第三部 二人の食卓
1. 返却
翌週の木曜日。梅雨明けはまだ宣言されておらず、早くから、湿り気を含んだ熱気が街にこもっていた。
朝、クローゼットの前で、沙織は三十分も悩んだ。傘を返しに行くだけだ。お礼を言うだけだ。そう言い聞かせながら、手に取っていたのは、いつもより明るい色のカットソーだった。「取引先に傘を返すのに、服を選んでどうするの」と、鏡の中の自分に小声で突っ込んだ。それでも、結局、着替えなかった。
沙織は再び、丸の内のクライアント先を訪れていた。この日の用件は、先日の提案をもとにした見積もりの打ち合わせだった。望月との面談は、約一時間。数字の根拠を一つ一つ問い詰められ、そのたびに、沙織は用意していた資料を示して答えた。額に汗が滲んだが、手応えはあった。
「うん。ではこの線で社内を通しておきます」
望月が手元の書類に判を押すような仕草で、ぽんと机を叩いた。
「ありがとうございます」
「それにしても先日はひどい雨でしたね。大丈夫でしたか」
何気ない世間話のつもりだったのだろう。けれど、沙織は抜きかけた肩の力を入れ直し、膝の上で手を握った。
「あの……実はその件で」
バッグから、きれいに畳んだ紺色の傘と、小さな紙袋を取り出す。傘は昨夜、ベランダでしっかり乾かした。タオルハンカチは洗濯機で洗って、アイロンまでかけた。紙袋には焼き菓子の詰め合わせを入れてある。渋谷の駅ビルで、二十分も悩んで選んだ。
「先日、雨のなかで、こちらの営業部の方に、傘をお借りしたんです。お名前を伺いそびれてしまって。できれば、直接お返しして、お礼を言いたいのですが」
「営業部の? ああ」
望月は束の間、考えるような顔をしてから、にやりと口の端を上げた。
「あの日の会議に、見学で来ていた若いやつかな。背の高い」
「はい、おそらく」
「相馬だね。相馬翔太。まだ四年目だが、見どころはあるんですよ。ああ見えて、なかなか頑固でしてね」
望月は内線電話の受話器を持ち上げかけて、沙織の顔を見て、やめた。
「十四階の営業部です。エレベーターを出て、右手。まあ、行ってみてください。私が呼ぶより、そのほうがいいでしょう」
「ありがとうございます」
会議室を出るとき、背中に望月の声がかかった。
「ああ見えて、ってのは悪い意味じゃないですよ。いいやつです」
沙織は深く頭を下げた。頬が熱かったのは、きっと廊下の空調が弱いせいだと思った。
エレベーターで十四階に上がる。扉が開くと、そこは広々とした大部屋だった。島状に並んだデスクの上では、電話の音と、キーボードを叩く音が、絶え間なく鳴っている。壁のホワイトボードには、色とりどりのマグネットで、営業担当者の外出先が記されていた。
フロアの入り口で、沙織は足を止めた。すぐに彼の姿を探す。
窓際の列の、端から二つ目の席。パソコンに向かって、何かを一心に打ち込んでいる、背の高い男性がいた。あの日と同じ、紺色のスーツ。ネクタイは緩んでいる。
沙織が近づくと、気配を察したのか、彼はふと顔を上げた。そして、目を丸くした。
「あ」
「先日はありがとうございました。傘、お返しに上がりました」
彼は慌てて立ち上がった。椅子がガタン、と音を立てる。周りの席の何人かが、ちらりとこちらを見た。
「いえ、わざわざすみません。置き傘はいくらでもあったのに」
「そういうわけには、いきません」
沙織は傘と紙袋を差し出した。
「それとこれもお返しします。タオル、洗いました。それから、これはほんの気持ちです」
「え、タオルは差し上げたつもりだったんですが」
「そうはいきません」
つい、きっぱりと言ってしまった。彼は一瞬ぽかんとして、それから、小さく吹き出した。
「すみません。真面目な方なんですね」
「……よく言われます」
そう答えると、彼は笑顔のまま、背広の内ポケットに手を入れ、名刺入れを取り出した。
「申し遅れました。営業部の、相馬と申します」
