第93話 祝福にも、棘が混じります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は正式婚約直後の余韻と、差出人不明の祝いの品が届くお話です。
祝福の日に棘が混じりますが、シャロンは今日の大切な記憶を奪わせないと決めます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
正式な婚約の席が終わった後、すぐに屋敷中が賑やかになったわけではなかった。
父が文書を整え、グランフェル伯爵様と確認を交わす。
母とアメリア様が今後の日程について静かに話す。
私は小サロンの端で、リディアに泣かれ、フローラにじっと見つめられていた。
「お姉様」
「何?」
「ご婚約、おめでとうございます」
リディアが改めてそう言った。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。
婚約。
もう、正式にそう言ってよいのだ。
「ありがとう」
私が答えると、リディアはまた泣きそうになった。
「泣かないで」
「無理です」
「何回目かしら」
「今日は特別です」
フローラが静かに頷いた。
「今日は特別なので、多少の涙は許容範囲です」
「フローラも目が赤いわ」
「観察対象外です」
「自分だけ対象外にしないで」
そんなやり取りをしていると、少し離れた席でセドリック様がこちらを見て、かすかに笑っていた。
その視線に気づいた瞬間、私は少し背筋を伸ばす。
今までも何度も目が合った。
けれど、今日からは違う。
婚約者。
その言葉が頭に浮かんで、すぐに胸が落ち着かなくなる。
リディアが小声で言った。
「お姉様、今、婚約者の顔をしました」
「どんな顔よ」
「わかりません。でも、婚約者の顔です」
「根拠のない断定は減点よ」
「今日は減点されてもいいです」
「よくないわ」
フローラが首を傾げる。
「婚約者の顔という分類は、今後検証が必要ですね」
「検証しないで」
「では記録だけ」
「それもやめて」
言いながら、少し笑ってしまった。
嬉しい。
恥ずかしい。
まだ怖い。
でも、笑える。
それが不思議だった。
しばらくして、母が私に声をかけた。
「シャロン。少し庭へ出る?」
「庭へ?」
「ええ。セドリック様も、王都屋敷へ戻る前に少しお話しできる時間があるそうよ。もちろん、私たちの目の届く範囲で」
母は穏やかに言った。
正式に婚約したとはいえ、二人きりで長く過ごすにはまだ早い。
だが、少し話す時間くらいは許される。
私はセドリック様を見た。
セドリック様も、こちらを見て静かに頷く。
「……では、少しだけ」
庭へ出ると、午後の光はやわらかかった。
父とギルバート様は小サロンに残り、母とアメリア様が少し離れて歩いている。
リディアとフローラは同行したがったが、母に止められた。
リディアは最後まで不満そうだった。
フローラは「視認範囲なら問題ないのでは」と言っていたが、それも却下された。
庭の道を、セドリック様と並んで歩く。
並ぶ。
それだけなのに、妙に緊張する。
「シャロン嬢」
「はい」
呼ばれ方は、まだ同じだった。
少し安心して、少しだけ残念な気もした。
「正式に婚約を受けてくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、正式に望んでくださり、ありがとうございます」
言ってから、少し形式的すぎたかもしれないと思った。
けれど、セドリック様は真面目に頷いた。
「形式的な言葉でも、今は大事ですね」
「はい。形式に助けられています」
「私もです」
その答えに、少し笑いそうになる。
セドリック様も緊張しているのだろうか。
そう思うと、不思議とこちらの緊張が少し和らいだ。
「先ほどのお言葉ですが」
私は足を止めずに言った。
「便利だからではない、と言ってくださったこと。王都屋敷が決定事項ではないと言ってくださったこと。どちらも、受け取りました」
「ありがとうございます」
「ただ、全部をすぐに上手く受け取れているかは、まだ未確認です」
「はい」
「嬉しいのですが、少し怖くもあります」
「それも、聞かせてくださってありがとうございます」
セドリック様は、否定しなかった。
怖くなくなります、とは言わなかった。
大丈夫です、とも言わなかった。
