18.体が先に
報告が来たのは昼過ぎだった。
セレンではなく、エドが持ってきた。エドが自分から報告に来るのは珍しい。何かが通常の経路では収まらないと判断した時だけだ。
「東の第二村で、子供が川に落ちました」
「生死は」
「助かっております。ただし、問題が別にあります」
エドが少し間を置いた。
「川に落ちた際、そばにいたのがルカ様でした。ルカ様は子供を助けようとされましたが、川の流れが強く、先に飛び込んだ別の男が子供を救い上げました。ルカ様は無事です」
「その男は」
「ロルフという農家の男で、川に飛び込んだ際に岩に頭をぶつけ、重傷を負っています。現在意識がありません」
私は書類を置いた。
「それで」
「村人たちの間で、噂が立っています。ルカ様のそばにいると不運が起きる、と。今回の件で二度目です。前回の火事の件もあって、ロルフの家族がルカ様を責め始めているとのことです」
ルカが責められている。
ゲームの記憶を検索した。このイベントは知らない。シナリオに存在しない場面だ。ルカの幸運体質が村人に気づかれ始めるという展開は、ゲームには描かれていなかった。
少し離れてスマホを取り出した。シミュレーションを回した。
『ロルフという男の容態と、今後の経過』
砂時計。
『重傷。意識回復は不確定。最悪の場合、後遺症が残る可能性がある』
次を入力した。
『ロルフへの医療支援を領地費用で行った場合のシナリオへの影響』
『断罪の証拠には繋がらない。ただしルーからの支援と判明した場合、悪役令嬢の評判への影響が出る』
出所を隠す。それはいつも通りだ。
問題はそこではなかった。
「ロルフに最善の医者を手配しろ。領地費用で出す。出所は伏せる方法を考えろ」
エドが頷いた。
「それと」
私は少し止まった。
「ルカへの責任追及を止めろ。ロルフが怪我をしたのはロルフが自分の意志で飛び込んだからだ。ルカに責任はない。その旨を村長経由で村人に伝えろ」
エドの目が、わずかに動いた。
「……それは、ルカ様を守ることになりますが」
「ロルフを守ることになる。ルカへの責任追及が続けば、ロルフの家族は感情の矛先をルカに向け続ける。それはロルフの回復に集中すべき時間を無駄にさせる」
エドが少し考えてから「かしこまりました」と言って出ていった。
部屋が静かになった。
私は今自分が言ったことを、頭の中で繰り返した。
論理として正しい。ロルフの家族がルカを責め続けることは、ロルフの回復に集中できないという実害に繋がる。エドへの説明は嘘ではない。
ただし。
シミュレーションは回していなかった。
エドが来て、報告を聞いて、命令が出た。その間に、スマホを開かなかった。計算が先ではなかった。
*
翌朝、セレンが来た。
いつもと歩き方が違った。用件がある時の歩き方ではなく、何かを決めてきた時の歩き方だ。
「ルー様、少しよろしいですか」
「何だ」
「セレンから、お願いがあります」
また自分の名前を使った。個人的な意見を言う時の前置きだ。
「言え」
「本当のことを、教えていただけますか」
私はセレンを見た。
セレンの目が真剣だった。怒りではない。懇願でもない。ただ真っ直ぐだった。
「何の本当のことだ」
「全部です」
一言だった。
全部。
私はしばらくセレンを見た。セレンも私を見ていた。どちらも動かなかった。
「何を知りたい」
「ルー様が何をされているのかを。テオという男が処刑されたことになっている件も、ゴットという男の件も、ロルフの医療費の出所も。それから、ルカ様への命令が実害を避ける形で設計されていることも」
全部、見ていた。
私は息を吸った。
「それを知ってどうする」
「どうもしません」
「役に立てたいということですか」
「いいえ」
セレンが少し間を置いた。
「ただ、知りたいのです。私が仕えている方が何をされているのかを。それだけです」
部屋が静かだった。
窓の外で風が鳴った。
私はセレンを見た。この人間は、ずっとそばにいた。何も聞かずに、何も言わずに、ただ傍にいた。それが今日、初めて「教えてほしい」と言っている。
答えるべきか考えた。
シミュレーションを開こうとした。
手が止まった。
スマホを出さなかった。
「聞いてどうするかは、聞いてから考えろ」
セレンが目を細めた。
「……続けてよろしいですか」
「座れ」
セレンが椅子に座った。
私は窓を向いたまま、話し始めた。
全部は話さなかった。スマホのことは話さなかった。シミュレーションのことも、前世のことも。ただ、テオのことと、ゴットのことと、自分が何をしているかの輪郭だけを話した。
死ぬつもりでいることは、言わなかった。
セレンは途中で一度だけ口を挟んだ。
「処刑された方々は、全員生きているのですか」
「そうだ」
「領地のどこかで」
「そうだ」
セレンがしばらく黙った。
「……マルクという方が、北の第二村にいます」
私は振り返った。
「知っていたか」
「一月ほど前から、気づいておりました。雰囲気が違いますが、歩き方が同じでした。テオという方とは、一度だけお会いしたことがありましたので」
一月。一月前から知っていて、黙っていた。
「なぜ言わなかった」
「言う必要がないと思いましたので」
セレンの答えは短かった。
私はセレンを見た。
この人間は一月前から知っていた。知った上で、何も変えずに仕えていた。
「セレン」
「はい」
「なぜ仕え続けている」
セレンが少し考えた。
「先代様も、不器用な方でした。大事なことを言えないまま、一人で抱えていらっしゃいました。最後まで、誰にも言えなかった」
セレンの声が、少しだけ変わった。
「私は先代様のそばで、それを見ていました。もう少し早く気づいていれば、と思うことが今もあります。だからルー様のそばでは、同じことをしたくないのです」
部屋が静かだった。
私は何も言えなかった。
言葉が、なかった。
セレンが立ち上がった。
「話してくださって、ありがとうございます」
「礼を言うな」
「はい」
セレンが扉のところで止まった。振り返らずに言った。
「ルー様が何を考えていらっしゃるか、全部はわかりません。ただ一つだけ、申し上げてもいいですか」
「言え」
「昨日のロルフの件、素早く命令が出ていました」
私は黙った。
「それだけです」
扉が閉まった。
部屋に一人になった。
セレンは見ていた。体が先に動いたことを、見ていた。
私はしばらく、窓の外を見た。
空が青かった。
何も考えられなかった。それは初めてのことだった。計算が出てこなかった。数字が浮かばなかった。
ただ空が、青かった。




