第一部 空っぽの部屋に響くこだま
1. 解けていく糸
六月の最後の日曜日。梅雨のさなかの雨は、朝から途切れることなく窓を叩いていた。
三軒茶屋の駅から歩いて十分ほどの、静かな住宅街にあるマンションの七階。それが今の沙織の世界のすべてだった。達也がこの部屋を出ていってから、二週間が経つ。カレンダーには、彼が荷物をまとめて出ていった日に赤い丸がついている。丸をつけたのは自分だ。何のためにそうしたのか、今ではよく分からない。ただ、その赤い丸が一日ごとに遠ざかっていくのを、毎朝、歯を磨きながら確かめてしまう。
世界から音が消えたようだった。かつては彼の鼻歌や、シャワーの音、深夜のサッカー中継に文句を言う自分の声で満たされていた1LDKは、今や巨大な真空の箱だ。冷蔵庫のモーターが唸る低い音が、ときおり静寂をいっそう際立たせる。主を失った空間が上げる、か細い呻き声のようだった。
沙織はソファに深く身を沈め、膝を抱える。視線の先には達也が置いていったものが点在している。読みかけの文庫本に挟まれたままの栞。洗面台の隅に忘れられた、半分ほど残ったオーデコロンのボトル。キッチンカウンターの上では、彼が愛用していたマグカップが、持ち主の帰りを待つ忠犬のように鎮座していた。どれももう日用品ではない。滅びた文明から出土した遺物のように、痛々しい光を放っている。
捨てればいい、と何度も思った。けれど、手を伸ばすたびに指が止まる。捨てたら最後、彼が本当にいなくなってしまう気がした。馬鹿げているのは分かっている。彼はとうにいなくなっているのだ。
先週の日曜には、一度だけ片づけようとした。クローゼットの奥から、彼の置いていった服を三枚、ベッドの上に並べた。冬に買い足したグレーのカーディガン。色褪せた紺のパーカー。袖口がほつれた、ベージュのニット。ニットは付き合って最初の冬に、沙織が編み物教室で不器用に仕上げたマフラーとお揃いの色だった。
ゴミ袋を広げたまま、日が暮れるまでベッドの端に座っていた。結局、袋の口は閉じなかった。三枚はそのまま、元の場所に戻した。畳み直すとき、丁寧に折り目をそろえている自分に気づいて、笑ってしまった。笑いはすぐに、嗚咽に変わった。
部屋は悲しみを吸い込んで重くなる。そんな感覚が近頃の沙織にはあった。
二週間前の土曜の夜のことを、沙織は一語も欠けることなく覚えている。
その夜、達也は夕食を終えても席を立たなかった。いつもなら食器を流しに運び、ソファでテレビをつける人が、ダイニングテーブルの向こうで、自分の両手を見つめていた。
「話があるんだ」
その声の硬さで、沙織はすべてを察した。察したのに、洗いかけの皿を持ったまま、ばかみたいに「なに改まって」と笑ってみせた。笑った顔のまま固まった頬の感触まで、はっきり思い出せる。
「好きな人ができたんだ。年下の、会社の同僚なんだ」
水道の水が流れ続けていた。蛇口を閉めなければ、と思った。思ったのに、体が動かなかった。
「……いつから」
「三月くらい、から」
三月。沙織は頭の中で、カレンダーをめくった。三月には、二人で新幹線の予約をした。彼の実家へ挨拶に行くための、五月の連休の切符だった。けれど連休の直前、彼は「仕事が立て込んで」と言って、その予定を取り消した。思えばあれも、三月の続きだったのだ。
「沙織が悪いわけじゃない。本当に俺の問題なんだ」
それがいちばん残酷な言葉だと思った。悪くないのなら、なぜ私は捨てられるのだろう。理由が見つからないということは、直しようがないということだ。直しようのないものを抱えたまま、これからの人生を歩かなければならないということだ。
泣いて縋ればよかったのかもしれない。怒鳴って皿を投げればよかったのかもしれない。けれど沙織が口にしたのは、「分かった」という、自分でも信じられないほど平坦な一言だった。物分かりのいい女。五年間、そう呼ばれることを誇りにしてきた人間の、それが最後の矜持だったのかもしれない。
