第五部 新しい嵐の最初の一滴
1. 気づき
十月に入ると、朝夕の空気がすっかり秋の匂いに変わった。
通勤路の住宅街の角で、金木犀の甘い香りが不意に鼻先をかすめる。夕立の日から、三ヶ月が経とうとしていた。沙織は夜、窓を開けるたびに、あの日の雨の匂いと、今の花の匂いを、頭の中で並べてみることがあった。
仕事は順調だった。『ほうじ茶と林檎のソーダ』のキャンペーンは、試作を重ねて八月末に最終仕様が確定し、十月の発売に向けて、全国の売り場への導入が始まっていた。先日、望月から直々に電話がかかってきた。
「導入店舗が想定の一・五倍に達しそうです。杉本さんのところの什器が、現場で好評でね。『これなら、一人でも組み立てられる』と」
「ありがとうございます」
「それから、相馬がずいぶん、あれこれ動いてくれましてね。杉本さんにもよろしく伝えてくれと」
その名前を聞いた瞬間、受話器を持つ指にわずかに力が入った。そんな自分に気づかないふりをして、沙織は「こちらこそ」と答えた。電話を切ったあとも、受話器の冷たさがしばらく指に残っていた。
その前の週の金曜日、九月最後の夜のことだった。『梟』を出ると、路地にはまた細かい雨が降っていた。沙織は折り畳み傘を忘れていた。
「これ、使ってください」
翔太くんが、傘立てから、あの紺色の大きな傘を取って差し出した。七月に沙織が返した、あの傘だった。
「え、でも、翔太くんは」
「大丈夫です。会社に置き傘が何本もあるので。……よければそれ、沙織さんの置き傘にしてください。いつでも使ってください」
「……また借りちゃうことになるよ」
「それでいいです」
押し切られて、沙織は傘を受け取った。その帰り道、紺色の布の下で、さっきまでの彼の体温を探してしまう自分に、気づかないふりをした。
発売初日の十月一日、木曜日。沙織は午後の予定を空けて、自分の目で売り場を確かめるために、杉並区の住宅街にある中規模のスーパーを訪れた。
店の奥の飲料コーナーに、見覚えのある什器が立っていた。三段の棚に、色分けされたパーツ。ほうじ茶と林檎のソーダが、琥珀色の缶を整然と並べている。その横でエプロン姿の中年の女性店員が、段ボール箱を抱えて補充をしていた。
沙織は遠くから、彼女の手元をじっと見つめた。迷いのない手つきで、缶が棚に並んでいく。什器の天板には、「秋の夕方に、ほっとひと息」という、沙織が考えた言葉が、手書き風の文字で印刷されている。
「あの、すみません」
思い切って声をかけた。
「この什器、組み立てるの、大変じゃなかったですか」
「ああ、これ?」
店員は手を止めて、にこりと笑った。
「全然。説明書見なくても、色を合わせるだけでできたのよ。閉店後に一人でやったんだけど、五分もかからなかった。ありがたいわ。最近の什器、どれも組み立てるのが大変でねえ」
「そうですか。……よかったです」
「あんた、メーカーの人?」
「いえ。ちょっと関わった者です」
「そう。ありがとうねえ」
何気ない会話だった。けれど、沙織は鼻の奥がつんと熱くなるのを感じた。企画書の上の線が現実の棚になり、現実の人の手に渡った。その手応えが確かにそこにあった。
売り場を出ようとしたとき、見慣れた背の高い姿が視界に入った。
「あれ。沙織さん?」
翔太くんが段ボール箱を抱えて立っていた。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して、シャツの袖を肘までまくっている。額に汗が光っていた。
「翔太くん。どうして、ここに」
「発売日なので、担当店舗を見て回ってるんです。補充の手伝いも。沙織さんは?」
「私も見にきたの。……自分の仕事がちゃんとお店で生きてるか、確かめたくて」
二人は顔を見合わせて、同時に笑った。
店の裏の駐車場の隅で、缶コーヒーを飲みながら短く話をした。彼は店長や店員たちと、自然に軽口を叩き合っている。年上のパートの女性たちに「翔太くん、また来てくれたの」と呼びかけられ、そのたびに照れたように頭を下げる。誰に対しても同じ目線で、同じ温度で話す人だった。
その姿を沙織は離れたところから見ていた。見ていて、気づいた。この人の優しさは、自分にだけ向けられた特別なものではない。誰にでも変わらない。それなのに、自分はそれを特別なものとして受け取ってしまっている。
