20.記録の完成
魔素の観測記録が、完成した。
完成、という言葉は正確ではないかもしれない。観測は続けられるし、データは増え続ける。ただし断罪の証拠として機能するために必要な量と質が、今日揃ったという意味での完成だ。
スマホのメモに保存されたデータを確認した。
転生してから今日まで、一日も欠かさず記録してきた。領地全体の魔素濃度の変化。北東の森の石の状態。農地の収穫量との相関。川の水量との関係。飢饉の発生時期と魔素の低下サイクルの一致。
数字が、一つの事実を指し示している。
飢饉の原因は魔素の異常による自然災害だ。悪役令嬢の失政ではない。先代の頃からの積み重ねで、五十年前に放置された遺物が領地の魔素を吸い続けた結果だ。
この記録を出せば、領地の汚名は晴れる。
ルーへの疑惑の一部が崩れる。
私はそれを、出さない。
シナリオのために。バッドエンドを防ぐために。この記録は、私の死後に誰かが発見するか、あるいは永遠に誰にも見られないまま終わるか、どちらかだ。
そう決めていた。
ずっと、そう決めていた。
スマホを机に置いた。
窓の外に冬の空が広がっている。雲が低い。雪が近い。
記録を完成させた達成感は、なかった。
代わりに、何か別のものがあった。名前がつけられないものが、胸の中にあった。
*
その夜、見慣れない通知が届いた。
形式が違った。
[システム通知]
この記録は、あなた以外の誰かに届く可能性があります
それだけだった。
シーン番号がない。タイトルがない。「出演者はシーンに沿った動きを心がけてください」という文言もない。
私はその通知を、何度も読んだ。
システム通知。
これまでのシーン通知とは明らかに違う。シーン通知はゲームのシナリオを管理するものだった。しかしこれは違う。シナリオへの指示ではなく、何かを告げている。
『この記録は、あなた以外の誰かに届く可能性があります』
記録。
今日、魔素の観測記録を完成させた。その直後にこの通知が来た。
偶然かもしれない。
ただし偶然でない可能性を、無視できなかった。
シミュレーションを開いた。
『システム通知の意味として考えられるもの』
砂時計。
『データ不足のため断定は不可。ただし「記録が誰かに届く」という内容から、スマホ内のデータが何らかの形で外部に伝わる可能性があることを示唆していると推定される』
外部に伝わる。
誰に。どうやって。
次を入力した。
『記録が誰かに届いた場合、最も影響を受ける出来事』
『断罪の場での証拠提示。飢饉の真因が明らかになる可能性がある』
断罪の場。
私はスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
断罪の場で魔素の記録が出てくる可能性がある。シミュレーションがそう返してきた。私がその記録を出さなくても、誰かが出す可能性がある。
誰が。
セレン。エド。マルク。レム。イーダ。ロルフ。ダン。
この人々の誰かが、スマホの記録にアクセスできるとは思えない。スマホの存在を知っているのはセレンだけだ。しかしセレンはスマホを見たことがない。記録の内容を知らない。
では誰が。
わからなかった。
ただ通知は来た。来た以上、可能性として記録しておく必要がある。
*
翌朝、セレンが来た。
「ルー様、北東の森の件で報告があります」
「何だ」
「昨夜、森の方角で光が見えたという村人の報告が複数入っております。青白い光だったとのことです」
私は顔を上げた。
「光の規模は」
「村人の証言では、木立の上から見えるほどの高さだったと。ただし短時間で消えたようです」
石の放出が、強まっている。
私はすぐに立ち上がった。
「行く」
「私もお供します」
「来るな」
「……ルー様」
「一人で確認する。セレンは本邸で待て」
セレンが一瞬だけ何かを言いかけた。止まった。
「……お気をつけください」
声が、いつもと違った。
*
北東の森に着いた時、空気が変わっていた。
前回とも違う。重い。肌が痺れるような感触がある。魔素が濃縮されすぎている場所で感じる感覚だが、今日はそれが森全体に広がっている。
石の前に立った。
苔が、ほとんど剥がれていた。
石の全面が露出している。図形の刻印が、全て見えている。石の表面が、かすかに光っていた。青白い光だ。村人が見たのはこれだ。
スマホで測定した。
魔素の数値が、これまでで最高値を示していた。平常値の五倍以上。
シミュレーションを開いた。
『現在の状態が継続した場合、魔素の嵐が発生するまでの時間』
砂時計。長い。
『一ヶ月以内。ただし現在の放出速度から算出した場合、二週間から三週間が最も可能性が高い』
二週間から三週間。
断罪より、早い。
私はその数字を見た。
断罪の前に、魔素の嵐が来る。嵐の規模次第では、断罪どころではなくなる。シナリオが完全に崩れる可能性がある。
石を見た。
青白く光る石の表面に、五十年前に刻まれた図形がある。エルマーの覚書には「調整の術式は石に刻まれた図形に従う」とあった。
調整する者が必要だ。
私には術式の知識がない。ゲームにもそういった設定は出てこなかった。
ただ。
石の図形を、これまでに何十回も撮影して、記録してきた。データがある。変化の過程がある。
シミュレーションを開いた。
『石の図形の意味を解読するために必要な情報として、現在手元にあるデータで対応できるか』
砂時計。
『石の変化記録と魔素データを組み合わせることで、部分的な解読が可能な可能性がある。ただし完全な調整には専門知識が必要。現在のデータで可能なのは、放出速度の一時的な抑制のみ』
一時的な抑制。
嵐を止めることはできない。ただし時間を稼げる可能性がある。
断罪まで時間を稼げれば、シナリオが完了する。嵐はその後に来る。
私は石の前にしゃがんだ。
図形を間近で見た。複雑に交差する線。五十年前の術師が設計した、魔素を制御するための文字。
エルマーは最後に「石には触れるな」と書いた。
触れると何が起きるか、まだわからない。ただし触れずに調整する方法も、わからない。
私はしばらく図形を見ていた。
風がなかった。森が静かだった。石の光が、私の顔を青白く照らしていた。
前世の田中澪は、この問題を知らなかった。ゲームの画面には映っていなかった。
ただし今、私はここにいる。
三千時間では届かなかった場所に、今いる。
*
夜、本邸に戻ってから、長い時間をかけてメモを書いた。
石の現状。数値。二週間から三週間という推定。一時的な抑制の可能性。
書きながら、システム通知のことを考えた。
『この記録は、あなた以外の誰かに届く可能性があります』
この記録が誰かに届くとしたら、それは断罪の場かもしれない。
断罪の場で魔素の記録が出てくる。飢饉の真因が明らかになる。そしてもしかしたら、石の記録も。
私が死んだ後に、この世界に残るものがある。
データが残る。記録が残る。
私がいなくなっても、この記録は残る。
そのことを、今夜初めて、少し違う角度から考えた。
捨てられないものが机の周りにある。花の跡と、書状と。
記録が、誰かに届く可能性がある。
私は画面を閉じた。
バッテリーを確認した。七割五分。回復が続いている。石の放出が増えるほど、周囲の魔素が増えて、補充効率が上がる。皮肉な話だ。
窓の外に雪が降り始めていた。
この世界で、初めての冬だった。




