2.荒野
馬が嫌いだ。
前世では乗ったことすらなかったし、この体に乗り移ってからも、できれば避けて通りたいと思っていた。ゲームの中では単なる移動手段として処理されていたそれが、実際には巨大で、体温があって、振動が腰に響く。
それでも今日は乗らなければならなかった。
領地の全容を、自分の目で見ておく必要があった。
ゲームに描かれていたのは、あくまでもシナリオに必要な場所だけだ。王都の屋敷、本邸の一部、それから断罪の場となる広場。領地の大半は、私にとって未知の土地に等しい。地図はある。数字もある。だがそれが何を意味するかは、実際に見なければわからない。
馬の背から、南の平野を見渡した。
ゲームの画面で見た時と、色が違った。
もっと緑があるはずだった。少なくとも、画面の中ではそうだった。だがいま目の前に広がっているのは、黄褐色に乾いた土地だ。草が育っていない。育ちかけたまま、途中で枯れている。空は高く晴れているのに、土が死んでいる。
隣でセレンが馬を並べた。
「南の三村は昨年から収穫が半減しております」
報告の口調だった。感情を含まない。ただ事実を述べる。
「半減」
「はい。一昨年から土の状態が悪く、今年はさらに悪化するかと」
私はスマホのことを考えた。昨夜、魔素の観測アプリを試していた。まだデータが少なく確かなことは言えないが、この土地の魔素濃度が平均より低い。農業に影響が出るのは、魔素の循環が滞った時だ。ゲームの設定では、魔素は土壌の養分に直接作用する。濃度が落ちれば、植物は育ちにくくなる。
飢饉の兆候が、既に始まっている。
ゲームでは、飢饉はルカが頭角を現す契機として描かれていた。時期はもう少し先のはずだった。だが目の前の土地を見る限り、想定より早く来るかもしれない。
「水の確保は」
「東の川から引いておりますが、水量が例年の七割程度です。渇水が続けば夏には厳しくなるかと」
七割。川の水量が落ちているのも、魔素の異常が原因である可能性がある。魔素は水の循環にも影響する。降雨の量や地下水の流れに作用するという記述が、ゲームのテキストにあった。
私は何も言わなかった。
言えることが、ない。
飢饉の真因が魔素の異常だとわかっていても、それを公表することはできない。スマホの存在を明かせない以上、私がなぜそれを知っているかを説明できない。説明できないなら言わない方がいい。
ただし対処はできる。
シナリオに反しない範囲で、できることはある。
*
南の第一村は、思ったより静かだった。
静か、というより、音がない。子供の声がない。働いている人間の数が少ない。村の入り口で馬を下りると、数人の村人が遠巻きに様子を見ていたが、誰も近づいてこなかった。
それが正しい反応だと思った。
悪役令嬢の領主が視察に来て、喜ぶ農民はいない。ゲームの中でも、ルーの治める土地は恐怖政治に近い印象で描かれていた。実際にどう統治されていたかは描写が薄かったが、民から嫌われているという設定は一貫していた。
私はその印象を、壊すつもりはない。
ただ状況を見る。それだけだ。
村の中を歩いた。セレンが後ろについてくる。村人たちは距離を保ったまま、目だけで追ってくる。
井戸がある。水は出るが、汲み上げに時間がかかっている。底が浅くなっている証拠だ。家屋の壁にひびが入っている。修繕された形跡はない。道の端に、使われなくなった農具が積み上げられている。
人がいなくなった家がある。
扉が開いたままになっている。中を見ると、家具の一部が残されたままだ。急いで出ていったか、あるいは出ていく力もなく、どこかに運ばれたか。
「この家は」
後ろに向かって言った。セレンではなく、遠巻きに見ていた村人の一人に向けて。
老人だった。腰が曲がって、目が細い。私の問いに、一瞬躊躇してから答えた。
「……三月前に、一家で王都の方へ出ていきました。食い扶持が続かないと言って」
「何人家族だった」
「五人で。夫婦と子供三人」
私はその家の扉を見た。五人が出ていった扉。残された農具。積み上げられた石。
「他にも出ていった家はあるか」
「……七軒、ほど」
七軒。村全体の規模からすれば、かなりの割合だ。
ゲームの画面では見えなかったものが、ここにある。シナリオには映らない、名前のない人々の生活が、確かにここで続いて、あるいは続けられなくなっている。
私は何も言わずに歩き続けた。
感傷ではない。状況の把握だ。何が起きているかを知らなければ、シナリオの隙間に何を置けるかもわからない。
*
村を三つ回って、本邸に戻ったのは日が傾いてからだった。
自室に入り、扉に鍵をかけてから、スマホを取り出した。
魔素観測のアプリを開く。昨日から取り始めているデータに、今日の分を加える。南の平野、東の川沿い、第一村から第三村まで。数値は一様に低い。平均値と比較すると、この領地全体の魔素濃度が、正常値の六割から七割程度に落ちている。
シミュレーションアプリを開いた。
『現在の魔素濃度が継続した場合、一年後の農業収穫量の変化』
砂時計が回る。