胸がそわそわと落ち着かなくなった。嬉しさと苦しさの、中間のような感覚だった。
「沙織さん? どうかしました?」
「ううん。なんでもない」
缶コーヒーの苦味を、舌の上で転がした。
その夜、翔太くんからメッセージが届いた。翌日の金曜日は、『梟』で会う約束になっていた。
〈すみません、明日の金曜、同期の送別会が入ってしまって。同期の宮下が来月から福岡に転勤なんです。来週の金曜にずらしてもらえませんか〉
〈もちろん。気にしないで〉
そう返信してから、沙織は画面を見つめたまま手を止めた。
宮下。以前、彼が話していた名前だった。小さな食堂を持ちたいという夢を、冗談だと思って笑った同期。それだけのことなのに、その名前の響きが、耳の奥に引っかかった。
深く考えないことにして、スマートフォンを伏せた。
翌日の金曜日、沙織は退社後に、一人で花屋に寄った。店先に並んだ、秋の花々。リンドウ、ススキ、小ぶりな菊。迷った末に、白いトルコ桔梗と、淡い紫のリンドウを買った。
家に帰り、花瓶に一本ずつ生けていく。部屋には達也がいた頃とは違う、新しい生活の匂いが満ちている。窓から入る夜風が心地よい。今の生活は穏やかで、満たされていた。仕事は順調だし、里奈との時間も楽しい。そして、金曜日の翔太くんとの食事が、何よりの楽しみになっていた。
そう考えて、沙織は手を止めた。
何よりの、楽しみ。
その言葉の意味するところを、ようやく理解した気がした。
ふと彼のことを考えている自分に気づく。彼の優しい話し方。食事をおいしそうに食べる顔。ときおり見せる、少年のような笑顔。鮎の骨を抜く、大きな手。夕立のあとの空みたいな色、と言って、耳を赤くした横顔。そして、沙織の話を真剣に聞いてくれる眼差し。
そのすべてを思い浮かべた瞬間、心臓がとくん、と大きく鳴った。
今まで霧がかかっていた視界が、一瞬で晴れ渡るような感覚。
――ああ、私、翔太くんのことが好きなんだ。
その気づきは突然だった。けれど、あまりにも腑に落ちた。いつからだったのか、思い出せない。傘の下だったのか、鮎の骨が抜けた夜だったのか、ブルーのブラウスを褒められた日だったのか。きっとどれか一つではなく、全部が少しずつ積み重なっていたのだ。
彼がくれたのは、失恋からの立ち直りのきっかけだけではなかった。彼の優しさと誠実さが、凍てついていた沙織の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていた。
これはもうリハビリではない。紛れもない、恋だった。
手の中のリンドウの茎が、じっとりと湿っている。沙織はそれを花瓶に挿した。紫の小さな花が、夜の窓ガラスに映って、ゆらりと揺れた。
2. お気になさらず
その夜の十一時すぎ、スマートフォンが震えた。
〈送別会、二次会まで行ってしまいました。宮下が飲みすぎて潰れてしまったので、タクシーで家まで送っていきます。遅くなるので、返信は明日でもいいですか〉
家まで送っていく。
その一文を、沙織は三回読んだ。浮かんできたのは、顔も知らない女性の姿だった。ほとんど同い年。同じ会社。同じ時間を過ごしてきた人。彼の夢を笑い飛ばせるほど、遠慮のいらない人。その人が酔って、彼の肩に寄りかかっているのを、頭の中で勝手に描いてしまう。
指が勝手に動いていた。
〈わかりました。お気になさらず。おやすみなさい〉
送信した直後に、血の気が引いた。
お気になさらず。取引先に送る文面だった。「気をつけてね」と、どうして書けなかったのだろう。たった六文字のその言葉が、なぜ出てこなかったのだろう。
画面の中の自分の文章が、冷たく光っていた。
暗い部屋のベッドで、天井を見つめる。あの頃のことを、思い出していた。三月から、六月まで。達也の帰りが遅い夜が増えた。「同僚と飲んでた」と、彼はいつも言った。沙織は決まって、こう返信していた。〈気にしないで。ゆっくりしてきてね〉。
物分かりのいい女。
あの頃はそれが愛情だと思っていた。今夜の「お気になさらず」はそれとは反対のようで、同じ顔をしていた。本当は嫌なのに、嫌だと言えない。言えないから、冷たい言葉の仮面を被る。