差し出された名刺には、「営業部 第二営業課 相馬翔太」と印字されていた。沙織も慌てて名刺入れを取り出し、両手で差し出す。互いに名刺を交換する。たったそれだけの動作なのに、妙にぎこちなかった。
「……杉本、沙織さん。広告制作の、プランナーさん」
「はい。先日の飲料キャンペーンを、担当させていただいております」
「ああ、あの。やっぱり、そうでしたよね」
彼は名刺を見つめたまま、ふっと目元を和らげた。
「会議のときの、『秋の夕方に似てる』って、杉本さんの言葉でしょう」
「え、ええ」
「覚えてます」
その一言に、沙織の心臓がひとつ、跳ねた。
これで用件は終わるはずだった。お礼を言って、立ち去ればいい。それなのに、沙織の口は自分でも予期しない言葉を紡いでいた。
「あの……もし、ご迷惑でなければ、今夜、お礼に何かご馳走させていただけませんか」
言った瞬間、顔から火が出そうになった。傘一本に大げさすぎる。取引先の担当者に、いきなり食事を誘うなんて、非常識だ。理性の声が頭の中で慌てて警鐘を鳴らす。
衝動的な申し出だった。自分でもなぜそんなことを言ったのか分からない。けれど、あの雨の中の優しさに対して、ただ傘を返すだけでは足りないような気がしたのだ。
「そんな、お礼なんて」
「いえ、あの、無理にとは」
相馬は短い間、考え込むような表情を見せた。沙織は断られるのを覚悟して、唇を結ぶ。
「いいですよ」
彼はあっさりと頷いた。
「じゃあ、定時で上がります。ロビーで待っていてもらえますか。六時には行けると思います」
「はい」
「あの、お酒は?」
「好きです」
「よかった。じゃあ、店はこちらで決めてもいいですか。おいしいところ、知ってるんです」
約束を取り付けると、沙織の心臓がとくとくと、いつもより速く脈打った。
後ろの席から、年配の男性社員が、冷やかすような声を上げた。
「相馬ぁ、デートか?」
「違いますよ、先輩。仕事です」
「仕事でそんな顔するやつがいるか」
相馬が「やめてください」と顔を赤らめる。沙織もつられて、俯いた。きまり悪さと、くすぐったさが、胸の中でないまぜになった。
それから夕方までの数時間、沙織は渋谷の事務所に戻って仕事を片づけた。何を食べるか考えているうち、昼食を取るのを忘れていた。結衣に「今日、なんだか楽しそうですね」と言われて、「いつも通りよ」と答えたが、デスクの引き出しの鏡を、三回、覗いた。
六時十分前、再び丸の内のロビーに戻った。吹き抜けの下の長椅子に腰かけ、手帳を開く。予定表の今日の欄に、小さく「お礼」と書いてあった。傘を返す日。それだけのことだ。そう思っていても、ロビーの回転扉が回るたび、視線がそちらへ引き寄せられた。
人の波が夕方の光とともに押し寄せては、引いていく。その中に背の高い、紺色のスーツの姿を探している自分に気づいて、沙織は手帳に視線を落とした。
その夜、六時を少し過ぎて、ロビーのエレベーターから出てきた彼は、ネクタイを締め直し、髪を手ぐしで整えていた。
「お待たせしました」
「いえ、全然」
外は夕暮れの色に染まり始めていた。東京駅の赤煉瓦の駅舎が、橙色の光を浴びて、燃えるように輝いている。
「ここから、歩いて十分くらいです。……古い店なんですけど、大丈夫ですか」
「はい。楽しみです」
並んで歩き出す。肩と肩の間に、拳ひとつぶんほどの距離が、あった。
2. 『梟の止まり木』での告白
彼に連れられてやってきたのは、東京駅の八重洲口からほど近い、路地裏にひっそりと佇む居酒屋だった。ビルとビルの谷間の、人がやっとすれ違えるほどの細い道。その突き当たりに、古風な木の看板が掲げられている。
『梟の止まり木』。
