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雨上がりの恋の予感  作者: 久遠 睦


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2/5

第二部 空が泣いている

1. 硝子のジャングル

七月の第二金曜日。合コンから、六日が経っていた。

朝、玄関で靴を履きながら、沙織は手帳に挟んだ名刺入れの重さを確かめた。今日はこの数週間で最も大事な日だった。部屋の空気が重いからといって、仕事を休むわけにはいかない。いや、むしろ今は仕事があって良かったとさえ思う。

渋谷の事務所で後輩の結衣と最後の資料チェックを済ませ、森田に「行ってきます」と声をかけると、課長は手の中のペンをくるりと回して言った。

「望月さんには変に取り繕うなよ。売り場のことを分かってる人だから、実のある話だけすればいい」

「はい」

「それと」

「はい?」

「あー……いや。腹はちゃんと満たしてから行けよ。頭が回らなくなるぞ」

前日、コンビニのおにぎりを半分残していたことを、見られていたらしい。沙織は笑って、「はい、食べました」と嘘ではない嘘をついた。事務所を出る前に、給湯室でバナナを一本、立ったまま食べた。

丸の内のオフィスビルのロビーは、冷房が効きすぎて、肌寒いほどだった。受付で来客証を受け取り、エレベーターホールの長椅子で、約束の時間を待つ。吹き抜けの天井から、陽が降り注いでいた。外は一点の曇りもない、真夏のような青空だった。

雨が降るなどとは、誰も思っていなかった。

会議室は二十二階にあった。大きな窓からは、東京駅の赤煉瓦の駅舎と、行き交う電車が見下ろせる。望月は時間ちょうどに現れ、「ではさっそく」と挨拶もそこそこに席に着いた。

沙織は午後三時、プレゼンテーションの最終ページを閉じた。

「以上が秋の新商品『ほうじ茶と林檎のソーダ』の販促キャンペーンのご提案です。ポイントは売り場での『手に取る瞬間』にあります。店頭に並ぶ時間は、ほんの数秒。その数秒で選ばれるために、什器の高さ、POPの言葉、色の順番まで設計いたしました」

長机の向こうで、先方の販促部長の望月が、腕を組んだまま頷いている。五十歳を少し過ぎた、数字に細かいことで知られる人だ。会議室には他に、販促部の若手が二人、営業部から見学に来たという若い男性が一人、壁際の席に座っていた。

テーブルの上には、試作品の缶が人数分、並べられていた。「どうぞ、飲んでみてください」という望月の言葉に、沙織は一口、含んだ。炭酸の泡の向こうから、ほうじ茶の香ばしさと、林檎の甘酸っぱさが、順番に立ち上がってくる。

「……秋の夕方に似ています」

思わず、口をついて出た。

「夕方、ですか」

「はい。夏の終わりに、日が傾いて、ふっと涼しくなった頃の、あの縁側の匂いというか。だから、この商品の主役は、昼間の冷たさではなく、一日の終わりに『ほっとする』ことだと思いました。今回の企画はその一点を軸に組んであります」

望月がわずかに眉を上げた。壁際の彼がノートに何かを書き留めたのが、視界の端に映った。

沙織は企画書の表紙に刻んだ一行を、改めて、口にした。

「『秋の夕方に、ほっとひと息』。これがキャンペーン全体の言葉です。この商品を手に取る人は、きっと一日の終わりに、ごく短いあいだ、肩の力を抜きたいと思っている。売り場でもその『ほっ』を、感じていただけるように、什器の色は夕焼けのグラデーションにしました」

「悪くないですね。ただ、肝心なのは現場です。どれだけ立派な什器を用意しても、売り場の人間が使いこなせなければ、絵に描いた餅になる」

「はい。その点につきましては」

沙織が答えかけたとき、壁際の席から、落ち着いた声が上がった。

「あの、一点だけ、よろしいでしょうか」

全員の視線が集まる。声の主は先ほどから黙ってノートにペンを走らせていた、二十代半ばの男性だった。名前は紹介されていない。紺色のスーツの肩が、いくぶん大きすぎるように見えた。

