0.三千時間の答え
最後にそのゲームを起動したのは、死ぬ前の夜だった。
たぶん。
正確なことはわからない。気づいたら別の場所にいたから。
ただあの夜、私はまたルーのことを考えていた。スマートフォンの画面を天井に向けて、布団の中で、何度目かのエンディングを眺めながら。
*
田中澪という名前で二十三年生きた。
特別なことは、何もなかった。
両親とは早くに疎遠になった。理由はよく覚えていない。気づいた時には、連絡を取る習慣がなくなっていた。友人も、気づいた時にはいなくなっていた。仕事も、続かなかった。
悪いことが起きたわけではない。ただ、全部が少しずつ遠くなった。
最後の一年は、ほとんどゲームをしていた。
ゲームの中では、何かが起きた。誰かがいた。選択肢があった。こちらの動きに、世界が反応した。
現実は、動かなかった。
私が動いても動かなくても、世界は同じように流れた。誰かが何かを言うわけでも、怒るわけでも、悲しむわけでもなかった。ただ静かに、時間が過ぎた。
部屋の天井はいつも白かった。見慣れた染みが一つあって、夜中に目が覚めるたびにそれを見た。
その染みを、今日も見ていた。
*
このゲームをやり始めたのは、二年前だった。
友人に勧められたわけでも、広告を見たわけでもない。ゲームの紹介サイトで偶然見かけた、一枚のスクリーンショットだった。
断罪の場面だった。
広い石造りの部屋の中央に、一人の令嬢が立っていた。周囲を告発者たちに囲まれて、ただ真っ直ぐに前を向いていた。表情がなかった。怒りも、泣き崩れることも、言い訳することもなく、ただそこに立っていた。
その顔を見た瞬間、何かが刺さった。
購入した。
最初から全てのルートを試した。攻略対象を変えた。選択肢を変えた。隠しイベントを探した。wikiを調べ尽くした。
結果は全部同じだった。
悪役令嬢ルーは断罪される。ルーが生き残れば、世界が壊れる。
例外はない。
*
なぜあの令嬢にそこまで執着したのか、最後まで自分でも説明できなかった。
ただあの断罪の場面の顔が、頭から離れなかった。
一人で全部抱えて、誰にも言えなくて、それでも真っ直ぐに立っている顔が。
救いたかった。
三千時間かけて、救えなかった。
それがわかっていても、やめられなかった。ゲームを閉じると、部屋の天井の染みだけが残った。誰もいない部屋に、私だけがいた。
だからまた起動した。
だからまた主人公を動かした。
選択肢を選んで、物語を進めて、どのルートを通っても変わらない結末を見て、また最初から始めた。
それを繰り返した。
*
三千時間。
それだけやり込んで、私はようやく諦めた。
このゲームにおいて、ルーが救われる未来は存在しない。設計されていないのだ。最初から。ルーはこのゲームの中で、断罪されるために存在している。プレイヤーがどれだけ足掻いても、変えられない。
諦めた夜、私は布団の中でスマホの画面を見ていた。
最後のエンディングが流れていた。またルーが死んだ。またゲームオーバーの音楽が鳴った。
スマホを胸の上に置いた。
天井を見た。
白い天井。染み一つ。
思っていた。
もし。
もし私がルーだったなら。ゲームのシナリオを全部知っていて、死ぬことが決まっていて、それでもあの世界に立っていたなら。
どうしただろう。
答えは出なかった。
出ないまま、眠りに落ちた。
その夜の夢は、見なかった。
あるいは、見たのかもしれない。
目が覚めた時には、天井の染みが、なかった。