墨で書かれた文字が、軒先の提灯の灯りに、柔らかく浮かんでいた。引き戸を開けると、からりと乾いた音がして、焼き魚の香ばしい匂いが、鼻先をくすぐった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白い調理着の男性が、低い声で言った。六十代だろうか。短く刈った白髪と、日に焼けた太い腕。寡黙そうな人だ。その隣で小柄な女性がにこやかに会釈してくれる。
「あら、翔太くん。今日はお連れさん?」
「女将さん、こんばんは。仕事でお世話になってる方なんです」
「そう、いらっしゃい。さ、奥の席どうぞ」
店内はこぢんまりとしていた。カウンター席が七つと、小上がりのテーブル席が三つ。使い込まれた木の柱は、年月で黒光りしている。壁には手書きの品書きが、びっしりと貼られていた。「鮎の塩焼き」「だし巻き玉子」「茄子の揚げびたし」「冷やしトマト」。どれも季節の匂いがした。
カウンター席に並んで座り、まずはビールで乾杯した。小さなグラスの中で、泡が細かく弾けている。
「改めて、先日はありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、お時間いただいて」
最初は仕事の話や、お互いの趣味の話など、当たり障りのない会話が続いた。彼は聞き上手で、沙織が話すことに、的確な相槌を打ちながら、熱心に耳を傾けてくれた。
「相馬さんは今おいくつなんですか?」
「二十六です。入社して四年目で。あ、そうだ」
彼はふと思いついたように、グラスを置いた。
「あの、翔太でいいです。同期や後輩には、みんなそう呼ばれてて。相馬さんって呼ばれると、なんか、落ち着かなくて」
「そうなんですか。じゃあ……翔太くん、で」
口にしてみると、思いのほか、自然に響いた。二つ年下だからだろうか、「くん」はすぐ舌に馴染んだ。
「はい」
翔太くんは、嬉しそうに笑った。その笑顔には、あの雨の日の頼もしさとは違う、年相応の無邪気さがあった。
「じゃあ、俺も、沙織さんって呼んでいいですか。杉本さんだと、なんか、会議みたいで」
「……どうぞ」
名前を呼ばれただけなのに、くすぐったかった。
料理が運ばれてくる。まず、だし巻き玉子。黄金色の断面から、湯気がふわりと立ち上った。
「これ、食べてみてください。ここの、いちばんのおすすめなんです」
箸で切ると、じゅわり、と出汁が溢れた。口に運ぶ。やわらかく、ほのかに甘い。噛むほどに、昆布と鰹の旨味が、舌の上に広がっていく。
「……おいしい」
思わず、声が漏れた。
「でしょう」
彼は自分のことのように、誇らしげな顔をした。
次に運ばれてきたのは、鮎の塩焼きだった。皿の上で銀色の身が背をそらして泳いでいるように見える。
「鮎は頭から食べるんです。こうやって、骨をはずして」
翔太くんが手本を見せてくれる。尾びれを持ち、箸でそっとしごくように、身から骨を引き抜いていく。真似をして、沙織もやってみる。不格好だったが、骨はするりと抜けた。
「わ、抜けた」
「上手です」
「子供みたい。こんなことで、嬉しくなるなんて」
そう言って笑ってから、沙織ははっとした。この一ヶ月、いや、その前から、自分は一度もこんなふうに笑っていなかった。
「そういえば」
沙織は鮎の骨を皿の端に置いて、尋ねた。
「どうして、あの日、声をかけてくれたの? 傘を差して、わざわざ外まで」
「ああ」
彼はビールのグラスを回しながら、困ったように笑った。
「ロビーのガラス越しに、見えたんです。道の真ん中に、誰か立ってるなって。最初は雨宿りの場所を探してるのかなって思ったんですけど。十分くらい、そこから動かなくて」
「十分も」
「気になって、見てました。それで、これは通り過ぎるのを待ってる人じゃないなって。会議室であんなに堂々と話してた人が、って、なんだか」
彼はそこで言葉を切った。ためらうように、視線を泳がせる。
「……すみません。余計なお世話でした」
「ううん。余計なんかじゃ、ない」
沙織は首を横に振った。