「ご提案の什器は、組み立てに必要な工程が六つあるとのことでした。実際の売り場では、閉店後に店員さんがお一人で作業されることが多いんです。もし、五分以内に、説明書を見なくても組み立てられる形になっていれば、導入していただける店舗がぐっと増えると思います」

会議室に短い沈黙が落ちた。

沙織は手元の企画書をめくった。メモ欄に自分の字で書いた赤ペンの一行が見える。十日ほど前の夜、人気のないフロアで記した言葉だ。

――閉店後の疲れた店員が、一人で組み立てる棚になる。

「ご指摘のとおりです」

自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。

「実はその点を次のページで補足するつもりでおりました。組み立て工程を六つから三つに減らし、色分けしたパーツで直感的に完成できる仕様案をご用意しています。現場の方が説明書なしで五分以内に組み立てられることを目標にしております」

ページを開いて、スクリーンに映す。壁際の彼がわずかに目を見開いた。それから、一瞬だけ、口元を緩めた。

「なるほど。そこまで考えてたのか」

望月が鼻から息を抜くように言った。

「いいでしょう。この方向で、社内の稟議を進めます。具体的な見積もりは、来週にでも」

「ありがとうございます」

「ただし、納期は厳しいですよ。十月の発売に間に合わせるには、八月中に什器の最終仕様を固めなければならない。御社、体制は大丈夫ですか」

「はい。社内で専任のチームを組みます」

即答しながら、頭の中ではすでに日程表が組み上がっていた。印刷会社の手配、試作品の製作、店舗テストの設計。やるべきことが、波のように押し寄せてくる。だがそれは、心地よい忙しさだった。

壁際の彼がふいに立ち上がり、全員のグラスに、ペットボトルのお茶を注いで回った。誰に頼まれたわけでもない、ごく自然な所作だった。沙織の前のグラスにも、冷たい緑茶が注がれる。

「ありがとうございます」

小声で言うと、彼は軽く会釈した。目が合ったのは、ほんの一瞬だった。

沙織は立ち上がり、望月に深く頭を下げた。その拍子に、一滴の汗がこめかみから落ちた。緊張の糸が緩んでいくのを感じる。ここ数週間、どれほど眠れなくても、どれほど食べられなくても、この仕事だけは、手を抜かなかった。それが報われた気がした。

エレベーターの鏡に映った自分の顔は、疲れていたが、先週までよりは、ずっと人間の顔に近かった。

一階に降り、ロビーの隅で、森田に電話を入れた。

「どうだった」

「通りました。方向性はこのまま進めるそうです。見積もりは来週に」

「そうか」

電話の向こうで、森田が長い息を吐いた。それから、いつもより明るい声で言った。

「よくやった。……今日はもう直帰でいい。おいしいもんでも食って帰れ」

「はい。ありがとうございます」

おいしいもの。その言葉が思いのほか、胸に残った。

一階のロビーを出ると、仲通りの街路樹が、夏の光を浴びて、葉の一枚一枚を輝かせていた。ガラス張りの洒落た店のテラス席では、スーツ姿の男女が、冷たい飲み物を手に笑い合っている。ショーウィンドウに映る自分の姿を、沙織はちらりと見た。企画が通った日の顔にしては、どこか寂しげだった。

喜びを分かち合う相手が、いない。

以前なら、すぐに達也にメッセージを送っていた。「通ったよ」と。彼は決まって、スタンプとともに、「さすが! 今夜はお祝いだな」と返してくれた。そしてその夜は、ちょっと奮発した店で、乾杯した。

スマートフォンを取り出して、指が止まる。メッセージアプリの奥には、達也とのやりとりが、まだ残っている。けれど、そこへ「通ったよ」と送る資格は、もう自分にはない。画面を閉じて、バッグにしまった。

時刻は午後四時半を過ぎていた。

傾き始めた西日が、ガラスと鉄骨でできた巨大なビル群に反射し、地上に幾何学的な光と影の模様を描き出している。ここは東京という都市の心臓部だ。整然と区画された街並み、塵ひとつない歩道、足早に行き交う隙のないスーツ姿の人々。すべてが完璧に設計され、管理されている、巨大な箱庭。沙織が普段過ごしている三軒茶屋の、どこか人間臭い雑多な空気とはまるで違う、非現実的なまでの秩序が支配する世界だった。