翌日の昼、達也は大きなボストンバッグと段ボール箱を三つ運び出し、「残りはまた連絡して取りに来るから」と言って、合鍵をテーブルに置いた。玄関のドアが閉まる音は、思っていたよりずっと小さかった。
五年間。沙織の二十三歳から二十八歳までの、人生で最も輝かしいはずだった時間。そのすべてを、達也と共に未来を描くために費やしてきた。三十歳で結婚し、三十二歳で最初の子供を。都心からは離れても、日当たりの良い庭付きの一軒家を。雑誌の特集記事を切り抜いたような、けれど二人にとっては確かな現実になるはずだった未来予想図。それがたった一言で、砂の城のように崩れ去った。
失ったのは恋人だけではなかった。もっと根源的な何か、自分という人間の設計図そのものを奪われた感覚だった。「あなたは誰ですか」と問われれば、この五年間、沙織の答えは「達也のパートナーの沙織」という枕詞から始まっていた。その枕詞が消えた今、後に残された「沙織」という名前はひどく頼りなく、空虚に響く。失恋という言葉では、とても足りなかった。
無理に忘れようとは思わなかった。悲しむときは気が済むまで悲しめばいい。そう考えて、沙織は泣きたいときには声を上げて泣いた。彼の匂いがまだ残るクローゼットに顔を埋め、嗚咽した。けれど、涙が枯れたあとに訪れるのは、凪いだ海のような絶望だけだった。悲しみの底には、出口がない。沙織はこの静かな部屋で、自分がゆっくりと溺れていくのを感じていた。
そういえば、とふと思う。最後にちゃんと食事をしたのはいつだっただろう。昨日の昼はコンビニの冷たいおにぎりを半分。夜は食べていない気がする。冷蔵庫の中には、達也が好きだった缶ビールの残りと、しなびたレタスと、賞味期限の切れた卵が三つあるだけだ。一人分の料理を作る手順を、体がもう思い出せなかった。
雨はまだ降り続けている。
2. デジタルの短剣
スマートフォンが震えたのは、午後二時を回った頃だった。
「もしもし、沙織? 大丈夫?」
画面に表示された「里奈」の文字に沙織は重い指で応答した。大学時代からの親友である里奈は、事情を知った日から、毎日欠かさずこうして電話をくれる。旅行会社に勤める彼女の声は、いつも受話器越しでも明るい。その明るさが今日は、陽だまりのように眩しかった。
「うん、なんとか」
「声、元気ないじゃん。今からそっち行こうか? 駅前で何か買ってく」
「ううん、大丈夫。一人でいたい気分だから」
気遣いはありがたい。けれど今は誰の優しさもガラスの破片のように心に刺さる。ましてや里奈は、来年の春に恋人の健太と結婚式を挙げる予定なのだ。招待状の文面を一緒に考えようと言われたのが、まだ先月のこと。彼女の幸福を、心から祝っているつもりだ。それなのに、その幸福の輪郭に触れるたび、自分の欠落が際立つ気がして、そんな自分が嫌だった。
里奈との当たり障りのない会話を続けながら、沙織は無意識にSNSのアプリを開いていた。指が勝手に、達也のアカウントを探す。ブロックすることも、フォローを外すこともできずにいる。そうしなければ、彼の生活とかろうじて繋がっていられる気がしたからだ。
そして、見てしまった。
二週間、見ないようにしていたのに、気づけば画面をスクロールしていた。タイムラインを遡っていくと、去年の秋の写真が出てきた。紅葉の下で、沙織と達也が頬を寄せ合って笑っている。コメント欄には、里奈の「お似合い!」の文字が残っていた。その写真はまだ、消されていなかった。消されないまま、今の写真の下に、静かに埋もれていた。
画面の一番上に戻る。
彼の最新の投稿。それは前の週末に行ったという海辺のカフェで撮られた一枚だった。達也が満面の笑みで誰かの肩を抱いている。その隣で太陽のように明るく笑っているのは、知らない若い女性だった。ショートボブがよく似合う、快活そうな顔立ち。タグ付けされた彼女のアカウントに飛ぶと、プロフィール欄には「二十三歳」とあった。