「あの日、あなたが来てくれなかったら、私、本当にあのまま立ってたと思う」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。けれど、それは気まずいものではなかった。炭火の爆ぜる音と、遠くのテーブルの笑い声が、沈黙を柔らかく満たしていた。
料理を口に運び、日本酒に切り替える。お酒が進むにつれて、店の温かい雰囲気と、翔太くんの穏やかな存在感が、沙織の心の鎧を、少しずつ溶かしていった。この人になら、話してもいいのかもしれない。そんな思いがふと頭をよぎった。
「沙織さんの、お仕事って、実際、どういうことをするんですか。さっきの、『秋の夕方』みたいな言葉は、どうやって、思いつくんですか」
話題が仕事のことに移ると、沙織はいつもの自分に戻った。
「うーん。ひらめくというより、積み重ね、かな。商品を飲んで、パッケージを見て、売り場に立って、手に取る人を眺めて。そのうちに、ふっと言葉が浮かぶ瞬間があるの。ただ、その瞬間を待つために、何時間も売り場に立ってたりする」
「何時間も?」
「そう。ばかみたいでしょう」
「いえ。すごいです。そんなふうに、考えてる人が作ってくれてるんだなって、思うと営業としても嬉しいです」
翔太くんの目が、真剣だった。取引先への、お世辞ではない。本気で感心してくれているのが、伝わってきた。
「実はあの『秋の夕方』は、おばあちゃんの縁側の、匂いなの。夏の終わりに、ほうじ茶を飲みながら、庭を眺めてた」
「素敵ですね」
「……そんなふうに言われたの、初めて」
そう答えた自分の声が、思いのほか、柔らかかった。誰かに自分の言葉を、きちんと受け止めてもらう。それはこの数ヶ月、沙織が失っていた感覚だった。
そのとき、彼がグラスを置いて、沙織の顔を見た。
「沙織さん、何か悩み事でもあるんですか。さっきから、時々、遠い目をしているので」
彼のまっすぐな視線に、沙織はドキリとした。取り繕うことが、急に馬鹿らしく思えた。
「……分かりやすかった?」
「なんとなく。あの日の雨のときと、同じ顔をしてたので」
雨のときと同じ顔。
沙織はおちょこを置いた。指先が小さく震えている。
「……うん。実は少し前に、長く付き合っていた人に、振られちゃって」
一度口に出してしまうと、堰を切ったように、言葉が溢れ出した。五年間の交際。結婚の約束。三月から、彼の心がすでに離れていたこと。彼が選んだのは、会社の、自分より五つ年下の女性だったこと。部屋に残された、マグカップとオーデコロン。合コンで言われた、「年下のほうが楽」という言葉。そして、自分はもう、年を取りすぎているから、次の恋愛なんてできないんじゃないかと、怖くてたまらないこと。
話しながら、涙が滲んできた。初対面に等しい年下の男性に、こんなみっともない話をしている自分が、恥ずかしかった。きっと引かれているだろう。同情されているだろう。
カウンターの向こうで、大将が黙々と鮎を焼いている。炭の爆ぜる音だけが、遠くで響いていた。
3. 彼の返答
沙織が話し終えると、二人の間に、しばしの沈黙が流れた。翔太くんはただじっと、手元のグラスを見つめている。沙織は言ってしまったことを後悔し始めていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳は同情や憐れみではなく、深い共感の色を湛えていた。
「すごく……辛かったんですね」
彼の声は低く優しかった。
「俺なんかが言えることじゃないですけど」
彼はそう前置きをして、言葉を続けた。
「でも、俺は恋愛に年齢は関係ないと思います。その人が好きかどうかっていう、ただそれだけのことじゃないですかね」
それは、ありきたりな慰めに聞こえた。けれど、彼はそこで話を終えなかった。
「実家の食堂に、常連さんがいるんです。源さんっていう、七十八歳のおじいさんで。三十年以上、毎日昼に来てくれてたんですけど」
