23.前世の問い
眠れない夜が続いていた。
三日間、まともに眠れていない。眠れない理由はわかっている。わかっているから余計に眠れない。
スマホの画面が暗い部屋を照らしていた。
今夜は記録を見ていた。
この一年間のメモを、最初から読み返していた。転生した朝のことから始まって、テオのこと、カルロのこと、エルマーの覚書、ルカとの最初の接触、火事の夜、ゴットの額の血、イーダの書状、石の光、セレンの言葉。
全部、ここにある。
メモの中に、消さなかった一行が、何度も出てきた。
『カルロは悪くない』
『赤ん坊は静かだった』
『ゲームの立ち絵と、目の色が違った』
『セレンは知っている。それでも傍にいる』
『写真の中に人が映っていなかった』
計算では書けないものを、書き続けていた。
消さなかった。
私はスマホを持ったまま、天井を見た。
石造りの天井。前世のアパートの天井とは全然違う。今はもう、比べようとも思わない。
*
田中澪のことを考えた。
久しぶりに、前世のことを考えた。
田中澪は二十三歳で死んだ。死因は覚えていない。気づいたらここにいた。未練があったかどうかも、よくわからない。
ただ一つだけ、はっきりと覚えていることがある。
田中澪は、ルーを救いたかった。
三千時間かけて、このゲームをやり込んだ。全てのルートを試した。全てのエンディングを見た。ルーが死なない未来を探し続けた。
見つからなかった。
それでも諦めなかった。諦められなかった。なぜここまでこのキャラクターに執着したのか、田中澪自身も最後までわかっていなかったと思う。
今ならわかる気がする。
田中澪は、ルーの中に自分を見ていた。
一人で全部抱えて、誰にも言えなくて、それでも止まらない人間を。感情を見せない顔の下に、何かを持っている人間を。
救いたかったのは、ルーだけではなかったのかもしれない。
私はスマホを胸の上に置いた。
天井を見ながら、田中澪として生きていた時間のことを思った。
家族と疎遠になっていた。友人と呼べる人間がいなかった。仕事もしていなかった。ゲームの画面を見続けながら、誰かと話すことも少なくなっていた。
ルーと田中澪は、孤独という点で同じだった。
ただ一つだけ違うことがある。
今の私には、セレンがいる。
マルクがいる。レムがいる。イーダがいる。ダンがいる。ロルフがいる。
遠くの村で、名前を変えて生きている人々がいる。
写真には撮っていない。でも、いる。
田中澪には、いなかった。
*
夜明け前に、スマホを開いた。
メモに何かを書こうとした。
前世について書こうとした。田中澪がなぜルーに執着したかについて。今夜気づいたことについて。
書き始めて、止まった。
書けなかった。
書けない理由を考えた。
わかった。
田中澪のことを書くと、今の自分との境界が曖昧になる。田中澪として考えると、ルーとして生きていることが揺らぐ。
私は今、ルーだ。
田中澪の記憶を持っているが、今この土地に立っているのはルーだ。この領地の空気を吸って、この世界の冬の寒さを知って、セレンの声を聞いて、ルカの目を見て、イーダの書状を引き出しに入れたのはルーだ。
田中澪が救いたかったルーは、今ここにいる。
そのルーが、生きたいと思っている。
私はメモに一行だけ書いた。
『田中澪は三千時間かけてルーを救おうとした。ルーは今、生きたいと思っている』
書いてから、少しの間見た。
消さなかった。
これは田中澪への答えかもしれない、と思った。三千時間かけて見つけられなかったものが、この一行の中にある気がした。
ただしこの答えは、断罪を変えない。
生きたいと思っても、死ぬ覚悟は変わらない。バッドエンドを知っている限り、変えられない。
それでも。
今夜、この一行を書いた。
それだけのことが、今夜は大事だった。
*
朝になった。
セレンが朝食を持ってきた。
いつも通りだった。何も変わっていない。セレンはいつも通りに動いて、いつも通りに報告して、いつも通りに傍にいた。
朝食を食べながら、私は窓の外を見た。
雪が止んでいた。空が晴れていた。冬の光が、土の上に落ちていた。
「セレン」
「はい」
「先代は、最後まで一人だったか」
セレンが少し止まった。
「……はい。最後まで、誰にも言えなかったようです」
「そうか」
私は窓の外を見続けた。
「ルー様は」
「何だ」
「……今は、一人ではありません」
声が、静かだった。主張でも懇願でもない。ただ事実を言っている声だ。
私は答えなかった。
ただ窓の外の光を見ていた。
土の上に落ちる冬の光が、白かった。来春、あの土が溶けた後に何が育つかを、私は知りたいと思っていた。
知りたいと思うことは、まだ許されると思った。
セレンが下がっていく音を聞きながら、私はしばらく、その光を見ていた。
*
午後、シーン通知が届いた。
[シーン通知]
30分後からシーン012「領主の孤立」が開始されます
内容:領地の有力者たちが領主から距離を置き始めます
領主の孤立が外部に明らかになります
出演者はシーンに沿った動きを心がけてください
三十分。
孤立。
ゲームの終盤の場面だ。断罪の直前に、周囲が離れていく。それがルーへの風向きが完全に変わったことを示す場面だった。
私はその通知を見た。
準備した。
ただし今日の準備は、いつもと少し違った。
三十分で、私はエドを呼んだ。
「有力者たちが離れていく。それに便乗して、領地の管理業務を一部移管する準備をしろ。私が王都に行った後も、領地が回るように」
エドが目を上げた。
「……王都から戻らない前提ですか」
「念のためだ」
エドが一瞬だけ何かを言いかけた。止まった。
「かしこまりました」
エドが出ていった。
私は机に向かった。
領地の管理について、メモを書いた。マルクがいる北の第二村の農地の状態。レムがいる東の第四村の水路の修繕状況。イーダの織物補助の仕事の継続について。ダンの補修作業の引き継ぎ先。
全部書いた。
書きながら、これは誰かへの引き継ぎ書だと思った。
誰かが読む。
システム通知の言葉が頭に浮かんだ。
『この記録は、あなた以外の誰かに届く可能性があります』
私はメモを書き続けた。
生きたいと思いながら、死ぬ準備をしている。
その矛盾を、今日は矛盾として持っていた。
押し込まなかった。計算で塗りつぶさなかった。
ただ、持っていた。