『収穫量は現在比で四割から五割に低下。深刻な食料不足が発生する可能性が高い』
ゲームでの飢饉発生時期より、一年ほど早い。
次を入力した。
『魔素濃度の低下原因として最も可能性が高いもの』
『データ不足のため確定的な回答は不可。ただし自然発生の周期的異常、外部からの魔素流出、または魔素を消費する異常事態のいずれかと推定される』
外部からの魔素流出。
その可能性は、ゲームには出てこなかった。飢饉は純粋な自然災害として描かれていた。しかし「誰かが意図的に引き起こした」可能性が、シミュレーションは排除していない。
今はデータが足りない。判断できない。
私はメモアプリに記録を入力した。日付、場所、数値、気温、天候。地道な記録だが、これを続けることで何かが見えてくる。見えてきたことが、いつか何かに使えるかもしれない。
使えない可能性の方が高い。私が死ぬまでに、使う機会が来ないかもしれない。
それでも記録する。
やれることをやる。それだけだ。
スマホの画面に、バッテリー残量が表示されている。九割。魔素から補充しているので減りは遅いが、使用頻度が上がれば話は変わる。シミュレーションを何度も回すのは、消費が大きい。無駄遣いはしないようにしなければならない。
画面を消して、布団の下に滑り込ませた。
*
翌朝、セレンが報告を持ってきた。
「東の第四村から要望が届いております」
「内容は」
「灌漑用の水路修繕を、領地の費用で行えないかと。村人自身では材料が購入できないとのことです」
私は書類を受け取った。村長の署名がある。丁寧な文字だ。字が書ける人間が署名しているということは、それなりに教育を受けた者がいる村だということになる。
水路の修繕。
ゲームには出てこない話だ。シナリオに影響しない、完全に舞台裏の出来事だ。
私はしばらく書類を見た。
コストを計算する。修繕に必要な材料費、人件費、工期。領地の財政状況と照らし合わせると、無理な数字ではない。むしろ今やっておかなければ、飢饉が本格化した時に対応できなくなる。
そしてこれはシナリオに影響しない。
ルーが水路を修繕したところで、断罪の方向性は変わらない。内通疑惑も、勇者迫害も、素行不良の印象も、何一つ変わらない。誰もこれを「善政」と評価しない。領地の端で静かに行われる土木工事は、シナリオに映らない。
「許可する」
セレンが小さく目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「何が問題だ」
「いえ、問題はございません。ただ、このような申請を受け入れていただけるとは」
私は書類を返した。
「費用は領地の予備費から出せ。工期は一月以内で終わらせるよう伝えろ。完成後の点検報告も提出させること」
「かしこまりました」
セレンが一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まってから、私は窓の外を見た。
これは計算だ。水路を直しておけば、飢饉が深刻化した時に対応できる。領地が完全に荒廃してしまえば、シナリオに支障が出る可能性がある。悪役令嬢の断罪は、機能している領地を背景にして初めて成立する。
感傷ではない。
全部計算だ。
そう思いながら、窓の外の土地を見ていた。昨日見た、枯れかけた草の色を思い出していた。五人が出ていった家の、開いたままの扉を思い出していた。
計算だ。
そう、もう一度、言い聞かせた。
*
夜、再びスマホを取り出した。
魔素観測のデータを確認する。今日も数値は低い。変化はない。ただし一点、気になる記録があった。
本邸から北東に二十分ほどの場所に、小さな森がある。地図には名前がない。ゲームにも登場しなかった場所だ。その周辺だけ、魔素濃度が他の場所より更に低い数値を示している。
局所的な異常だ。
周囲より濃度が低いということは、何かが魔素を消費しているか、あるいは外部に流出させているかのどちらかだ。自然にそういった地点が存在することもあるが、範囲が狭すぎる。自然現象にしては、不自然な局所性だ。
シミュレーションを開いた。
『北東の森付近の魔素異常の原因として考えられるもの』
砂時計。
『データ不足のため断定は不可。魔素を消費する生物・遺物・術式のいずれかが存在する可能性あり。直接調査が推奨される』
直接調査。
行くべきかどうか、考えた。
ゲームにない場所だ。シナリオに影響するかどうかわからない。ただし飢饉の原因がこの異常にあるなら、把握しておく必要がある。何がどこで何をしているかを知らなければ、記録にならない。
行く。
近いうちに、一人で行く。セレンには別の用事を作っておく。
スマホを閉じた。
窓の外に星が出ていた。前世では見ることのなかった星の配置だ。この世界の星座に、私は名前を知らない。ゲームの背景として何度も見た夜空だったが、画面の中の星と、今夜の星が同じものだとは、どうしても思えなかった。
別の世界だ。
そう、ここは本当に、別の世界だ。
私はそのことを、今日初めて、少し重く受け取った。




