1.詰み
目が覚めた瞬間、私は自分がどこにいるかを理解した。
天蓋付きのベッド。重い絹の布団。窓の外に広がる見覚えのある荒野の稜線。石造りの壁に飾られた、家名の紋章。
全部知っている。
何百時間も画面の向こうで見続けた部屋だった。
私は――前世で言うなら田中澪、享年二十三歳、無職のゲーム廃人――ゆっくりと上体を起こし、自分の手を見た。細い。白い。爪の形まで見覚えがある。
スマートフォンゲーム『聖剣と祝福の乙女たち』。略称セイタチ。プレイ時間は累計で三千時間を超えていた。
その中に登場する悪役令嬢、ルーの手だった。
声が出なかった。正確には、出そうとしなかった。混乱していないわけではない。ただ私の頭は既に、この状況が何を意味するかを整理し始めていた。
三千時間。それだけやり込めば、この世界のことは隅から隅まで知っている。攻略wikiよりも詳しいと自負できるくらいには。
そして三千時間かけて、私は一つの結論に辿り着いていた。
このゲームにおいて、ルーが生き残るルートは存在しない。
どのルートを選んでも、どの攻略対象を選んでも、ルーは最終的に断罪される。処刑されるか、追放の果てに死ぬか、形は違えど結末は同じだ。私は全てのエンディングを見た。コンプリート率百パーセント。実績解除済み。
そしてルーが生き残った場合、例外なくバッドエンドになる。
魔物の大量発生。他国との全面戦争。勇者ルカの暴走。形は違えど、世界が壊れる。
つまりルーの死は、この世界の安定に必要なのだ。ゲームのシナリオがそう設計されている。
私は自分の手を見つめたまま、静かに息を吐いた。
わかった。やるべきことはわかっている。
死ねばいい。ルーとして、完璧に悪役を演じて、断罪されて、死ねばいい。
ただしそれまでの間、できる限りのことはする。
前世で画面越しに見ていた時から、ずっと気になっていた。ルーのせいで不幸になる人々のことが。シナリオの都合で踏み台にされる人々のことが。
どうせ死ぬなら、せめてその人たちだけでも救いたい。
感傷ではない。これも計算だ。死ぬまでの時間を、無駄にしたくないだけだ。
そう自分に言い聞かせて、私は寝台から足を下ろした。
*
ルーの年齢は現在十四歳。ゲームの本編開始まで、あと二年ある。
父は半年前に病で亡くなっている。母はルーが五歳の時に流行り病で死んでいる。兄は三年前に領地の視察中に落馬して、そのまま逝った。
残ったのは私一人。辺境のこの領地を継ぐ者は他にいない。
世間はこれを不審に思っているらしい。ゲームの台詞の中に、そういった噂が出てくる場面がいくつかあった。肉親を次々と消して領地を乗っ取ったのではないかと。
事実は違う。全員、本当にただ死んだだけだ。運が悪かっただけで、私が殺したわけでも、誰かが殺したわけでもない。
だが私はその誤解を解くつもりはない。
悪役令嬢には、そういう噂が必要だ。
私は窓の外の荒野を見た。領地の南端まで続く、痩せた土地。ゲームの画面で何度も見た風景が、今は肌に触れる風と一緒にそこにある。
やることは多い。
まず、現在の領地の状況を正確に把握する必要がある。ゲームに描かれていない細部が、この世界には必ずある。二年後に本編が始まるまでに、動ける範囲で手を打っておきたい。
そして何より、確認しなければならないことがある。
私はベッドサイドのテーブルに手を伸ばした。何もない。引き出しを開けた。何もない。
そうじゃない。
目を閉じて、記憶を探った。
ゲームのオープニング。ルーが自室で一人、何かを手の中から取り出す場面がある。一瞬だけ映るそれを、私はずっと気になっていた。攻略サイトでも誰も言及していなかった。ただの演出だと思われていた。
でも。
手を、開く。
何かが落ちてくる感覚があった。
目を開けると、手の平の上に、スマートフォンがあった。
*
画面が点灯した。
見慣れたホーム画面。前世で使っていたものとほぼ同じ、ごく普通のスマートフォン。ただしケースは付いていない。アプリの配置も微妙に違う。でもそれは些細なことだ。
私はしばらくの間、画面を見つめた。
なぜこれがここにあるのか。ゲームの設定には、ルーがスマートフォンを持っているという描写はなかった。隠し設定か。それとも転生した私が持ち込んだのか。
どちらでもいい。今は使えるかどうかが重要だ。
画面をスクロールする。アプリを一つずつ確認する。地図、カメラ、メモ、計算機、ブラウザ。一通り触ってみると、どれも動く。ただしブラウザは繋がらない。当然だ。この世界にインターネットはない。
そして一つ、見慣れないアプリがあった。
アイコンは砂時計。名前は表示されていない。
開いた。
画面が切り替わり、テキスト入力欄が現れた。上部に小さく「条件を入力してください」と書いてある。
私は試しに入力した。
『ルーが現在の行動を続けた場合の十年後』
砂時計のアニメーションが数秒回り、テキストが表示された。
『断罪。処刑。享年二十四歳。領地は国に接収される』
知っている。ゲーム通りだ。
次を入力した。
『ルーが善政を敷いた場合の十年後』
『断罪。追放。享年二十七歳。領地は荒廃する。その後、魔素の異常が拡大し周辺三領地に壊滅的被害』
やはりそうか。
善人として生きてもバッドエンドになる。ゲームで確認済みだったが、改めて文字で見ると重い。
いくつか条件を変えて入力してみた。結果は全て同じ方向に収束した。ルーが生き残る未来は、例外なく世界の破綻に繋がる。
シミュレーション機能だ。おそらく完全ではない。感情やイレギュラーは読めないだろう。ゲームの設定にもそんな機能はなかった。
だが使える。
私はアプリを閉じて、スマートフォンを布団の下に滑り込ませた。これは誰にも見せられない。存在を知られてもいけない。
窓の外の空が、ゆっくりと白み始めていた。
夜明けだ。
私は立ち上がり、クローゼットから一着のドレスを引き出した。深い紺色の、装飾の少ない服。ルーの衣装としては地味な部類だが、動きやすい。
今日からやることは決まっている。
領地の視察。使用人の把握。財政状況の確認。
悪役令嬢として死ぬための準備と、それまでの間に救えるものを救うための準備。
どちらも同時に進める。
鏡の前に立った。ゲームの画面で何度も見た顔が、そこにあった。目つきが鋭い。表情が乏しい。それがデフォルトらしい。
ちょうどいい。感情を隠すのに、この顔は向いている。
私は鏡の中の自分に向かって、ごく小さく頷いた。
田中澪は三千時間かけても、この物語のハッピーエンドを見つけられなかった。
でも今は物語の中にいる。
ゲームに描かれていない場面が、この世界には無数にある。
せめてその隙間で、できることをやる。それだけだ。