二十八歳にもなって。そう思うと、自分が情けなかった。彼はただ、酔った同僚を送り届けようとしているだけなのに。
眠れないまま、窓の外が白んだ。
土曜日の朝七時すぎ、返信が届いた。
〈昨日は遅くまですみませんでした。宮下、無事に送り届けました。……沙織さん、もしかして、怒ってますか〉
画面を見て、沙織は両手で顔を覆った。
怒ってない、と打ちかけて、消す。怒ってるよ、は違う。嫉妬した、とは言えない。何度も打っては消して、結局、こう送った。
〈怒ってないよ。変な返信をしてごめんなさい。ちょっと疲れてただけ〉
嘘だった。
〈よかった。来週の金曜、楽しみにしてます〉
返事はそれだけだった。絵文字もなく、いつもの「また鮎、食べましょう」のような、ひとことの寄り道もない。短くて、行儀のいい文章だった。
怒っていないと信じてくれたのか。それとも距離を置かれたのか。画面の向こうの表情が見えない。それがこんなに怖いとは思わなかった。
その日は朝から掃除をした。普段は手をつけない、冷蔵庫の裏や、換気扇のフィルターまで。体を動かしていないと、昨夜の自分に追いつかれてしまいそうだった。雑巾を絞りながら、何度も同じ言葉が頭をよぎる。好きな人に、いちばん冷たくしてしまった。
午後、母から電話があった。
「あんた、お盆に帰ってこんかったで、お母さん、心配しとったんだわ。達也さんと、なんかあったんでないの?」
沙織はキッチンの椅子に腰を下ろした。ずっと言えずにいたこと。四ヶ月近く、胸の奥にしまい込んでいたこと。
「……お母さん。あのね、実は六月に別れたの」
「え」
電話の向こうで、母が息を呑む音がした。
「ごめん。今まで言えなくて。心配かけたくなくて」
「そうだったんだわ。……辛かったでしょう。一人で、よう頑張ったね」
その優しい声に、沙織の目からぽろりと涙がこぼれた。
「三十までに結婚せなかんって、お母さん、いつも言っとったけど。あれ、気にせんでいいでね。あんたの人生だもん。自分で決めたらいいがね」
「……お母さん」
「それで? 今は元気にしとるの?」
「うん。ちゃんとご飯食べてる。仕事もうまくいってる。それと……」
「それと?」
「……好きな人ができたかもしれない。でも、昨日、その人にひどいこと言っちゃって」
「ひどいこと?」
「冷たい返事、しちゃったの。本当は寂しかっただけなのに」
「ふうん」
母は少し間を置いてから、のんびりした声で言った。
「ほんなら、ごめんて言やぁいいがね。早いほうがいいでね。……お母さんなんか、お父さんに、今でも月に一回は冷たいこと言っとるわ」
思わず、笑ってしまった。笑ってから、また泣いた。
電話を切ったあと、窓の外の高い空を見上げた。秋の雲が流れていた。
その夜、風呂上がりのベッドの上で、沙織はいけないと思いながら、検索窓に文字を打っていた。
〈二歳年下 彼氏 本気〉
出てきたのは匿名の相談掲示板だった。「年下は結局、年上を姉のように見ている」「女は二十代後半から価値が下がる」「三十前に決められないなら、早く見切りをつけろ」。読むほどに、胸が冷えていく。誰が書いたのかも分からない言葉に、どうして自分は、こんなに傷つくのだろう。
二十分後、沙織は画面を閉じた。顔を洗いに洗面所へ向かう。鏡の中に疲れた二十八歳の顔があった。
この顔をあの人はどう見ているのだろう。
答えは鏡の中にはなかった。
3. 決意
火曜日の昼休み、沙織は里奈を渋谷のカフェに呼び出した。
注文したパスタに手をつけないまま、窓の外の雑踏を見つめていると、里奈がフォークを置いた。
「で。何があったの。顔、死んでるよ」
「……金曜にね、最低なことしたの」
沙織は送別会の夜のことを話した。宮下という同期のこと。〈お気になさらず〉と送ったこと。翌朝の、短い返事のこと。話しながら、何度も言葉が詰まった。里奈は一度も笑わず、頷きながら聞いていた。
「それで怒ってないって、嘘ついたんだ」
「うん」
「なんで嘘ついたの」
「……行かないで、って、思ったから。送らないで、って」
自分の口から出た言葉に、沙織は驚いた。声に出したのは、初めてだった。
「そんなこと、言える立場じゃないのに」
