30.詰みではなかった
王都から領地へ帰る道は、来た時と同じ五日かかった。
雪が、少し溶け始めていた。
まだ冬だ。ただし光が変わっていた。王都へ向かった時より、空が明るい。地面の白が、少しだけ薄くなっている。春が、遠くにある。
セレンが隣を歩いていた。
来た時と同じように、馬を並べて、白い道を行った。
違うのは、今日は行き先がある、ということだった。
*
三日目の夜、宿で眠れなかった。
眠れない理由が、今夜は違った。
これまでの眠れない夜は、計算が止まらなかったからだ。シナリオを確認して、手順を組んで、シミュレーションを回して。頭が止まらなかった。
今夜は違う。
頭が静かだった。
静かすぎて、眠れなかった。
スマホを取り出した。
シミュレーションを開いた。
『現在の状況において、ルーが生き残った場合の世界の結末』
砂時計。
『バッドエンドへの収束は確認されない。民衆の動き、証言者たちの存在、断罪の回避がイレギュラーとして機能した結果、バッドエンドへの経路が現時点では存在しない』
私はその画面を、長い間見た。
バッドエンドへの経路が、現時点では存在しない。
次を入力した。
『ルカが暴走する可能性』
砂時計。
『低い。断罪の回避により、ルーへの民衆の怒りが解消された。ルカの幸運体質が暴走に転じる条件が崩れている。ただし今後の展開によって変動する可能性はある』
低い。
断罪が回避されたことで、ルカの暴走の条件が崩れた。
私はシミュレーションを閉じた。
三千時間かけて見つけられなかった答えが、今夜初めて出た。
ただし自分で見つけたわけではない。
民衆の動きが、シミュレーションの外で答えを作った。
シミュレーションが読めなかった場所で、全員が動いた。
私はスマホを胸の上に置いた。
天井を見た。
宿の天井だ。石造りではなく、木だ。この世界に来てから、こんな天井を見たのは初めてだと思った。
前世のアパートの天井は、思い出さなかった。
もうしばらく、思い出していない。
*
領地に戻ったのは、五日目の夕方だった。
門をくぐった時、エドが待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
その言葉が出た。
初めて言った言葉だと、言ってから気づいた。
エドが少しだけ目を細めた。何も言わなかった。
屋敷に入った。使用人たちが頭を下げた。一人ずつの顔がある。名前がある。この一年間で、全員の名前を覚えていた。
自室に入った。
机の上に、何も変わっていなかった。引き出しの中に、イーダの書状がある。もう審問の場で読まれたが、返却されていた。ブライアが「持っておくべきものだと思います」と言って返してくれた。
窓の外を見た。
夕暮れの領地が広がっていた。
来春の土を見に行く約束がある。
その約束が、今日も有効だった。
*
翌朝、セレンが来た。
「ルー様、魔素の件でご報告があります」
「何だ」
「北東の森の石ですが、昨夜から光が見えなくなったと村人から報告が来ています」
私はセレンを見た。
「光が消えた」
「はい。念のため確認に行かれますか」
「行く」
北東の森へ向かった。
森に入ると、空気が変わっていた。
重さがない。前回来た時の、肌が痺れるような感触がない。魔素の濃度が、正常値に戻っている。
石の前に立った。
光がなかった。
苔が、また生え始めていた。石の表面が、少しずつ覆われていく途中だ。図形の刻印が、半分ほど見えなくなっている。
スマホで測定した。
数値が、正常値を示していた。
『石が安定状態に戻った原因として考えられるもの』
砂時計。
『断罪の回避により、ルカの幸運体質が安定した可能性がある。幸運体質と石の魔素集積が連動していた場合、暴走条件の解消が石の安定に繋がったと推定される』
ルカの幸運体質と、石が連動していた。
断罪が回避されたことで、ルカの暴走条件が崩れた。その結果、石が安定した。
エルマーが五十年前に書いた「石には触れるな」という言葉の意味が、今日初めてわかった気がした。
触れることが問題ではなかった。
石の不安定が、何かと連動していた。その連動が解消された時、石は自然に安定する。
私はしばらく石を見ていた。
苔が少しずつ伸びていた。ゆっくりと、確かに。
*
その日の午後、南の農地を見に行った。
セレンが隣を歩いた。
約束の場所だ。来春の土を見ると言った場所だ。まだ春ではない。ただし来てしまった。来たくて、来た。
土を見た。
冬の土だ。固い。ただし色が違う。去年の今頃より、濃い色をしている。魔素の回復が、ゆっくりと土に反映されている。
来春、ここに何かが育つ。
私はその土を見ながら、一つのことを思った。
田中澪は三千時間かけてもルーを救えなかった。
この世界に来てから一年間、私は自分で死のうとしていた。
それでも今日、この土の前に立っている。
誰かが動いた。私が設計しなかった動きで。シミュレーションが読めなかった場所で。
マルクが来た。レムが来た。エドが記録を持ってきた。イーダが書状を持ってきた。ルカが証言した。セレンが一月前から動いていた。
私が救った人々が、私を救った。
その事実を、今日は素直に受け取った。
*
夕方、本邸に戻る前にセレンが言った。
「ルー様」
「何だ」
「来春、また来ましょう」
私は少し間を置いた。
「そうしよう」
それだけ言った。
セレンが頷いた。
二人で本邸へ向かった。
道が、白から茶色に変わり始めていた。雪が溶けて、土が顔を出し始めていた。
*
夜、スマホを取り出した。
バッテリーを確認した。九割。石が安定したことで、魔素の補充効率が上がっている。
メモを開いた。
今日の日付の下に、書いた。
長くは書かなかった。
一段落だけ書いた。
『田中澪は三千時間かけても見つけられなかった。
それを見つけたのは、私ではなかった。
マルクが来た。レムが来た。セレンが動いた。
ただ、ここにある。
詰みではなかった、らしい。』
書いてから、画面を見た。
消さなかった。
スマホを閉じた。
窓の外に、星が出ていた。
この世界で最初の夜に見た星と、同じ配置かもしれない。わからない。あの頃は、星の名前も、この世界の空も、何も知らなかった。
今も星の名前は知らない。
ただ今夜は、きれいだと思った。
それだけのことが、今夜は十分だった。
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あとがき
シナリオに映らない場所で、人々が動いていた。
設計していない動きが、詰みを解いた。
田中澪が三千時間かけて解けなかった詰将棋を、
ルーが一年間かけて生きた結果、
誰かが横から手を伸ばして解いた。
それがこの物語の、全てです。
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