エピローグ : 来春の土
春が来た。
雪が完全に溶けたのは、断罪から二月ほど経った頃だった。
南の農地に、緑が戻っていた。
馬で視察に出る朝、私は窓から土の色を確認するのが習慣になっていた。冬の間は乾いた茶色だった土が、今は所々で青く芽吹いている。去年の同じ時期と比べると、明らかに違う。
セレンが馬の用意をして待っていた。
「今日も南へ」
「ああ」
いつも通りの会話だった。ただし、いつも通りであることが、今は特別なことに思えた。
*
南の第一村に着くと、子供の声がした。
半年前に訪れた時は、静かな村だった。音がなかった。子供の声がなかった。今日は違う。井戸の周りで、何人かの子供が走り回っている。
私は馬を止めて、その様子を見ていた。
村長が気づいて、こちらに来た。
「ルー様。今年の作付けは、例年より早く始められそうです」
「そうか」
「土の具合が良くて。皆、驚いております」
私は頷いた。
土の具合が良い理由を、村長は知らない。北東の森の石のことも、エルマーの覚書のことも、知らない。ただ作物が育つ土を見て、喜んでいる。
それで十分だと思った。
全部を知ってもらう必要はない。知らなくても、この土地は育つ。それだけで、十分だった。
*
北東の森にも、定期的に通っていた。
石は、すっかり苔に覆われていた。図形の刻印は、もうほとんど見えない。魔素の数値は安定している。エルマーが五十年前に願った状態に、ようやく戻ったのかもしれない。
森の中は、静かだった。
ただし今日は、虫の音がした。鳥の声もした。生き物たちが、戻ってきていた。
私は石の前に座った。
スマホを取り出して、最後の観測データを記録した。今ではもう、緊急性のある観測ではない。確認のための、習慣に近い記録だ。
メモを見た。
一年前の記録から、今日までの記録が、ずっと並んでいる。
長い記録だった。
*
ルカは、今も村々を回っていた。
勇者としての肩書きは続いている。ただし以前のような、何かに追い立てられるような動きは減っていた。村に長く滞在するようになった。子供たちに何かを教えている姿を、何度か見かけた。
ある日、本邸に立ち寄った。
応接室ではなく、屋敷の裏手の庭で会った。今ではそれが普通になっている。
「ルー様、お元気そうで」
「お前もな」
ルカが少し笑った。
「あれから、いろいろ変わりましたね」
「そうだな」
「森のこと、結局教えてもらえませんでしたが」
私はルカを見た。
「もう近づいても構わない」
「本当ですか」
「ああ。ただ、何もない」
ルカが少し考えてから、頷いた。
「わかりました。でも、たぶん近づかないと思います」
「なぜだ」
「もう、引き寄せられる感じがしないので」
私はその言葉を、しばらく考えた。
石が安定したことと、ルカの感覚が変わったことが、関係しているのかもしれない。確証はない。ただ、そういうこともあるのだろうと思った。
ルカが帰る前に、一度だけ振り返った。
「ルー様」
「何だ」
「あの時、証言台で言ったこと、覚えていますか」
「全部は覚えていない」
「『わからない人です』と言いました」
「覚えている」
「今は、少しわかった気がします」
私はルカを見た。
「どう、わかった」
ルカが、いつもの真っ直ぐな目で言った。
「あなたは、自分のために生きるのが、下手な人なんだと思います」
私は何も言えなかった。
ルカが頭を下げて、帰っていった。
その背中を、しばらく見ていた。
下手だという言葉を、否定する材料が見つからなかった。
*
マルクとレムは、それぞれの村で生きていた。
二人が会う機会は、年に数回程度だった。お互いの素性を完全には明かさないまま、それでも何かを共有しているらしいことが、断片的な報告から伝わってきた。
ある時、マルクから手紙が届いた。
屋敷宛てではなく、セレン宛てだった。セレンが私に転送してきた。
短い手紙だった。
『今年の収穫は良さそうです。畑を見るたびに、ここで生きていてよかったと思います』
それだけだった。
私はその手紙を、しばらく見ていた。
返事は書かなかった。書く必要がないと思った。手紙は、机の引き出しに入れた。
イーダの書状の隣に。
*
イーダは、織物の仕事を続けていた。
半年が経つ頃には、補助という肩書きが外れて、正式な職人として働いていた。腕が良いという評判を、セレンから聞いた。
ある日、廊下でまた会った。
半年前と同じ場所だった。
イーダが足を止めて、礼をした。
「ルー様」
私も足を止めた。
「仕事は順調か」
「はい。おかげさまで」
イーダが少し迷うように、続けた。
「あの……一つだけ、聞いてもいいですか」
「言え」
「夫は、本当に生きているのでしょうか」