「立場って、誰が決めたの」
沙織は黙った。里奈はアイスティーのストローを回しながら、続けた。
「年上だから、とか、ただの友達だから、とか。それ、翔太くんが言ったの?」
「……言ってない」
氷がからん、と鳴った。
長い沈黙のあとで、沙織はぽつりと言った。
「……言ったのは、坂井さん。達也は、言わなかったけど、そういうことをした。それから、……私だ」
「うん」
里奈はそれだけ答えた。それ以上は何も言わなかった。ただ、運ばれてきたまま冷めかけた沙織のパスタを、顎で示した。
「食べな。伸びるよ」
その一言で、沙織は笑った。
その夜、手帳を開いて、金曜日の欄を見つめた。待っているだけでは何も始まらない。傷つくことを恐れて何もしなければ、後悔だけが残る。あの夜、「分かった」としか言えなかった自分を、もう一度繰り返したくなかった。
伝えよう。自分の言葉で、まっすぐに。
その結果がどうであれ、自分の気持ちに嘘をつかないことが、今の自分にできる精一杯の誠意だと思えた。沙織は赤いペンで、金曜日の欄に小さな丸をつけた。六月の、あの赤い丸とは、違う丸だった。
翌朝、出社すると、後輩の結衣がデスクから身を乗り出してきた。
「沙織さん、最近、恋してません?」
「えっ」
「だって、メッセージ見て、ふっと笑ってること、多いですよ。あと髪も雰囲気も全然違うし」
「そんなこと、ない」
「あ、図星だ。顔、赤い」
「……仕事しなさい」
軽くあしらいながら、沙織は自分の頬に手を当てた。確かに熱かった。
その夜、翔太くんからメッセージが届いた。
〈金曜、七時に『梟』でお願いします。あの、ひとつだけ、真面目な話をしてもいいですか〉
真面目な話。
画面を見つめたまま、沙織の背筋が冷えた。大切な友人です。これからもいい友達で。そんな言葉が頭をよぎる。優しい人だからこそ、きちんと線を引くために、わざわざ時間を取るのかもしれない。
〈もちろん。私も話したいことがあります〉
そう返信すると、すぐに既読がついた。それきり、返事は来なかった。
その夜、洗面所の鏡の前で、言葉の練習をしてみた。
「翔太くん、私ね」
声に出すと、うわずって、まるで他人の声のようだった。咳払いをして、もう一度。
「あのね、聞いてほしいことがあって」
鏡の中の自分が、あまりにも真剣な顔をしているので、思わず吹き出した。告白の練習をする、二十八歳。馬鹿みたいだ。でも、馬鹿みたいで、いい、と思った。
木曜の夜には台所に立って、だし巻き玉子を焼いてみた。『梟』の、あの黄金色の断面を思い出しながら。卵を溶き、出汁を加え、四角いフライパンに流し入れる。巻く。崩れる。もう一度。
三回目でようやくそれらしい形になった。切ってみると、断面から出汁がじわりと滲んだ。ひと切れ、口に運ぶ。『梟』の味とは違っていた。けれど、自分の台所の、自分の味だった。
そのひと切れを噛みしめながら、思った。この味をいつか、あの人に食べてもらえたらいい。
4. 告白
十月の第二金曜日。夕立の日から、ちょうど三ヶ月が経っていた。
朝、窓の外では冷たい秋雨が降っていた。灰色の雲が重く街を覆っている。
沙織は迷わず、あのブルーのブラウスを選んだ。化粧はいつもより丁寧に。リップは新しく買った、落ち着いたローズ色。鏡の中の自分に、「大丈夫」と声に出さずに言った。
玄関で靴を履いていると、傘立ての隅に、色褪せたビニール傘がまだ立っているのが目に入った。六月から、ずっとそこにあった、達也の傘。夕立の日に、紺色の傘と並べた、あの傘だ。
沙織はそれを手に取った。思っていたよりも、軽かった。
玄関のドアを開け、廊下の突き当たりの、ごみ置き場まで歩く。ビニール傘をそっと置いた。振り返らなかった。
部屋に戻って、傘立てから、もう一本の傘を取った。七月の夕立の日に、翔太くんが貸してくれたもの。返したはずの傘は、いつのまにか、また沙織の手の中に戻っていた。二週間前の食事の帰り、「これ、置き傘にどうですか。いつでも使ってください」と半ば強引に押しつけられたのだ。
――ずるい人だ、と思った。傘一本で何度でも会う理由をつくってしまう。