多くのビジネスマンが、駅やビルに直結した巨大な地下街へと吸い込まれていく。雨の日でも濡れることなく、夏の暑さにも冬の寒さにも身を晒すことなく、快適に移動できる合理的なシステム。それは感情の揺らぎや自然の気まぐれといった、予測不能な要素を徹底的に排除しようとする、この街の意志の表れのようにも思えた。

けれど、今日の沙織はその合理的な地下通路を選ぶ気にはなれなかった。あえて地上を、この無機質な硝子のジャングルの下を歩きたかった。何かを感じたかった。たとえそれが街が放つ圧倒的な威圧感や、自分がこの壮大な風景のなかのちっぽけな一点でしかないという孤独感であったとしても。

足を止めて、見上げる。ビルの谷間に切り取られた空は、朝の晴天が嘘のように、低く重く垂れ込めていた。皇居へと続く行幸通りは、高層ビルが林立する中で唯一、視界が大きく開けている。その道の向こうに、巨大な入道雲が、黒い塔のようにそびえていた。

天気予報は見なかった。

そのことに、沙織はふと気づいた。五年間、毎朝のように、達也が「今日は午後から降るってよ」と声をかけてくれていた。傘を持たずに家を出ようとする沙織に、玄関先で折り畳み傘を渡してくれたのも彼だった。二本持っているから大丈夫、と笑って。

この五年、雨の日に濡れたという記憶が、沙織にはほとんどない。それはつまり、傘を持たない自分を、いつも誰かが守っていたということだ。

今朝、玄関のドアノブに手をかけたとき、傘立ての中に、達也のビニール傘が一本、残っているのが目に入った。沙織はそれを見なかったふりをして、出てきた。

2. 夕立

空の変化は唐突だった。

さっきまで空を染めていた鈍色の光が、病的なまでの黄色みを帯びた灰色へと変わる。むっとするような湿気を含んだ生暖かい風が、沙織の髪を撫でた。遠くで地鳴りに似た低い音が響いた。雷だ、と思った瞬間、アスファルトに、ぽつ、ぽつ、と大きな雨粒が落ち、乾いた音を立てて黒い染みを作った。

それはほんの序章に過ぎなかった。一分と経たないうちに、空が裂けたかのような豪雨が、街を叩きつけた。夕立。その言葉が持つ情緒的な響きとは裏腹に、それは暴力的とさえ言えるほどの激しさだった。白く煙る雨の向こうで、ビルの輪郭が溶けていく。人々は悲鳴を上げて走り出し、ビルの軒下や地下鉄の入り口へと避難していく。ついさっきまで秩序に満ちていた街は、一瞬にして混乱に陥った。

近くのコンビニの入口には、ビニール傘を求める人の列ができていた。傘の棚はあっという間に空になる。店員がレジの前で、申し訳なさそうに頭を下げている。沙織の足でも、わずか数十歩の距離だった。傘を買おうと思えば、買えた。

買わなかった。濡れることを、選んだのだ。

ハイヒールの音。誰かの叫び声。ビルの庇の下に押し合うように集まる人の波。スマートフォンをかざして、空を撮影している観光客もいた。傘を広げる間もなく、バッグを頭に載せて走り去る若い女性。タクシーの乗り場には、あっという間に長い列ができる。

沙織はその場に立ち尽くしていた。

たちまち、髪もブラウスもスカートもずぶ濡れになった。冷たい雨が肌を打ち、体温を奪っていく。靴の中に水が入り込み、足の指の間でぐしゅりと音を立てた。だが、不思議と不快ではなかった。むしろ、一種の解放感があった。

雨の匂いが、立ちのぼってきた。熱せられたアスファルトが、一気に冷やされる、あの、土埃と鉄が混じったような匂い。子供の頃、夏の夕立のあとの校庭で、何度も嗅いだ匂いだった。懐かしくて、胸が痛んだ。

