隣、空けといたわよ」
名前を覚えてくれていた。それだけのことが、胸にじんと染みた。カウンターの奥で、大将が黙って頷く。その頷きが、「いらっしゃい」の代わりだった。
この店には、余計な言葉がない。けれど、温かさはある。壁に貼られた手書きの品書きの一枚一枚に、人の手の跡が残っている。そのことが、沙織の肩の力をゆるめた。
カウンター席に座って、おしぼりで手を拭いていると、隣に座った彼が、不意に動きを止めた。
「あれ」
「うん?」
「髪、切りました?」
彼は目を丸くして、沙織の横顔を、まじまじと見ていた。
「……分かる?」
「分かりますよ。そりゃ。すごく変わったので」
「変、かな」
「いえ、全然。……似合ってます」
最後の一言を、彼は目を逸らしながら言った。耳の先が赤くなっている。その様子が可笑しくて、そして、胸をくすぐった。
「それにその、ブラウスも」
「これ? 新しく買ったの。ちょっと派手じゃないかなって、思ってたんだけど」
「全然。……なんていうか、夕立のあとの空みたいな色で」
沙織は一瞬、言葉を失った。それから、頬が熱くなるのを感じて、慌てておちょこに手を伸ばした。
「あの、ありがとう」
「いえ」
二人とも前を向いたまま、黙り込んだ。カウンターの向こうで、大将が無言で鮎を焼いている。女将が「あらあら」とでも言いたげに、にやにやしながら、二人の様子を見ていた。
話題を変えるように、翔太くんが咳払いをした。
「沙織さんはどうして、今のお仕事を選んだんですか」
「私? うーん。……おばあちゃんの影響、かな」
「おばあさん」
「名古屋の、商店街で小さな文房具屋さんをやってたの。子供の頃、夏休みになると、毎日、お店の手伝いをしてた。おばあちゃんね、売れ残りの商品に、手書きのPOPを付けるのが、上手だったの。『この消しゴム、よく消えます』って。それだけで、不思議と売れるのよ」
「へえ」
「だから、言葉と売り場って、結びついてるんだなって、子供心に思ってた。大学で広告を勉強して、気づいたら、今の会社に」
「いいですね。ルーツがちゃんとある」
翔太くんは感心したように頷いた。
「翔太くんは? ずっと営業志望だったの?」
「いえ。実は将来的には自分の店を、持ちたいんです」
「お店?」
「はい。実家みたいな、小さな定食屋じゃなくて、もっといろんな人が気軽に寄れる、小さな食堂みたいな。会社の営業で、いろんな店の人と、話してるうちに、思うようになって。人がご飯を食べてる場所って、いいなって」
彼は恥ずかしそうに、頭をかいた。
「まだ、ほとんど誰にも言ってないんですけど。同期の宮下っていう子には、笑われましたけど」
同期の、子。聞いたことのない名前だった。胸の端に、小さな引っかかりが生まれて、すぐに消えた。
「……そうなんだ」
「沙織さんにはなんか、言えました」
その一言が、胸の中にともった。ほとんど誰にも話していない夢を、自分に打ち明けてくれた。その事実が、温かかった。
「そういえば、沙織さんって、何月生まれなんですか」
「十一月。十日。……また一つ、年を取っちゃう」
「十一月十日」
彼は、その日付を確かめるように繰り返した。
「覚えておきます」
「いいよ、覚えなくて。二十九になるだけだから」
「覚えておきます」
同じ言葉を、彼は今度は、はっきりと言った。
2. 思考の変化
変化は内面にも訪れていた。
ある日の帰り道、沙織のスマートフォンに、翔太くんからのメッセージが届いた。
〈今日もお疲れ様でした。来週の金曜、またあの店でいいですか?〉
短い文面だった。絵文字もスタンプもない。それなのに、画面を見つめる沙織の口元は、自然と緩んでいた。
返信を打ちながら、はっと気づく。今日一日、一度も達也のことを思い出さなかった、と。
あれほど心を支配していた痛みや怒りが、薄紙を一枚ずつ剥がすように、薄らいでいる。眠れない夜は減り、朝の目覚めは軽くなった。それは劇的な何かではなく、季節が移ろうような、緩やかな変化だった。
八月の最後の日曜日。夕方、スマートフォンが震えた。画面に見慣れた名前が表示されている。
〈久しぶり。元気にしてる? 残りの荷物のこと、ずっと気になってて。もし迷惑じゃなければ、今度の日曜に、取りに行ってもいいかな〉
達也だった。
沙織は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。二ヶ月ぶりに目にする彼の名前だった。けれど、予想していたような、心臓を掴まれる感覚は、来なかった。ただ、胸の奥が、すっと冷えていくのを感じた。