エレベーターに乗り、一階のボタンを押す。扉が閉まる直前、沙織の口から小さな息が漏れた。ため息ではなかった。長いこと背負っていた荷物を、ようやく下ろした人の息だった。
渋谷の事務所で、その日一日、沙織は普段通りに働いた。夕方、森田がすれ違いざまに、ぼそりと言った。
「今日は定時で上がれよ」
「え。でも、まだ」
「さっきから、時計を見すぎだ」
沙織は目を丸くした。森田はふんと鼻を鳴らして、自分のデスクに戻っていった。
路地を歩きながら、沙織は何度も頭の中で言葉を並べ直していた。「あのね」から始めようか。それとも「聞いてほしいことが」だろうか。どれも嘘くさく響く気がした。結局、飾らないほうがいい、と思う。この人の前では、いつも飾らずにいられたのだから。
水たまりを避けて、傘を傾ける。紺色の布を、雨粒がとん、とん、と叩く。あの夕立の日の轟音とは違う、やわらかな秋の雨音だった。
軒先の提灯が雨に濡れて、橙色に滲んでいる。引き戸を開けると、からりと乾いた音が響いて、炭火の香りが鼻先をくすぐった。
「いらっしゃい。あら、沙織ちゃん。今日は早いのね」
女将がにこやかに迎えてくれた。カウンターの、いつもの席に座る。
約束の時間の三十分前から、沙織は来ていた。
しばらくして、大将がぼそりと言った。
「その傘」
「え」
「あいつのだろう。……あいつ、傘はあれ一本しか持ってないはずなんだがな」
沙織は驚いて、傘立てを見た。紺色の傘が立てかけてある。
「え。でも、会社に置き傘がたくさんあるって」
「さあな。客の持ち物は、だいたい覚えてる」
それだけ言って、大将は視線を網の上に戻した。けれど、口の端がわずかに持ち上がっていた。
七時を十分すぎて、引き戸が勢いよく開いた。息を切らした翔太くんが、濡れた傘を傘立てに差し、肩の雨を手で払う。
「すみません、遅くなって。電車が止まりかけてて」
「ううん。私も今来たところ」
嘘だった。三十分前から座っていた。
隣に座った彼は、いつもと少し違った。ネクタイをきっちり締めて、背筋を伸ばして座っている。「お疲れ様です」と、会社のような挨拶をした。メニューを見る目が落ち着かず、おしぼりを何度も畳み直している。
その様子を見て、沙織の不安がまた膨らんだ。やっぱり、そういう話なのだ。
「あの」
「あの」
二人の声が同時に重なった。
「どうぞ」
「いえ、沙織さんから」
「翔太くんから、どうぞ」
「じゃあ……」
彼は一度、息を吸った。
「先週はすみませんでした。送別会の夜のこと。沙織さんが気を悪くしたなら、俺が」
「謝るのは私のほう。変な返信、して」
「いえ。……いや、違うな。二次会、断れなくて、遅くなるって連絡も、ぎりぎりになって。ああいうところが、頼りないんですよね、俺」
彼は自分で言って、困ったように眉を下げた。
「すみません、うまく言えなくて。ちゃんと話そうと思って、来たのに」
出されたのは秋刀魚の塩焼きだった。皮の下から脂がじゅうじゅうと泡を立てている。大根おろしに、すだちをぎゅっと絞る。けれど、二人とも箸をつけなかった。
「俺」
翔太くんが膝の上で拳を握った。
「二つも年下で、まだ営業の四年目で、ミスもするし、頼りないって、自分でも思ってて。沙織さんみたいな人の隣に、ちゃんと立てる自信がなくて。だから、もっとちゃんとした男になってから、って、ずっと」
ちゃんとしてから。
その言葉を聞いた瞬間、沙織の頭の中で、何かが先に走り出した。この先に続く言葉を、聞きたくなかった。聞いてしまったら、もう戻れない気がした。
「待って」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「その先は私から言わせて」
翔太くんが目を見開いて、口をつぐむ。
カウンターの向こうで、炭がぱちりと爆ぜた。大将の手が止まっている。女将は布巾を持ったまま、息を潜めていた。店の中の全員が、沙織の言葉の行方を待っているようだった。
沙織は心を落ち着けるように、深く息を吸った。
三ヶ月前の夕立の日、この人は何も言わずに、傘を差し出してくれた。自分はあのとき、ただ立ち尽くしていた。
「翔太くん」
沙織の声は、思いのほか落ち着いて響いた。彼は「はい」と、まっすぐな瞳を向けた。
その瞳を見つめ返して、沙織は言った。