「毎日?」
「はい。同じ席で同じ生姜焼き定食。で、その向かいの席に、いつもふじ子さんっていう、七十一歳のおばあさんが座ってた。二人とも長いこと一人暮らしで、でも、ずっと他人みたいな顔して、食べてたんです」
翔太くんは思い出すように、小さく笑った。
「それが三年前の秋に、源さんがいきなり、言ったんです。『ふじ子さん、俺と一緒に飯を食ってくれ』って。店の中でみんなが見てる前で」
「えっ」
「うちの母なんて、お玉を落としましたからね。で、ふじ子さんが真っ赤な顔で、『遅いわよ』って。三十年待ったんだからって」
沙織は思わず、吹き出していた。涙で濡れた顔のまま、笑った。
「それでどうなったの?」
「今は二人でふじ子さんの家で、毎晩ごはんを食べてるそうです。源さん、先月、俺に言ってました。もっと早く言えばよかった、って」
彼はグラスの縁を、指でなぞった。
「だから、年齢って、ただ時間が流れた数ってだけなんじゃないかなって。……たぶん」
彼は、解決しようとはしなかった。「大丈夫ですよ」とも、「忘れたほうがいいですよ」とも言わなかった。ただ、「辛かったんですね」と痛みを受け止め、自分の目で見てきた小さな本当の話を、そっと隣に置いてくれただけだった。
沙織は胸の底で凝り固まっていた何かが、ほどけていくのを感じていた。それは彼女がここ一ヶ月、探し続けていた、正体の分からない何かだった。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。けれど、その一言には心からの感謝が込められていた。
「あらあら、泣かせちゃったの?」
カウンターの内側から、女将が小さな皿を差し出してきた。きゅうりと茗荷の浅漬けが、涼しげに盛られている。
「サービスよ。これ食べて、元気だしなさい」
「あ、ありがとうございます」
「翔太くん、女の人泣かせたらだめよ」
「泣かせてないですって」
翔太くんが慌てて両手を振る。その仕草が可笑しくて、沙織はまた笑った。笑いながら、目尻を拭った。
大将が焼きたての鮎を、もう一尾、無言でカウンターに置いた。ぶっきらぼうな手つきだった。けれど、その鮎はさっきのものより、ひと回り大きく見えた。
4. 新しい習慣
その日の食事は、あれほど重い打ち明け話のあととは思えないほど、穏やかに終わった。帰り際、割り勘にしようと財布を出しかけた翔太くんは、「今日はお礼なんでしょう」と笑って、その手を引っ込めた。結局、沙織が全額を払った。
店の外に出ると、夜気がひんやりと頬を撫でた。路地の向こうから、東京駅へ向かう人々のざわめきが、遠く聞こえてくる。
「また、こうやって食事でもどうですか」
駅の改札の前で、翔太くんが言った。
「俺、おいしい店見つけるの、結構好きなんです。一人で行くのも、いいんですけど。誰かに教えたくなるんですよね。ここ、うまいですよって」
そう言って笑う彼の顔には、年相応の無邪気さがあった。
「……うん。ぜひ」
彼がスマートフォンを取り出した。
「連絡先、聞いてもいいですか。店の場所、送りたいので」
画面を向け合って、二人は番号を交換した。ただそれだけのことなのに、画面に並んだ「相馬翔太」の四文字が、妙に眩しく見えた。
それから、二人の間に、新しい習慣が生まれた。二週間に一度、仕事帰りに待ち合わせて、一緒に夕食をとる。
七月の終わりには、神田の路地にある古い洋食屋に行った。デミグラスソースの香りが、店の外まで漂っている。ふわふわの卵に包まれたオムライスを、一口食べて、沙織は思わず「うわあ」と声を上げた。
「こういう、昔ながらの味、好きなんです」
「私もすごく好き。子供の頃、日曜日に親に連れていってもらった記憶がある」
「やっぱり。沙織さん、こういうの好きそうだなって、思ってました」