写真の中の二人は、沙織が達也と過ごした五年間にはなかったような、弾けるような幸福感に満ちていた。世界には自分たち二人しかいないとでも言うように。投稿されたのは、昨夜だった。つまり彼は沙織が冷蔵庫の前で立ち尽くしていたその時間に、こうして笑っていたのだ。それは沙織の心を抉る、鋭いデジタルの短剣だった。
「沙織? 聞いてる? もしもーし」
「…………ごめん、里奈。また後でかける」
通話を切り、沙織はスマートフォンをソファに投げつけた。怒りと悲しみが、マグマのように腹の底からせり上がってくる。年下。二十三歳。その数字が呪いのように頭の中で反響した。自分より五つも若い。それは努力ではどうにもならない、残酷な事実だった。
達也は沙織という五年の歳月を、いとも簡単に上書きしてしまった。新しい、若くて、輝かしい存在によって。沙織は自分が古びて、価値のなくなった骨董品のように思えた。過去の恋愛と比べても意味はないと頭では分かっているのに、やめられない。写真の中の彼女の、シミひとつないであろう肌と、自分の目尻にうっすらと刻まれ始めた小じわを、比べてしまう。
洗面所の鏡の前に立つ。化粧もしていない二十八歳の顔が、照明の下で青白く光っていた。笑ってみる。口角を上げると、目尻に細い線が寄る。笑わなければ見えない線だ。けれど、笑わなければ、誰にも選ばれない。
怒りはやがて、冷たい自己嫌悪に変わっていった。自分にはもう価値がないのだろうか。女としての賞味期限は、もう切れてしまったのだろうか。
十分ほどして、床に落ちたスマートフォンが再び震えた。里奈からのメッセージだった。
〈さっきの、たぶん見ちゃったんでしょ。あのね、来週の土曜、空けといて。拒否権なし。お願い〉
返事は打てなかった。けれど、既読の文字だけが、沙織の手の中で灯っていた。
夕方、今度は母から電話があった。名古屋の実家で、父と二人で暮らしている母は、週末になると、決まって娘の声を聞きたがる。
「あんた、ちゃんと食べとるの? 達也さんは元気? お盆は二人で帰ってくるんでしょ?」
喉の奥がきゅっと締まった。話していない。この二週間、母にも父にも何ひとつ話せていなかった。達也の名前を聞くたびに、母の嬉しそうな声が、沙織の胸のどこかを踏みつける。
「うん……忙しくて、まだ決めてないけど。たぶん、私一人になるかも」
「一人って、なんで。達也さん、お仕事忙しいの?」
「そう、そんな感じ。ごめん、ちょっと今、手が離せなくて。また電話するね」
嘘ではなかった。けれど、本当のことでもなかった。電話を切ってから、沙織は何分もの間、自分の手を見つめていた。母が口癖のように言う言葉が、耳の底に残っている。三十までにはちゃんとしなさいよ。いつもは笑って聞き流していたその言葉が、今は時限爆弾の秒針のように響いた。
三十歳まで、あと二年。
3. 月曜日の顔
月曜の朝、沙織はいつもより三十分早く家を出た。部屋にいるよりは、満員の田園都市線に押し込まれているほうがましだった。人の体温と汗の匂いに挟まれて、自分が一個の物体になっていく感覚は、悪くなかった。何も考えなくて済む。
渋谷の路地裏にある雑居ビルの四階。それが沙織の勤める広告制作会社だった。社員は二十人に満たない。飲料や食品、化粧品といった消費財の販促物を手がけるのが主な仕事で、沙織は入社六年目、営業とプランナーを兼ねている。大手の広告代理店のように華々しくはないけれど、小さな会社には小さな会社なりの、手触りのある仕事があった。
「おはようございます」
「おう、おはよう。……ちょっと顔色悪くない?」
デスクの島の向こうから、課長の森田が声をかけてきた。五十代前半、鷹揚で怒鳴ったところを見たことがない人だ。沙織が新人の頃から、ずっと見守ってきた人でもある。
「大丈夫です。週末、ちょっと寝つきが悪くて」
「ならいいけど。来週の丸の内、準備は進んでる?」