「正直に言うね。……私、あなたのことが好きになっちゃった」
言葉が空気の中に落ちた。
「私、二つも年上だし、来月には二十九歳になるし。最初は、傷ついた心を癒してもらってるだけだと思ってた。でも、違った。送別会の夜、あなたが誰かを送っていくって聞いて、嫌だった。行かないで、って思った。そんなこと言える立場じゃないのに。それで冷たい返事をした。ごめんなさい」
声が少し震えた。けれど、止めなかった。
「あなたと食べるごはんが好き。話し方も笑い方も人の話をちゃんと聞いてくれるところも。……翔太くんの隣にいる私が、好きなの。だから、返事は今じゃなくていい。ただ、言いたかった。言わないままでいるのは、嫌だったから」
最後まで言い終えたとき、沙織の両手は膝の上で小さく震えていた。それでも視線は、逸らさなかった。
それは、沙織自身が起こした、新しい嵐の最初の一滴だった。夕立に打たれるしかなかった三ヶ月前とは違う。今度は、自分の意志で降らせた雨だった。
彼の答えがどうであれ、もう大丈夫。そう思えた。
長い沈黙があった。
翔太くんは片手で自分の顔を覆っていた。耳まで赤い。肩がわずかに震えている。
「……先に言われた」
「え」
「俺が言うつもりだったんです。今日。ずっと前から」
彼は指の隙間から、沙織を見た。
「ちゃんとした男になってから、って、告白のことです。もう、三ヶ月も前から、考えてて。でも、沙織さんは俺の三歩先を歩いてる人だから、追いつかなきゃって。そしたら、あの夜、返信が冷たくて。嫌われたかと思って、怖くなって。それで今日は頼りなくても言うしかないって」
沙織は呆然と彼の顔を見つめた。
「ちゃんとしてから、って……そういう意味だったの」
「そういう意味です。……どういう意味だと思ったんですか」
「友達でいましょう、って、言われるんだと思った」
「言いません」
翔太くんは顔を覆っていた手を下ろし、真剣な目で言った。
「沙織さんが年上だってこと、考えなかったわけじゃないです。何回も考えました。でも、全部、たいした問題じゃなくなって。……傘を渡した日から、って言ったら、引きますか」
「傘……?」
「会社に置き傘がたくさんあるって、あれ、嘘です。あの傘、俺の、一本きりの傘で。あの日は会社までずぶ濡れで戻って、次の日、折り畳みを買いました」
沙織は目を丸くした。そして、思わず、吹き出した。笑いながら、涙がこぼれた。
「ずるい」
「すみません」
「何度も傘を口実にして」
「返してもらう理由が、ほしかったんです。それで今も置き傘って、渡して」
大将は無言で、小皿に栗の渋皮煮を二つ載せて、二人の前に置いた。ぶっきらぼうな手つきだった。女将は、知らん顔で布巾を畳んでいる。
「沙織さん」
「うん」
「十一月十日、空けておいてもらえませんか。ちゃんと祝わせてください」
彼はおしぼりを、きつく握りしめた。
「……彼氏として、って、言ってもいいですか」
沙織は頷いた。うまく声が出なくて、何度も頷いた。
「うん。……お願いします」
暖簾をしまう頃になって、二人は店を出た。
引き戸の磨りガラスの向こうが、いつのまにか明るくなっている。軒先から、ぽたり、と雫が落ちた。雨が上がったのだ。
路地に出ると、濡れたアスファルトが、街灯の光を映して、きらきらと光っていた。雲の切れ間から、月が顔を覗かせている。
翔太くんが傘立てから、二本の傘を取った。紺色の大きな傘と、自分の折り畳み傘。
「もう、いらないですね」
「うん。でも」
沙織は紺色の傘を受け取った。
「持って帰る。これは私が持っておきたいから」
「じゃあ、また、返してもらう口実が、できましたね」
「もう、口実なんて、いらないでしょう」
「……はい」
二人は顔を見合わせて、笑った。
彼の手が傘を持つ沙織の手に、そっと触れた。九月の夜の、あの一瞬とは違った。今度は離れなかった。温かい指が沙織の指を包んだ。
歩き出した二人の足元で、水たまりが揺れて、月の光を砕いた。
三ヶ月前の夕立が、今夜の雨上がりへ続いていたのだと、沙織は思った。
明日の天気は晴れだと、スマートフォンが言っていた。けれど予報がどうであっても、もう大丈夫だった。傘は、この手の中にある。隣には、この人がい