お盆の少し前には、月島のもんじゃ通りに行った。鉄板の上で小さなヘラを動かしながら、焦げ目のついた端っこを争った。
「ずるい、それ、私が狙ってたやつ」
「早い者勝ちです」
熱気と煙の中で、笑い声が響いた。汗をかきながら、冷たいビールを喉に流し込む。夏の夜の、どうしようもなく心地よい疲労感だった。
神保町の蕎麦屋に行ったのは、お盆が過ぎた八月の下旬だった。二週間に一度のはずが、その頃には、食事の合間にも、メッセージが毎日のように行き交うようになっていた。冷たい水で締めた蕎麦を、塩だけで食べさせる店だった。ざるの上に、細い麺がきらきらと光りながら並んでいる。
「最初は何もつけずに、そのまま。それから、塩。最後につゆです」
言われたとおりに、一口ずつ味わう。蕎麦の香りが鼻に抜けた。
「蕎麦って、こんなに甘かったんだ」
「でしょう」
食べ終えて、会計の段になると、二人はまた、レジの前で、小さな攻防を繰り広げた。
「今日は私が」
「最初の夜も、洋食屋も、もんじゃも、沙織さんが払ってくれたじゃないですか。今日は俺です」
「でも、年上だし」
言ってしまってから、沙織はしまった、と思った。年上。その単語を、自分から口にしてしまった。
翔太くんが財布から札を出す手を止めて、まっすぐに沙織を見た。
「年上かどうかは、関係ないです。今日は俺が払いたいんです」
まっすぐな声だった。有無を言わせない、というよりはただ、素直な気持ちを置くような言い方だった。
「……じゃあ、次は私ね」
「はい。交代でいきましょう」
それが二人の間の、ささやかな決まりになった。奢られることに、負い目を感じなくていい。彼がそういう形を選んでくれたのだと、沙織は後になってから気づいた。
翔太くんが探してくる店は、決してお洒落な高級店ではないけれど、どれも料理がおいしくて、居心地の良い場所ばかりだった。彼は店に入る前に、必ず、その店の「いいところ」を小さな声で、こっそり教えてくれる。この店は出汁が丁寧だとか、あそこは女将さんの漬物が絶品だとか。
彼との会話はいつも自然体でいられた。仕事の愚痴をこぼしたり、最近見た映画の感想を言い合ったり。彼は沙織の話を、いつも楽しそうに聞いてくれたし、彼自身の話も気兼ねなくしてくれた。川越の実家のこと。大学時代のサッカー部のこと。初めて取った大型契約の話。
食べ物を前にすると、彼の顔は本当に幸せそうになる。その顔を見ていると、沙織の中にも「食べたい」という気持ちが、少しずつ、戻ってきた。
気がつけば、家の冷蔵庫の中身が、変わっていた。しなびたレタスは、新鮮な野菜に。卵は毎週、新しいものに。休日には昼から、小さな鍋でスープを煮るようにもなった。夜、台所に立つ自分の姿が、窓ガラスにぼんやりと映っていた。
通知音が鳴るたび、スマートフォンに手を伸ばす自分に気づいたのは、八月に入った頃だった。仕事の連絡だと、少しがっかりする。翔太くんからだと、画面を見る前に、口元が緩んでしまう。いい大人なのに、と自分を笑いながら、それでも通知音の設定だけは、変えられなかった。
「それ、デートじゃん」
ある夜、電話の向こうで、里奈が断言した。
「違うよ。ただの、リハビリ」
「リハビリって何」
「傷ついた心を癒すための、……運動、みたいな」
「へえ。リハビリで、毎回、新しい服着ていくんだ」
「着てない!」
「この前、見たよ。新しいスカート」
「それは前から持ってたの!」
里奈の笑い声が、電話の向こうで弾けた。沙織は頬を膨らませて、ソファのクッションを抱え込んだ。
この時間はデートではなかった。少なくとも沙織はそう思っていた。傷ついた心を癒すための、リハビリのようなもの。仕事で知り合った、気の合う年下の男性と、ただ、おいしいものを食べに行く。それだけのことだ。
けれど、その穏やかで、温かい時間が少しずつ、沙織の中で大きな存在になっていくのを、彼女はまだ気づいていなかった。