〈分かりました。日曜の午後二時なら、家にいます〉
そう返信してから、沙織はクローゼットの上段から段ボール箱を二つ下ろし、彼の物を一つ一つ、丁寧に詰めていく。カーディガンとパーカー、それにニット。文庫本。洗面台のオーデコロン。ほつれたニットは、迷ってから、一番上に載せた。
最後に、キッチンカウンターの上の、あのマグカップを手に取った。取っ手の欠けた、白いマグカップ。
「……お疲れさま」
誰に言うともなく、呟いて、新聞紙で丁寧に包み、箱の隅に収めた。玄関の傘立てには、ビニール傘が一本、まだ立っている。それだけは、箱に入れられなかった。
日曜の午後二時ちょうどに、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、玄関の外に、達也が立っていた。Tシャツにジーンズ。以前より、頬がこけた気がする。目の下にはうっすらと、疲れの影があった。
「……久しぶり」
「うん。あがる?」
「いや、ここでいいよ。荷物、すぐ持って帰るから」
玄関先に二つの段ボール箱を運び出す。達也は、箱の中身を、ちらりと確かめた。傘立てのビニール傘にも、一瞬、視線が止まった。けれど、彼は何も言わなかった。沙織も、言わなかった。それから、彼は顔を上げた。
「髪、切ったんだ」
「うん」
「似合うね。……なんか、明るくなった」
「そうかな」
達也は箱を持ち上げようとして、手を止めた。何かを言いかけて、唇を噛む。沙織は黙って待った。五年間、この人の、言葉を探す時の癖を、見てきた。
「あのさ。……あの子とは最近、あんまり、うまくいってなくて」
沙織は何も答えなかった。
「ずっと気を遣っちゃうんだよ。年下だから、俺がしっかりしなきゃって。でも、そういうの、疲れるっていうか。沙織といた時は、楽だったなって、最近、よく思うんだ。何も言わなくても、分かってもらえて」
その言葉を聞いた瞬間、沙織の心の中で、何かがカチリと音を立てて、はまった。
「楽、だった」
「え?」
「あなたにとって、私は楽な存在だったんだね」
静かな声だった。怒りも悲しみもそこにはなかった。ただ、事実を確かめるような響きだった。
「……そういう意味じゃなくて」
「分かってる。でもね、達也」
沙織はまっすぐに、彼の目を見た。
「私、『物分かりのいい人』をやるのが、もう、疲れたの。分かってくれる人じゃなくて、一緒に悩んだり、ぶつかったりしてくれる人と、いたい。だから、ごめんね。戻らないよ」
達也は口を半分開けたまま、何も言えずにいた。それから、視線を床に落とした。
「……そっか」
「荷物はこれで全部。合鍵は前にもらったから」
「うん。……元気で」
「あなたも」
玄関のドアが閉まった。何度も開け閉めしてきたドアは、今日はとても軽く、乾いた音を立てた。
廊下に足音が遠ざかっていく。沙織はドアの内側に、背をもたせかけた。心臓は、規則正しく脈打っている。涙は出なかった。
家に入り、ソファに座ると、スマートフォンを手に取った。連絡先を開き、「達也」の名前を一度だけ見つめてから、削除のボタンを押す。SNSのアカウントをブロックする。一緒に撮った写真が詰まったフォルダは、ゴミ箱へ。
以前は思い出まで消してしまうようでできなかったその行為を、今は驚くほど冷静に行うことができた。
最後に残ったのは、赤い丸だった。壁のカレンダーは、とうに九月のページになっている。けれど、めくった六月のページを、沙織は捨てられずに、引き出しにしまっていた。赤い丸のついた、あの一枚。それを取り出して、二つに破り、ゴミ箱に落とした。
それから、手帳を開き、九月の金曜日の欄に「梟」と書き込む。毎週。
それだけの文字が、とても明るく見えた。
新しい何かが、古い傷を上書きしていく。そんなことがあるのだと、今なら、分かる気がした。
その夜、里奈に電話をかけて、一部始終を話した。
「えっ、うそ。戻ってきてほしいって言われたの?」
「そこまでは言われてないけど。でも、そういう空気だった」
「で沙織は?」
「戻らないって、言った」
電話の向こうが、一瞬、静まり返った。それから、里奈が大きな声を上げた。
「よく言った! 偉い! 今すぐ、ケーキ買って、お祝いしたいくらい!」
「ケーキはいいよ」
「じゃあ、今度、おいしいもの食べに行こう。沙織の、お祝い。……あ、でも」
「でも?」
「その前に誰かとお祝いしたい人、いるんじゃない?」
「……いないよ」