雷鳴が轟いた。空がほんの一瞬、白く光り、ビルの壁面が青白く浮かび上がる。体の芯まで揺さぶるような低音が、胸骨の奥に響いた。子供の頃、雷が怖くて、母の布団に潜り込んだことを思い出す。怖いはずだった。けれど今はその轟音が自分の内側で鳴っている音と、どこか似ている気がした。

この数週間、沙織はずっと、自分の感情という名の嵐に抗おうともがいていた。悲しみに沈まないように。怒りに我を忘れないように。絶望に飲み込まれないように。必死で自分をコントロールしようとしていた。物分かりのいい女の仮面を、一枚も剥がさないように。

付き合い始めて最初の夏の夕立を、沙織は覚えている。デートの帰り道、ゲリラ豪雨に降られ、二人でコンビニの軒下に駆け込んだ。達也は自分のシャツを脱いで沙織の頭に被せ、「風邪ひくなよ」と笑った。濡れたシャツ越しに、彼の体温が伝わってきた。この人に守られているのだと、あの時は心の底から思った。

けれど今、あの記憶を思い出しても、胸が痛むのは、雨や、シャツのせいではなかった。守られていると信じていたことそのものが、沙織には苦しかった。守られる人間は、守る人間がいなくなれば、立っていられなくなる。この四週間で、嫌というほど思い知らされた。

あの夜、「分かった」としか言えなかった自分が、いまも喉の奥に引っかかっている。本当は叫びたかった。行かないで、と泣いて縋りたかった。どうして私じゃだめなの、と問い詰めたかった。それができなかった自分を、沙織はこの四週間、ずっと責めていた。

だが、この天からの奔流はどうだ。人間の力では到底コントロールできない、圧倒的な自然の力。それに身を任せていると、自分の内側で荒れ狂っていた感情の嵐が、外の世界の嵐と呼応し、溶け合っていくような錯覚を覚えた。

もう、もがかなくてもいい。

もう、戦わなくてもいい。

これは降伏だった。自分の無力さを認め、ただ、この嵐に打たれることを受け入れる。それは心の奥底で固く張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる瞬間に似ていた。涙なのか雨なのか分からない水滴が、頬を伝って流れ落ちていった。

「あ……」

声が出た。自分のものとは思えない、掠れた、子供のような声だった。それを皮切りに、堰を切ったように、嗚咽が溢れた。雨音にかき消されて、誰にも聞こえない。誰も気づかない。この巨大な街のなかで、一人の女が声を上げて泣いていることなど。

沙織は顔を空に向けた。雨粒が目に入り、視界が滲む。ひどい顔をしているだろう。でも、構わなかった。生まれて初めて、泣けた気がした。部屋の中で、クローゼットに顔を埋めて泣く涙とは違う。体の内側に溜まっていたものを、すべて洗い流すような涙だった。

どれくらいの時間が経ったのか、分からない。五分か、十分か。

3. 分かち合う沈黙

「風邪、ひきますよ」

穏やかで飾り気のない声だった。

はっと顔を上げると、そこに一人の男性が立っていた。大きな紺色の傘を、沙織の頭上へと差し出している。雨音のなかで、その声だけが不思議なほどはっきりと届いた。

見覚えのある顔だった。数時間前の会議室。壁際の席で、ノートにペンを走らせていた、あの若い男性だ。名前はまだ知らない。確か、先方の営業部の人だ。

「……あ」

言葉にならない声が漏れる。彼は特に何かを言うでもなく、ただ傘を傾けていた。傘の下に生まれた小さな空間だけが、轟音を立てて降り注ぐ雨から守られた、唯一の聖域のようだった。彼の肩は沙織を庇うために半分濡れている。紺色のスーツの肩が、雨を吸って、黒く変色していた。

彼は、何も言わなかった。ただ、傘を差し出して、そこに立っていた。

「駅まで送ります」

彼はそれだけ言うと、歩き出した。沙織は操り人形のように、彼の隣についていく。足元は水浸しで、パンプスの中には水が溜まっている。それでも、歩幅を合わせてくれる彼の足取りは、慌てるでもなく、急かすでもなく、一定だった。