丸の内。その単語で、沙織は背筋を伸ばした。担当しているのは、創業百年を超える老舗の飲料メーカーだ。秋に向けた新商品の販促キャンペーンの企画を、来週金曜に先方へ提案することになっている。社運というほど大げさではないにせよ、この会社にとっては大きな案件だった。
「はい。企画書は七割ほど。今週中に形にします」
「頼むよ。先方の望月部長、数字に細かい人だから。売り場に落ちる話をしっかり入れてな」
「承知しました」
席に着き、パソコンを立ち上げる。メールの宛先欄に文字を打ちかけて、指が止まった。予測変換の候補の一番上に、「達也」の二文字が出てきたのだ。プライベートのアドレスと、仕事用のそれが同じ端末に混在していたことを忘れていた。その名前を消すのに、沙織は三度、バックスペースを叩かなければならなかった。
昼休みには隣の席の後輩が、週末に付き合い始めたばかりの恋人との話をしていた。二十四歳の彼女の声は、軽やかに弾んでいる。沙織は笑顔で相槌を打った。「へえ」「よかったじゃない」「今度、聞かせてね」。口はなめらかに動いた。六年間の営業で身につけた技術は、心が空洞になっても、機械のように働いてくれる。
その夜は十時まで残業をした。企画書の骨子を詰める作業は、思いのほか沙織を救った。数字と売り場の動線と、手に取る人の顔を想像する作業。そこには達也の入り込む余地がなかった。
人気のなくなったフロアで、沙織は先方から預かった過去のキャンペーンの資料を広げた。写真の中のスーパーの飲料売り場は、段ボールの什器が斜めに傾き、POPの角が剥がれかけていた。どれほど優れた企画も、現場に届くまでに、誰かの手が必要になる。企画書の中では完璧な棚が、実際には閉店後の疲れた店員が、一人で組み立てる棚になる。
その視点を忘れてはいけない、と赤ペンでメモを書き込む。
仕事のことなら、考えられた。迷い、悩み、決断を下せた。恋愛だけがいつまでも頭の中の霧のなかに沈んでいる。
「まだいたのか」
森田が缶コーヒーを二本持って立っていた。一本を黙って沙織のデスクに置く。
「ありがとうございます」
「無理するなよ。……いや、無理したい時もあるか」
何かを察しているような口ぶりだった。森田はそれ以上は何も尋ねなかった。ただ、自分のコーヒーを一口飲んでから、ぽつりと言った。
「仕事ってのはな、俺たちが思うよりずっと、人を支えてくれるんだよ。恩着せがましいけどな」
「……はい」
沙織は缶のプルタブを引いた。ぬるくなりかけた甘さが、乾いた喉に染みた。
帰りの電車で、ドアに額をつけて目を閉じる。窓ガラスに、疲れた女の顔が映っていた。昼間あれほど上手に笑っていた人間と、同じ人物とは思えなかった。
三軒茶屋の駅に着く頃には、雨が上がっていた。コンビニに寄り、弁当をカゴに入れかけて、棚に戻す。結局、買ったのはゼリー飲料が一本だけだった。部屋に戻って、玄関の電気をつけて、誰もいないことを確かめる。そこまでがもう日課になってしまっていた。
その夜、午前二時に目が覚めた。眠れないまま、スマートフォンのメモ帳を開くと、指が勝手に文字を打ち始めた。
〈元気? 急にごめんね。荷物のことなんだけど〉
消す。
〈あのとき、本当は言いたかったことがあって〉
消す。
〈私の何がいけなかったのか、教えてほしい〉
三行目で涙が画面に落ちた。送信先は空欄のまま。下書きの一覧には、宛名のない言葉が、もう六つも溜まっていた。朝になれば、きっと全部消す。分かっているのに、夜になるとまた、打たずにはいられなかった。
みっともない、と思った。けれど、誰にも見られない暗闇のなかでだけは、みっともない自分を許してやりたかった。
4. 試練の合コン
土曜日。七月最初の週末だった。梅雨明けはまだ先で、朝から空気は湿り気を含み、窓ガラスにうっすらと水滴がついていた。
出かける前、沙織は一時間もクローゼットの前に立っていた。この三週間、仕事用の服しか着ていなかった。休日のワンピースは、どれも達也と出かけた日の記憶が染みついている。結局、三年前に一人で旅行した時に買った、紺色のブラウスとスカートを選んだ。目立たない。誰の記憶にも残らない。それが今日の沙織が望む姿だった。