そう答えながら、沙織の脳裏に、一人の人の顔が、浮かんでいた。慌てて、頭を振る。ただの、友人だ。そう、自分に言い聞かせた。
沙織は自分が一歩ずつ、前に進んでいることを実感していた。翔太くんという存在が、そのための、穏やかな追い風になってくれていることも。
3. 垣間見えた弱さ
九月に入ると、金曜日の夜は『梟の止まり木』で、というのが二人の暗黙の約束になっていた。二週間に一度が、毎週になったのは、いつからだっただろう。どちらかが言い出したわけではない。気がつけば、手帳の金曜日の欄に、「梟」の一文字が規則正しく並んでいた。
九月の第三金曜日。いつものように、『梟の止まり木』のカウンターで、沙織は翔太くんを待っていた。時計は七時を少し過ぎている。いつもなら、彼は定時から十五分以内に着く。
引き戸が開いたのは、七時四十分を回った頃だった。
「……すみません。遅くなりました」
その声を聞いただけで、沙織は何かがあったことを悟った。
翔太くんはいつもの席に腰を下ろした。ネクタイは緩みきっている。目の下にはくっきりと隈が浮いていた。
その日の彼は口数が少なく、元気がないように見えた。ビールが運ばれてきても、手を付けようとしない。女将がいつもの調子で話しかけても、「はい」「ええ」と短く答えるだけだった。
「どうしたの? 何かあった?」
沙織が尋ねると、彼は躊躇ったあと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……今日、仕事で大きなミスをしちゃって」
声がかすかに震えていた。
「新商品の先行販売のことで、担当している小売チェーンへの納品数量を、一桁、間違えて入力してたんです。百ケースのところを、千ケースって。昨日の夜に確認したときは、気づかなくて」
「千ケース……」
「今日の朝、物流センターから連絡があって。気づいた時には、もう、トラックが出たあとでした。各店舗のバックヤードに、置ききれない量の商品が届いてしまって。先輩にも取引先にも、すごく迷惑かけちゃったんです」
彼は自分がどれだけ準備不足だったか、期待に応えられなかったことがどれだけ悔しいかを、うつむきながら語った。いつも穏やかで、年下とは思えないほどしっかりしている彼の、初めて見る弱い姿だった。そこにいたのは、救世主でも、完璧な大人でもない、仕事の壁にぶつかってもがく、二十六歳の青年だった。
膝の上で彼の両手がぎゅっと握りしめられている。その指の関節が、白くなっていた。
その姿に、沙織は、放っておけない、という気持ちを覚えた。守ってあげたい、という気持ちが、自然と湧き上がってくる。けれどそれは母性とも同情とも違っていた。もっとまっすぐな、隣に座っている人を、そのまま受け止めたい、という気持ちだった。
「それでどうなったの?」
「チェーンの本部の方に、頭を下げて回って。余った分を、他の店舗に回してもらえないか、お願いして。先輩と、同期の宮下が、一緒に動いてくれたんです。結局、夜までかかって、なんとか、八割は引き取ってもらえることになって」
「八割も? すごいじゃない」
「でも、残りの二割は返品になります。会社に損害が出ます。……俺、何をやってるんだろうって」
翔太くんはそこで言葉を詰まらせた。沙織は黙って、彼の前のおちょこに、日本酒を注いだ。とくとくと、澄んだ音がする。
「大丈夫だよ」
優しい声で、沙織は言った。
「私もね、新人の頃、大きなミスをしたことがあるの」
「沙織さんが?」
「入社二年目の、秋だった。スーパーに折り込む、チラシの原稿。電話番号の、末尾の数字を一つ、間違えたまま、入稿したの。三万部、刷り上がってから、気づいた」
翔太くんが目を見開いた。
「三万部……」
「そう。当時の担当だった森田課長と、徹夜でお詫びの文面を書いた。刷り直しの手配をして、お店を一軒ずつ回った。私、その時、泣きながら、課長に謝ったの。そしたら、あの人、何て言ったと思う?」
「なんて?」
「『ミスは取り返せる。隠すと取り返せなくなる』って」
沙織は笑った。
「その言葉を、あのときはただの慰めだと思ってた。でも、今は本当にそうだなって、思う。翔太くんは今日、隠さなかったでしょう? すぐに頭を下げて、動いた。それができる人は、ちゃんと取り返せる人だよ」
自分の経験から紡ぎ出された言葉は、何の気負いもなく、すんなりと口から出てきた。翔太くんは驚いたように顔を上げる。
「私も翔太くんくらいの時は、毎日、失敗ばっかりだったよ。でも、そのたびに、誰かが助けてくれた。今度は、私の番だよ」