傘を打つ激しい雨音が、二人の間の沈黙を埋めていた。不思議な沈黙だった。気まずさはなく、むしろ心地よいとさえ思える、穏やかな静寂。彼からは下心も過剰な親切心からくる押し付けがましさも、一切感じられなかった。ただ、雨に濡れている人間を、ごく自然に傘に入れる。その行為に、純粋な優しさが滲み出ていた。

沙織は横目で彼を見た。背は沙織より頭一つ高い。顎の線はまだどこか少年のように細く、けれど傘の柄を握る手は、節が目立って、大きかった。

信号待ちで足を止めたとき、彼は肩にかけたビジネスバッグから、折り畳まれたタオルハンカチを取り出した。

「未使用なので。よかったら」

「……ありがとうございます」

受け取った綿のタオルは、柔軟剤の、石鹸のような清潔な香りがした。顔に当てると、冷えていた頬に、じんわりと温もりが広がった。化粧が落ちてしまうことなど、もう気にならなかった。

ふとブラウスが雨で肌に貼りつき、下着の線まで透けていることに気づいた。頬が熱くなる。慌てて、バッグを胸の前に抱え込んだ。彼は信号の向こうをまっすぐ見たまま、不自然なほど、視線を動かさなかった。それから、何も言わずに、傘を沙織の体の側へ、さりげなく傾け直した。

泣いていたことには、気づいているはずだった。目は真っ赤で、頬は雨でも涙でもない水に濡れている。それなのに、彼は一度も「どうしたんですか」とも「大丈夫ですか」とも訊かなかった。ただ、傘を沙織のほうへ傾け続けていた。

行幸通りを抜け、東京駅の赤煉瓦の駅舎が、雨の向こうに霞んで見えてきた頃、彼がぽつりと言った。

「夕立って、通り過ぎるのを待つのが一番なんですけどね」

「……はい」

「でも、あのまま待てそうな顔には見えなかったので」

沙織は思わず、小さく息を漏らした。それが笑いだったのか、泣き声の余韻だったのか、自分でも分からなかった。

「……すみません。みっともないところを」

「いえ」

彼は前を向いたまま、首を横に振った。

「さっきの会議で、おっしゃってましたよね。この飲み物は秋の夕方に似てるって」

「え。あ、はい」

「あれ、いいなと思ったんです。僕、実家が埼玉の川越で、小さな定食屋をやってるんですけど。閉店後の片づけを、子供の頃から手伝わされてて。そのとき、いつも店の灯りがだんだん落ちていって、鍋の湯気が静かになる時間が、一日でいちばん好きだったんです」

沙織は黙って耳を傾けていた。雨音に混じって、彼の低い声が、傘の下の小さな空間に、ゆっくりと広がっていく。

「だから、売り場の人のことが、気になってしまって。さっきは失礼なことを言ったかもしれません」

「失礼なんてことは、ありません」

強い声が出た。

「むしろ、助けていただきました。私、あの指摘がなかったら、現場の人の姿を、頭の中できちんと想像できていなかったかもしれません」

「そう言っていただけると」

彼は照れたように、傘を持つ手の甲で、鼻の頭をこすった。その仕草が会議室で見た冷静な横顔とは違って、ひどく幼く見えた。

地下鉄の入り口が見えてきた。階段の数段下まで、彼は沙織を送ってくれた。濡れたタイルの床に、行き交う人の靴跡が、いくつも残っている。

「これを」

彼は持っていた傘を、沙織の手に握らせた。

「え、でも……」

「会社に置き傘がたくさんあるので。営業って、傘をよく失くすんです。次にいらっしゃる時でいいので。それじゃ」

彼は軽く会釈すると、踵を返し、まだ雨が降りしきる地上へと戻っていった。その背中はあっという間に水の幕の向こうに溶けた。雑踏に消えるのを、沙織は呆然と見送る。

手の中に残された、まだ彼の体温が微かに残る傘の柄を、強く握りしめた。

名前を訊いていない。そのことに気づいたのは、改札を抜けて、ホームへ向かう階段を下りている最中だった。

電車がホームに滑り込んできた。車内は濡れた傘と人の湿気で、むっとしていた。ドアの横に立ち、窓に映る自分の顔を見る。隣に立つ会社員風の男性が、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。髪は乱れ、化粧は流れ落ち、ブラウスは肌に貼りついている。みっともない姿のはずだった。それなのに、驚くほど、気持ちが軽かった。