鏡の前でファンデーションを重ねる。目の下のくまが、なかなか消えない。化粧をするのは、こんなに骨の折れる作業だっただろうか。
「いい加減、外に出なよ! 新しい出会いを探しに行くの!」
恵比寿駅の改札で待っていた里奈は、沙織の顔を見るなり、そう言って腕を絡めてきた。半ば強引に引きずられるようにして歩き出す。合コン。その言葉の響きだけで、今の沙織は眩暈がした。
「ごめん、本当に無理しなくていいからね。でも、一回だけ。顔を出して、ごはんを食べて、帰る。それだけ。ね?」
店へ向かう道すがら、里奈は何度もそう繰り返した。幹事は里奈の恋人の健太だという。同じ会社の後輩と、その友人を集めてくれたらしい。
「健太さん、悪い人じゃないんだけど、気が回らないところがあって。もし変なこと言う人がいたら、私が全部ブロックするから」
「ありがとう。……でも、里奈が謝ることじゃないよ」
そう言いながら、沙織は自分がこの世でいちばん気の利かない親友になっている気がしていた。
ダイニングバーの個室には、すでに男性が三人、女性が三人、顔をそろえていた。里奈の同僚だという亜希が、沙織を見るなり、目を丸くした。
「うわ、沙織さん、肌めっちゃきれい。何か特別なケアしてるんですか?」
「え、ううん、何も。睡眠不足で、むしろ荒れてるくらいで」
「えー、うそ。私なんて最近、化粧のノリがほんとダメで。もう二十六だし、そろそろヤバいなって」
二十六歳。亜希は笑いながら言った。悪気がないのは分かっている。むしろ、沙織を褒めようとしてくれたのだ。それなのに、その「二十六」という数字が胸の真ん中に、小さな棘のように刺さった。二十六歳の人が「もうヤバい」と言う世界では、二十八歳の自分は、いったい何なのだろう。
「ほら、沙織、ここ座って」
里奈に背中を押され、沙織は端の席に腰を下ろした。
個室の外からも、週末の活気と、男女の浮ついた笑い声が絶え間なく流れ込んでくる。沙織は場違いな場所に迷い込んだ幽霊のような気分だった。周りの女性たちは、きらきらと輝いて見える。自分だけが重い喪失感という名の外套をまとっている。
当たり障りのない自己紹介が終わり、乾杯のグラスが鳴る。沙織は向かいに座った商社勤務だという男性と、途切れ途切れに言葉を交わした。名は坂井といった。仕事の話、趣味の話。何を話しても会話は上滑りしていく。彼の話す海外出張の苦労話にも、休日に通っているというボルダリングジムの話にも、沙織の心は少しも動かなかった。動かないことが申し訳なくて、いっそう笑顔の筋肉に力が入る。
隣の席では里奈が、同僚の亜希と一緒に、笑い声を弾けさせている。里奈は時折こちらを気にして、目で「大丈夫?」と尋ねてきた。沙織は小さく頷き返す。大丈夫。大丈夫でなければならない。
「沙織さん、広告のお仕事なんですよね。どんなことするんですか? 俺、全然イメージ湧かなくて」
斜め向かいから声をかけてきたのは、坂井の同期だという三浦だった。大人しそうな人で、さっきから黙々と料理を取り分けてくれている。
「ええと……地味ですよ。たとえば、スーパーの飲料の棚に付ける小さなPOPを作ったりとか」
「POP? あの、値札の横にあるやつですか」
「そう。あれ、貼る高さが十センチ違うだけで、手に取る人の数が変わるんです。主婦の方は目線が低めで、でも足元は見ない。だから、腰から胸の間くらいが、いちばん」
口が勝手に動いていた。話しながら、ストローの袋を指で折って、棚の高さを示してみせる。三浦はへえ、と何度も頷いた。
「それ、面白い。そんな話、初めて聞きました」
「……すみません、仕事の話ばっかり」
「いえ、全然。なんか、楽しそうに話すんだなと思って」
