9.勇者
ルカが公式に勇者として認定された。
知らせはセレンが持ってきた。王都からの布告が領地にも届いた、という内容だった。布告には、ルカの名前と出身地と、これまでの行いが簡潔に記されていた。飢饉の中で民を救った農民の青年。神の加護を受けた勇者。国を守る盾となる者。
私は布告の写しを受け取って、一度だけ読んだ。
それをセレンに返した。
「記録しておけ」
「かしこまりました。……ご感想は」
「ない」
セレンが何かを言いかけて、止まった。
私は次の書類を手に取った。
*
感想は、嘘だった。
ある。
ただ口にできる種類のものではない。
ゲームで何十回も見たイベントが、今日現実になった。ルカが勇者になった。これでシナリオは折り返し点を過ぎた。本編の前半が終わり、後半が始まる。ルーへの疑惑が積み重なっていく時期に入る。断罪まで、あと半分だ。
半分。
その言葉を頭の中で転がした。
ゲームをプレイしていた頃は、この折り返し点から先を何度繰り返しただろう。ルカが勇者になった後に何かを変えられないかと、あらゆる選択肢を試した。無駄だったが。
今は、変えようとしていない。
変えようとしていない、のに。
スマホを取り出した。シミュレーションを開いた。
『ルカが勇者として認定された現時点での、断罪までの推定残期間』
砂時計。
『六ヶ月から八ヶ月。シナリオの進行速度によって変動する』
六ヶ月から八ヶ月。
私はその数字を見た。
前世で田中澪として生きていた二十三年と比べれば、短い。ただしこの世界で、ルーとして生きてきた時間を数えると、少し違う感触になる。この領地の土を踏んだ日から、今日まで。テオに会った日。カルロに侮辱した日。赤ん坊の顔を見た朝。エルマーの覚書を読んだ夕暮れ。
それが全部、六ヶ月後には終わる。
終わる。
そう思って、スマホを閉じた。
*
翌日、セレンから報告が入った。
「ルカ様が、領主への挨拶を希望されています」
私は顔を上げた。
「勇者になった報告を、直接したいとのことです。使者を通じてではなく、ご本人が」
ゲームの記憶を検索した。
このイベントは知っている。ルカが勇者認定後に領主と直接会う場面だ。ゲームでは短い場面で、ルーがルカを冷たくあしらい、ルカが動じないまま去る。それだけだった。
シーン通知はまだ来ていない。
つまりこれは通知の来る前の段階だ。ルカからの申し出に対して、私が受けるかどうかを決める場面だ。
「日時を決めろ。明後日の午前中で構わない」
「かしこまりました」
セレンが下がった後、私はしばらく考えた。
直接会う。
ゲームの画面で何十回も見た人物と、この世界で初めて正面から向き合う。ルカは私のことを領主として認識している。私がゲームの廃人プレイヤーの転生者だとは知らない。
それは当然のことだ。
ただ私はルカのことを、ゲームで作られた人物として見てしまう可能性がある。それは避けなければならない。この世界のルカは、画面の中の設定ではない。実在している。
意識しておく必要がある。
*
シーン通知が届いたのは、翌朝だった。
[シーン通知]
60分後からシーン005「勇者の訪問」が開始されます
内容:勇者ルカが領主館を訪れ、領主と対面します
領主は勇者を歓迎せず、短い会話の後に退室します
出演者はシーンに沿った動きを心がけてください
六十分。
今回は一時間ある。
私は六十分で何ができるかを考えた。
応接室の配置を変えた。椅子の角度を、わずかに変えた。ルカが入ってきた時に、私の顔が逆光になる位置にした。表情が読みにくくなる。それだけで、会話の主導権が変わる。
服を選んだ。装飾の多い、いかにも貴族らしい服にした。ルカとの身分差を視覚的に強調する。
セレンに「来客の茶は不要だ」と伝えた。茶を出さないのは、来客を歓迎していないという意思表示だ。シナリオ通りの演出だが、六十分で準備できる範囲でより効果的にする。
そして一つだけ、シナリオにないことを決めた。
ルカの顔を、正面から見る。
ゲームの画面越しではなく、この世界で初めて正面から。それだけは、しておきたかった。
*
ルカが来た。
想像より背が高かった。ゲームの立ち絵では気にならなかったが、実際に部屋に入ってくると、空気が少し変わるような気がした。
逆光の位置に座った私を、ルカは少し目を細めてから、真っ直ぐ見た。
眩しい場所にいるのに、目を逸らさなかった。
「ルー様、はじめまして。ルカと申します」
声は予想より低かった。落ち着いている。緊張している様子がない。領主の屋敷に呼ばれて、しかも逆光の中で座っている人間を前にして、この落ち着き方は普通ではない。
幸運体質とは、こういう種類の落ち着きも含むのかもしれない。
「用件を」
立ち上がらなかった。茶を出さなかった。視線だけで答えた。
「勇者に認定されたご報告と、今後についてご相談があって参りました。この領地の出身として、領主様にご挨拶しておきたかったのです」
「相談とは」
「勇者として動くにあたって、この領地を拠点にしてよいかどうかを確認したかったのです。村人たちのそばにいたいと思っておりまして」
私は答えなかった。
ルカを見た。
この青年は今、領主に許可を求めている。断られれば動きが変わるかもしれない。それでも来た。許可を取ることが正しいと思っているから来た。幸運体質は、こういう誠実さも含んでいる。
「好きにしろ」
短く言った。
「ありがとうございます」
ルカが深く礼をした。礼の角度が深い。形式ではなく、本当に礼を言う時の角度だ。
私は立ち上がった。退室する合図だ。
ルカが顔を上げた。その時、一瞬だけ目が合った。
ルカの目は、予想していた色と違った。
ゲームの立ち絵で見た、明るく前向きな光だけではなかった。何かを考えている目だった。真っ直ぐだが、単純ではない。
私は視線を外して部屋を出た。
*
廊下でセレンが待っていた。
私の歩調に合わせて並んだ。何も言わなかった。
階段を上りながら、私は言った。
「ルカが領地を拠点にすることを許可した」
「……よろしいのですか」
「構わない」
セレンが少し間を置いた。
「理由を伺っても」
「好都合だ」
「好都合、とは」
「領地を拠点にしていれば、動きが把握できる」
それは本当のことだ。嘘ではない。
ただそれだけが理由かと問われると、答えに詰まる気がした。だから問われる前に歩みを速めた。
自室に入り、扉を閉めた。
スマホを取り出した。
シーン005の完了を確認した。強制力は発動した。退室という結果はシナリオ通りだ。ただし六十分の準備と、椅子の角度と、服の選択と、ルカの目を正面で見たことは、通知には書かれていなかった。
メモを開いた。
今日の記録を書いた。
最後に一行加えた。
『ゲームの立ち絵と、目の色が違った』