それは些細な出来事だったかもしれない。けれど、乾ききってひび割れていた沙織の心に、その親切は最初の一滴の雨水のように、深く静かに染み込んでいった。

誰かに見られていた、ということが不思議だった。この数週間、世界のどこにも、自分を見ている人などいない、と思っていた。会社でも電車でも家でも自分は透明な幽霊のように、ただ通り過ぎているだけだと。それなのに、あの人は、雨の中で立ち尽くす自分を、見つけてくれた。

見つけてもらえることが、これほど、人を安心させるものだとは、知らなかった。

三軒茶屋で電車を降りると、雨はいつのまにか小降りになっていた。傘を差す必要もないくらいだったけれど、沙織はそれを広げて歩いた。大きな紺色の傘は、一人で持つには、いくらか重たかった。

玄関のドアを開け、傘立てにそれを差す。達也のビニール傘の隣に、並べるように。

二本の傘が雫を落としながら、並んで立っていた。

濡れた服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びる。バスルームの鏡は、湯気で白く曇って、自分の顔を映さなかった。それが今夜はありがたかった。

髪を乾かし、部屋着に着替えてキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、しなびたレタスと、卵が二つ。それを見つめて、沙織はふっと笑った。

森田の言葉が頭に浮かんだ。おいしいもんでも食って帰れ。

冷凍庫の奥から、いつ買ったのか分からない冷凍うどんを発掘した。鍋に湯を沸かし、卵を落とし、レタスを刻んで放り込む。即席の、不格好な鍋焼きうどんだった。ダイニングテーブルに丼を置き、湯気を顔に受けながら、一口、すすった。

温かかった。味はちゃんとしていた。

食べながら、ふと紺色の傘の持ち主のことを考えた。名前も知らない、先方の営業部の人。傘を返さなければいけない。お礼もきちんと伝えなければ。

その考えが浮かんだことに、沙織自身がいちばん驚いていた。一ヶ月近く、自分の悲しみのことしか考えられなかった頭の中に、他の誰かの存在が、ひとつ、入り込んでいた。

食べ終えて、ふと思いついて、スマートフォンのメモ帳を開いた。宛名のない下書きが並ぶ一覧の、いちばん上に、新しい行を足す。

〈傘のお礼を言う。タオルは洗って返す。お菓子は、甘すぎないもの〉

誰かへの恨み言ではない、はじめての下書きだった。送る相手のいる文章を書くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。

丼を洗っていると、スマートフォンが鳴った。里奈からだった。

「あ、出た。生きてた」

「生きてるよ」

「声、前より元気じゃん。どうしたの、何かいいことあった?」

「仕事の提案が通ったの。それと……」

言いかけて、沙織は迷った。傘のことを、話すべきだろうか。

「それと?」

「帰りに夕立に降られて。ずぶ濡れで立ってたら、傘を貸してくれた人がいたの」

「へえ。男の人?」

「……取引先の人だけど」

「ふうん」

電話の向こうで、里奈の声がにやりと笑うのが分かった。

「その傘、ちゃんと返しにいくんでしょ?」

「当たり前でしょ。借りたものだもの」

「そっか。そうだよね。借りたものは返さなきゃね」

「里奈、変なこと考えてない?」

「考えてなーい。おやすみ、沙織」

通話が切れる。沙織は濡れた手をタオルで拭きながら、小さくため息をついた。そんなつもりは、ない。そんな気持ちは、まだ、どこにもない。ただ、傘を返す。それだけだ。

そう自分に言い聞かせながら、玄関に目をやる。傘立ての中の、二本の傘。

外では雨が上がっていた。ベランダの手すりから、最後の雫がぽたりと落ちる音がした。


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