楽しそう。その言葉に、沙織は自分の頬に手を当てた。五分近く達也のことを一度も思い出していなかった。その事実に気づいた途端、胸の奥に小さな灯りがともる。けれど、その灯りが揺らいだところへ、向かいの席から、別の声が割り込んできた。
「沙織さんって、落ち着いてますよね。おいくつなんですか?」
「二十八です」
「へえ、大人っぽい。俺、彼女募集中なんすよ。前の彼女と、別れちゃってて」
坂井は酔いも手伝ってか、饒舌に自分の失恋話を語り始めた。そして、核心に触れる一言を、悪気なく口にした。
「元カノ、俺より七つも上だったんすよ。年上って、やっぱ、しんどいんすよね。男って結局、年下のほうが話しやすいっていうか……楽なんすよね、正直」
その瞬間、沙織の周りの喧騒が、すっと遠のいた。坂井の言葉が、スローモーションで鼓膜に突き刺さる。それはここ数週間、沙織が自分自身に問い続けていた、最も恐ろしい疑念への肯定だった。
あなたはもう、若くない。
あなたはもう、選ばれる側ではない。
それは個人的な侮辱ではなかった。もっと大きなものに、殴られたような衝撃だった。若さには絶対的な価値があり、自分はそれを日々失いつつある。そう突きつけられた気がした。達也の選択も、坂井の言葉も、同じ根から生えている。自分は一人の女性に負けたのではなく、「若さ」という抗いようのないものに、敗北したのだ。
「あれ、沙織さん? 顔、白いっすよ。飲みすぎました?」
坂井が覗き込んでくる。その顔には一片の悪意もなかった。だからこそ、沙織は何も言い返せなかった。
「……すみません、ちょっとお手洗いに」
かろうじてそれだけ言うと、席を立った。個室を出て、喧騒から逃れるように、階段を下りて店の外に出る。恵比寿の夜の空気は、梅雨の湿り気をたっぷり含んでいたが、火照った頬には、それでもいくらか涼しかった。駅へ向かう人の波が、街灯の下を流れていく。誰もが行き先を持っているように見えた。
もう、無理だ。自分はもう、恋愛なんてできないのかもしれない。
歩道の端の植え込みに腰を下ろし、膝の上でバッグを抱える。足元でアスファルトに残った水たまりが、ネオンの色をゆがめていた。さっきまで降っていたのだろうか。まったく気がつかなかった。
「沙織」
声に顔を上げると、里奈が息を切らして立っていた。ヒールの足元が、水たまりで濡れている。
「ごめん。私が悪かった。あんな言い方する人だって知らなかった」
「里奈のせいじゃないよ」
「でも、連れてきたのは私だもん」
里奈は隣に腰を下ろし、しばらく黙って、沙織と同じ方向を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「あのさ。沙織、五年間ずっと、達也さんの世界の中でしか自分を測ってこなかったでしょ。物差しが見つからなくて当たり前だよ」
里奈の言葉は水たまりに落ちる雨粒のように、沙織の胸に小さな波紋を描いた。波紋はすぐには広がらなかった。けれど、消えもしなかった。
「今日はもう帰ろう。送るよ」
「ううん、一人で帰る。……ありがとう、里奈」
駅の改札で手を振って別れ、沙織は一人でホームに立った。反対側のホームに、電車が滑り込んでくる。降りてくる人々の顔を、沙織はぼんやりと眺めた。
見上げた夜空には、星ひとつなかった。黒いベルベットのような雲が、街の灯りを吸い込んでいる。東京の空はいつだって、自分の気持ちなどお構いなしに、無表情にそこにある。
けれど、その無表情な空の向こうで、遠くかすかに雷が鳴ったような気がした。
帰宅して玄関の電気をつけると、里奈からメッセージが届いていた。
〈今日はごめん。でも、来てくれてありがとう。ちゃんとごはん食べるんだよ〉
沙織は靴を脱いで、冷蔵庫を開けた。しなびたレタスと、三つの卵。賞味期限のことは考えないことにして、卵を一つ取り出し、フライパンに落とした。じゅっ、と音がした。三週間ぶりに聞く、台所の音だった。
焦げた目玉焼きを、一人で食べた。味はほとんどしなかった。けれど、最後まで残さずに食べた。




