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悪役令嬢は悪女として死ぬ覚悟を決めました。  作者: 白い鴉


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15.狭間で

 イーダが屋敷に来るようになって、五日が経った。


 会わないようにしていた。


 織物補助の仕事は屋敷の西棟の一室で行われている。私が日常的に使う区画から離れた場所だ。意識して経路を変えれば、会わずに済む。


 それでも五日目の朝、廊下でイーダと鉢合わせた。


 私が書庫から戻る道と、イーダが作業室へ向かう道が、一点だけ交差する。その一点で、向かい合った。


 イーダが立ち止まった。私も止まった。


 イーダの顔を見た。三十代半ば。疲れた顔だが、眠れていない種類の疲れではなく、長く張り詰めていたものが少し緩んだ後の顔だ。目の下に影があるが、目そのものは生きている。


 イーダが先に頭を下げた。


「お仕事をいただき、ありがとうございます」


 私は何も言わなかった。


 通り過ぎようとした。


「あの」


 イーダの声が、後ろから来た。


 私は止まらなかった。止まってはいけない。悪役令嬢は使用人の礼に足を止めない。


「ゴットは、本当に悪いことをしたのでしょうか」


 私の足が、止まった。


 意志で止めたのか、別の何かで止まったのか、その瞬間はわからなかった。


 振り返らなかった。


 長い沈黙があった。廊下の端で、朝の光が床に落ちていた。


「仕事に行け」


 それだけ言った。


 歩き出した。


 後ろでイーダが、息を吸う音がした。泣いているのかもしれなかった。確認しなかった。



  *



 自室に戻って、扉を閉めた。


 スマホを取り出した。


 何かを調べようとして、何を調べるかわからなかった。手が止まった。


 しばらくそのまま、スマホを持ったまま立っていた。


 イーダの問いが、頭の中にあった。


『ゴットは、本当に悪いことをしたのでしょうか』


 答えは知っている。していない。シミュレーションが低い確率と返した。地形的なデータと行動の矛盾が証明している。


 ただしイーダにそれを言えない。


 言えば、ゴットが生きていることに繋がる。ゴットが生きていることが知れれば、処刑の記録が嘘になる。処刑の記録が嘘になれば、断罪の告発項目が一つ崩れる。


 言えない。


 言えないことが正しい判断だ。


 だから廊下で何も言わなかった。それは正しかった。


 正しかった。


 私はスマホを机に置いた。


 窓の外を見た。秋の空が高い。雲が少ない。天気の読み方が上手くなったと思っていたが、今日の空は何も読めない気がした。



  *



 シーン通知が届いたのは昼過ぎだった。



 [シーン通知]

 40分後からシーン008「シナリオの確認」が開始されます

 内容:領主が単独でシミュレーションを行い、

    断罪への道筋に変更がないことを確認します

 出演者はシーンに沿った動きを心がけてください



 私は通知を見た。


 珍しい通知だった。


 これまでのシーン通知は、誰かとの接触や出来事を指定するものだった。しかし今回は「領主が単独でシミュレーションを行う」という内容だ。私の内面の行動がシーンとして設定されている。


 四十分。


 強制力がある。シミュレーションを行うという結果に向かって、私は動く。


 ただし四十分がある。


 私は先にメモを開いた。今日のイーダとの廊下のことを書いた。足が止まった、ということも書いた。なぜ止まったかは書かなかった。書けなかった。


 四十分が経った。


 スマホのシミュレーションを開いた。


『現時点での断罪への道筋に変更はあるか』


 砂時計。


『変更なし。現在のシナリオ進行は想定範囲内。断罪まで三ヶ月から五ヶ月』


 また縮まった。


 三ヶ月から五ヶ月。


『断罪のために不足している要素はあるか』


『現時点では不足なし。ただし勇者の名声がさらに高まることで断罪の正当性が強まる。また他国内通疑惑の証拠がより具体的になれば、より確実になる』


 証拠をより具体的に。


 次の布石が必要だということだ。


 私はシミュレーションを閉じた。


 シーン008が完了した。


 強制力は発動したが、今回は自分が向かう方向と一致していた。変わらない。変わらないことを、シナリオが確認させた。



  *



 夕方、セレンが来た。


「ルー様、少しよろしいですか」


「何だ」


「イーダという者から、お礼の書状を預かっております」


 私は書類から顔を上げた。


「書状を」


「はい。私に渡してほしいと言って。直接お渡しするのは難しいと思ったようで」


 セレンが書状を差し出した。


 私は受け取った。封を開けた。


 短い文章だった。整った字ではないが、丁寧に書かれていた。


『仕事をいただきありがとうございます。今日の廊下でのことも、ありがとうございました。意味がわかっているわけではありません。でも、何かを感じました。どうかお体にお気をつけください』


 私はその文章を、二度読んだ。


 今日の廊下でのこと。


 私は何も言わなかった。通り過ぎようとした。そして「仕事に行け」と言っただけだ。


 それで何を感じたのか。


 わからなかった。


 書状を折って、机の引き出しに入れた。捨てなかった。


 セレンがまだいた。


「何かあるか」


「……いいえ」


 セレンが下がった。


 扉が閉まってから、私は引き出しを見た。


 花と、書状と。


 机の周りに、捨てられないものが増えていく。



  *



 その夜、スマホを開いた。


 シミュレーションをもう一度回した。


 今日の昼に回した内容と同じではない。別のことを入力した。


『ルーが断罪されない未来において、領地はどうなるか』


 砂時計。


『ルーが断罪されない未来はバッドエンドに収束するため、算出不可』


 わかっている。


 もう一つ入力した。


『仮にルーが断罪されない未来が存在した場合、領地の十年後』


 砂時計。少し長い。


『前提条件が存在しないため算出不可。ただし現在の領地の状態を基準とすれば、魔素の改善と農業の回復により、十年後には周辺領地と比較して安定した経済圏が形成されている可能性がある』


 私はその結果を見た。


 長い間、見た。


 前提条件が存在しないため算出不可。


 わかっている。それはわかっている。


 ただシミュレーションは、仮の話として答えを出した。安定した経済圏。魔素の改善。農業の回復。


 私が死ねばバッドエンドを防げる。それは三千時間かけて確認した事実だ。


 この世界に来てから何度もシミュレーションを回して、同じ結論が出続けている。


 変わらない。


 変わらないのに、今夜この質問を入力した自分が、少し不思議だった。


 なぜ入力したのかを考えた。


 答えが出なかった。


 スマホを閉じた。


 机の引き出しを、もう一度だけ見た。


 開けなかった。ただ見た。


 窓の外に秋の虫の音がしていた。この世界に来てから、初めて虫の音を聞いた気がした。ずっとあったはずなのに、今夜初めて聞こえた。


 そういうことが、最近少し増えている。

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