彼はしばらくの間、何も言わなかった。目にうっすらと、涙の膜が張っているのが、分かった。それを見て、沙織は気づいていないふりをして、自分のおちょこを手に取った。
そのとき、翔太くんが席を立った。お手洗いに行くようだった。カウンターの向こうで、鮎を焼いていた大将が、手を止めずに、低い声で言った。
「あいつ、ここであんな顔するの、初めて見たよ」
沙織は驚いて顔を上げた。大将が自分に話しかけたのは、これが初めてだった。
「……そうなんですか」
「いつも人の話ばっかり聞いてるやつなんだ。自分の話はしない。あんたにはしたんだな」
それだけ言って、大将は鮎をひっくり返した。じゅう、と脂の焼ける音がした。
沙織は胸が温かくなるのを感じた。おちょこの日本酒に、口をつける。喉を通る熱がいつもより、甘かった。
やがて、戻ってきた翔太くんは、深く息を吐いた。
「……ありがとうございます。なんか、すごく元気出ました」
そう言って、照れたように、笑った。目尻に小さな皺が寄る。それは雨の日の彼とも、会議室の彼とも、違う顔だった。
「あの、沙織さん」
「うん?」
「俺、年下なんで、頼りないと思うんですけど」
「そんなこと、ない」
沙織はすぐに首を横に振った。
「頼ってもらえるの、嬉しいよ。私も翔太くんに、たくさん助けてもらってるから」
その言葉が嘘ではないことを、沙織は、口にしてから知った。
この瞬間、二人の関係がわずかに変わったのを、沙織は感じた。彼が一方的に沙織を支えるのではなく、沙織もまた、彼を支えることができる。そう気づいたとき、胸の奥に、また温かいものが、ひとつ灯った。
思えば達也は、一度も沙織の前で弱音を吐かない人だった。仕事で何があっても、「大丈夫、大丈夫」と笑って、夜は黙って缶ビールを開けた。それを頼もしさだと思っていた。けれど本当は、頼られていなかったのかもしれない。寄りかからせてもらえない場所で、沙織はずっと、物分かりのいい聞き役を演じていたのだ。
今夜の彼は、弱さを見せてくれた。それが、うれしかった。
4. 同じ傘の下
店を出たのは九時を過ぎた頃だった。
路地に細かい雨が降っていた。九月の、秋雨前線がもたらす、冷たい雨。街灯の光が濡れたアスファルトに、にじんでいる。
「あ」
翔太くんが空を見上げて、小さく声を上げた。
「降ってきてたんですね。傘、会社に置いてきちゃった」
「大丈夫」
沙織はバッグから、折り畳み傘を取り出した。ボタンを押すと、ぱん、と小気味よい音を立てて、淡いグレーの布が広がる。
「今日は予報、見てきたの」
「……あ。そうなんですか」
「毎朝、見るようにしたの。今日は夜から雨って書いてあった」
沙織は傘を彼の頭上に差し出した。背の高い彼には、高さが足りない。つま先を伸ばすようにして、傘を掲げる。
翔太くんがくすりと笑って、傘の柄に手を添えた。
「持ちます。俺が」
「いいの。今日は私が」
「でも、背が」
「大丈夫」
二人の指が傘の柄の上で、一瞬、触れた。彼の指は温かかった。
結局、傘は彼が持った。沙織がその隣を歩く。一つの傘の下に、並んで歩く。夏の夕立の日、彼が差し出してくれた傘とは、立場が逆になっていた。
濡れた路地を、ゆっくりと歩く。傘の布を打つ雨音が、規則正しく、二人の間の沈黙を埋めていた。もう、不思議な沈黙ではなかった。気まずさも緊張もない。ただ、隣に誰かがいる、という安心があった。
「沙織さん」
「うん?」
「今日、話を聞いてもらって、本当によかったです。たぶん、一人だったら、今夜、眠れなかったと思う」
「それなら、よかった」
信号待ちで、二人は足を止めた。赤い光が濡れた路面に、滲んで映っている。
「あの」
「うん」
「……いえ。なんでもないです」
彼は何かを言いかけて、口を閉じた。傘の下で横顔が街灯の光に照らされている。唇がわずかに結ばれていた。
信号が青に変わった。
「行きましょう」
「うん」
駅の改札で、別れた。ホームへ向かう階段で、沙織は一度だけ、振り返った。彼がまだそこに立って、手を振っていた。
電車の揺れに身を任せながら、沙織は先ほどの、指先の感触を、思い出していた。一瞬だけ触れ合った指の、温もり。
三軒茶屋に着く頃には、雨はすっかり上がっていた。マンションのエントランスの前で、夜空を見上げる。雲の切れ間から、星が一つ、二つ、顔を覗かせていた。
あの、星ひとつなかった、黒いベルベットの夜空と、同じ空なのに、違って見えた。
予報は見るものではなく、書き換えるものなのかもしれない。
そんな考えがふと頭をよぎって、沙織は一人で小さく笑った。




