24.それでも
王都への出発まで、三日になった。
領地の引き継ぎはほぼ終わっていた。エドが管理業務の移管を進めている。セレンが荷物の準備を整えている。
表向きは、断罪に向かう悪役令嬢の出発だ。
私は今日も、悪役令嬢として動いた。
午前中に、近隣の村長たちへの最後の通達を出した。内容は冷淡な命令口調で書かれている。エドが清書した。エドの字は丁寧だ。感情のない命令文を、丁寧な字で書く。その組み合わせが、今日は少し可笑しいと思った。
可笑しいと思った。
それは初めてのことだった。
*
昼過ぎ、ルカが来た。
アポイントはなかった。エドが「ルカ様がお見えです」と告げた時、私は少し考えてから「通せ」と言った。
ルカが応接室に入ってきた。
冬の外から来たばかりで、頬が赤い。服に雪の跡がある。急いで来たのだろう。
「突然申し訳ありません」
「用件を」
ルカが私を見た。いつもの目だ。真っ直ぐで、単純ではない。
「王都へ行かれると聞きました」
「そうだ」
「断罪のために、ですか」
私は答えなかった。
ルカが少し間を置いた。
「私が証言台に立てば、何かが変わりますか」
予想していなかった言葉だった。
ルカが、証言台に立つと言っている。
「何のために」
「ルー様は、私が見てきた中で、一番わからない人です」
ルカが真剣な顔で言った。
「命令で私を制限しながら、村人の食料が届くように動いていた。処刑を宣言しながら、その人たちが消えていない可能性がある。私には全部はわかりません。でも、わからないことと、間違っていることは、違うと思っています」
私はルカを見た。
この青年は、何を見ていたのか。
「証言台に立っても、何も変わらない」
「変わらないとわかって言っているのですか」
「そうだ」
「なぜですか」
私は答えなかった。
答えられなかった。バッドエンドを知っているから、という理由を言えない。スマホのシミュレーションが示した結果を言えない。
「……理由が言えないのですか」
「そうだ」
ルカが少し黙った。
「ルー様」
「何だ」
「私は、あなたが悪人だとは思っていません」
部屋が静かになった。
ルカの言葉が、空気の中に広がった。
私はルカを見た。
この青年は今、証拠も根拠も持たずに言っている。ゲームの設定を知らない。シミュレーションを見ていない。ただ、この一年間に見たことだけを根拠に、そう言っている。
「余計なことを言うな」
「…はい」
ルカが頷いた。頷いてから、少し笑った。
「でも、言いたかったので」
私は何も言えなかった。
ルカが礼をして出ていった。
応接室に一人残った。
ルカが去った扉を、しばらく見ていた。
胸の中に何かがあった。大きくて、名前がつけられない。
*
出発前夜。
本邸が静かだった。セレンも、エドも、下がっていた。
私は自室に一人だった。
スマホを取り出した。
バッテリーを確認した。八割五分。
シミュレーションを開こうとした。
止まった。
今夜は違うことをした。
カメラを開いた。
インカメラに切り替えた。
画面に、自分の顔が映った。
目つきが鋭い。表情が乏しい。一年前に鏡で見た時と、見た目はほとんど変わらない。
ただ今日の顔は、一年前とは少し違う気がした。
何が違うかは、うまく言えない。
シャッターを押した。
写真の中に、人が一人映った。
私だ。
ルーだ。
田中澪の記憶を持ちながら、この世界で一年間生きた、ルーだ。
写真を見た。
消さなかった。
*
写真を撮ってから、スマホを持ったまま、窓の外を見た。
雪が降っていた。
明日、この雪の中を王都へ向かう。断罪の場へ向かう。全部計画通りに進んで、ルーは死ぬ。バッドエンドを防ぐために、世界のために。
それは変わらない。
変わらないのに。
生きたい。
その言葉が、今夜も静かにそこにあった。
私はシミュレーションを開いた。
今夜最後に、一つだけ入力した。
『ルーが死なない未来を、もう一度探せ』
砂時計。長い。
『バッドエンドへの収束は変わらない。ただし民衆の動きとイレギュラーについては算出不可。現時点では存在しない』
現時点では、存在しない。
三千時間と同じ答えだった。
ただし今夜の私は、田中澪ではない。
田中澪は画面の前で諦めた。
私は今、この世界にいる。
シミュレーションが読めない場所に、人々がいる。マルクがいる。レムがいる。イーダがいる。セレンがいる。ルカがいる。
算出不可の場所に、全員いる。
私はスマホを閉じた。
答えは出なかった。
出なかったことが、今夜は絶望ではなかった。
なぜかは、わからない。
ただ、そうだった。
*
夜明け前、少しだけ眠れた。
目が覚めた時、空が白み始めていた。
起き上がって、窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。雪が止んでいた。空が少しずつ明るくなっていた。
メモを開いた。
今日の日付の下に、一行だけ書いた。
『行ってくる』
それだけ書いた。
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
この一年で出会った全員に向けた言葉かもしれない。田中澪に向けた言葉かもしれない。
あるいは、まだ見ぬ来春に向けた言葉かもしれなかった。
扉を開けた。
廊下にセレンがいた。
いつもより早い時間だ。セレンは何も言わなかった。ただそこにいた。
私もセレンを見た。
何も言わなかった。
それで十分だった。
王都へ向かう朝が、来た。