私はイーダを見た。
その問いに、もう嘘で答える必要はなかった。
「生きている。東の村で、別の名前で」
イーダの目が、潤んだ。
「会いに行くことはできますか」
「お前次第だ」
「……どうすれば」
「セレンに聞け」
イーダが深く頭を下げた。声を出さずに、ただ頭を下げ続けた。
私はその場を離れた。
後でセレンから聞いた話では、その月のうちに、イーダはレムの暮らす村を訪れたという。
二人がどんな話をしたのかは、聞かなかった。
聞く必要が、ないと思った。
*
夏の終わりに、ブライアから手紙が届いた。
王都からの公式な書状ではなく、個人的な便りだった。
『先日の審問について、その後も時折考えることがあります。あなたが守ろうとしていたものの全貌は、今もわかりません。ただ、領地の様子を風の噂で聞く限り、あなたの判断は間違っていなかったのだと思います。
機会があれば、また領地を訪れたいと思っています。今度は審問のためではなく』
私はその手紙を、何度か読み返した。
返事を書いた。短い返事だった。
『いつでもどうぞ。今度は茶を出します』
それだけ書いて、送った。
*
秋になった頃、エドが管理を任されていた業務の一部を、正式な役職として引き継いだ。
もう「全体像を把握させない方がいい」という判断は、必要なくなっていた。
エドはある日、書類を持ってきた時に、少しだけ立ち止まった。
「ルー様」
「何だ」
「あの一年間のことは、誰にも話していません。これからも、話すつもりはありません」
私は頷いた。
「ただ」
エドが少し続けた。
「あの一年に関わることができて、良かったと思っています」
それだけ言って、出ていった。
私は何も言えなかった。
言葉が、出なかった。
*
冬がもう一度巡ってきた頃、屋敷の自室で、私はスマホを開いていた。
一年前と同じように、夜だった。
ただし今は、シミュレーションを開く理由がなかった。
バッテリーは常に九割以上を保っている。魔素の状態が安定している証拠だ。
メモを開いた。
二年分の記録が、ここにある。
最初の記録から、最後の記録まで。テオのこと。エルマーの覚書のこと。赤ん坊の顔のこと。眩しいという言葉のこと。羨ましいという言葉のこと。生きたいという感情のこと。
全部、ここにある。
消さなかったものが、たくさんある。
私は写真フォルダを開いた。
断罪の前夜に撮った、自分の写真があった。
その後にも、少しずつ写真が増えていた。
領地の祭りで撮った写真があった。セレンが珍しく写っていた。マルクの村を訪れた時の写真があった。畑を背景に、マルクが少し照れた顔で写っていた。ルカが子供たちに何かを教えている様子を、遠くから撮った写真があった。
人が、写真の中にいた。
たくさん、いた。
私はその写真を、一枚ずつ見ていった。
長い時間、見ていた。
*
窓の外に、雪が降り始めていた。
二年目の冬だ。
私は窓を開けて、外の空気を吸った。冷たかった。
遠くに、北東の森が見えた。今は何の変哲もない、静かな木立だ。
その向こうに、南の農地が見えた。雪に覆われているが、来春にはまた緑が育つ。
田中澪は、三千時間かけてもこの景色を見つけられなかった。
画面の中には、こんな景色はなかった。
今、私はここにいる。
窓を閉めた。
机の引き出しを開けた。
花の跡。イーダの書状。マルクの手紙。それから、もう一つ増えていた。今朝届いた、レムからの短い便り。
『畑仕事にも慣れてきました。今度、収穫を届けに伺います』
それを、引き出しの中に並べた。
捨てられないものが、こんなにも増えていた。
一年前、机の周りには何もなかった。
今は、こんなにある。
*
扉が叩かれた。
「ルー様、夕食の準備が整いました」
セレンの声だった。
「今行く」
私は立ち上がった。
鏡の前を通った。
目つきが鋭い。表情が乏しい。一年半前と、見た目はほとんど変わらない。
ただし今日の顔は、あの朝とは違う。
何が違うかは、もう言葉にできる。
あの朝、私は死ぬために、この顔をしていた。
今、私は生きるために、この顔をしている。
扉を開けた。
廊下にセレンがいた。
「お待たせ」
「いいえ」
二人で歩いた。
窓の外の雪が、静かに降り続いていた。
来春には、また溶ける。
その先に、また夏が来る。秋が来る。冬が来る。
その繰り返しの中に、私はいる。
田中澪が三千時間かけて探し続けた答えは、たぶん、こういう形だったのだろうと思った。
救うことではなく。
生き続けること。
ただそれだけのことが、答えだったのかもしれない。
階段を下りながら、私はそう思った。
思うことを、今はもう、誰にも止められなかった。