ただ、聞いてくれた。
それがありがたかった。
「私も」
セドリック様が少しだけ視線を庭の先へ向ける。
「今日、あなたが私の移動の負担を確認してくださった時、少し戸惑いました」
「ご迷惑でしたか」
「いいえ。嬉しかったのです。ただ、慣れていません」
「私も、確認する側になるのは慣れていません」
「では、互いに練習ですね」
「確認練習ですか」
「はい」
思わず笑ってしまった。
「それは、婚約者同士がすることとして正しいのでしょうか」
「正しいかは未確認です」
「未確認ですか」
「ですが、私たちらしい気はします」
私たち。
その言葉に、胸が少し跳ねた。
私たち。
婚約者同士。
まだ慣れない。
けれど、嫌ではない。
母とアメリア様は少し離れたところで、こちらを見守っている。
近すぎず、遠すぎない距離だった。
私は少し迷ってから言った。
「セドリック様」
「はい」
「今後、呼び方は変えるものなのでしょうか」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなった。
なぜ今それを聞いたのか。
もっと重要な確認事項はあるはずだ。
噂のこと、住まいのこと、社交のこと。
けれど、なぜか気になってしまった。
セドリック様も少し驚いたようだったが、すぐに真面目な顔になった。
「変えなければならない、ということはないと思います」
「はい」
「ただ、変えたいと思った時に変えればよいのではないでしょうか」
「変えたいと思った時」
「はい。無理に急ぐ必要はありません」
その言葉に、私はほっとした。
セドリック様、と呼ぶのは慣れている。
けれど、婚約者になったのにいつまでもそれでよいのかと、少しだけ思ったのだ。
「では、まだこのままで」
「はい」
セドリック様は穏やかに頷いた。
「私も、シャロン嬢とお呼びしてよろしいですか」
「はい」
「ありがとうございます」
そこで少し沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。
庭の風が葉を揺らしている。
遠くで鳥の声が聞こえる。
母たちの話し声が、ごく小さく耳に届く。
穏やかな時間だった。
けれど、その穏やかさは長く続かなかった。
屋敷の方から、侍女が早足でこちらへ来る。
母が先に気づき、足を止めた。
「何かしら」
侍女は私たちの少し手前で礼を取り、母へ視線を向けた。
「奥様。門前に、贈り物が届いております」
「贈り物?」
「はい。差出人は名乗らず、使いの者もすぐに去ったとのことです」
その場の空気が、わずかに変わった。
正式な婚約の日。
差出人不明の贈り物。
胸の奥が冷える。
セドリック様の表情も、静かに引き締まった。
母はすぐに言った。
「中身は確認したの?」
「外箱のみ確認しております。大きな花籠でございます。カードが添えられており……」
侍女はそこで言葉を濁した。
母の目が細くなる。
「見せなさい」
侍女は少しためらい、それから小さな紙片を差し出した。
母が受け取り、目を通す。
その表情が、ほんのわずかに硬くなった。
「お母様」
私は声をかけた。
「見せてください」
「シャロン」
「隠さないでください」
自分の声が、少し低かった。
怖い。
けれど、知らないままにされたくない。
母は一瞬迷い、それからカードを私に渡した。
短い文字が書かれていた。
――ご婚約おめでとうございます。さぞ有用なご縁になりますように。
有用。
便利、より少し上品に言い換えただけの言葉。
胸の奥に、また棘が刺さる。
正式な婚約の日に。
わざわざ差出人を隠して。
祝いの形で、棘を混ぜてきた。
「……なるほど」
私は小さく言った。
「祝福に見せかけていますね」
セドリック様が一歩近づきかけ、けれど止まった。
私を支えるために近づこうとしてくれたのだとわかった。
でも、ここでは私が立つのを待ってくれている。
ありがたかった。
アメリア様がカードを見て、静かに言った。
「悪意がありますね」
母も頷く。
「ええ。これは、無邪気な言葉ではないわ」
「花籠はどうしますか」
侍女が尋ねる。
私は答えそうになって、止まった。
これは私だけで決めることではない。
家の対応だ。
母が静かに言う。
「まず、父上たちにも見せます。花籠は屋敷内へ飾らず、保管しなさい。誰が運んだのか、門番に確認を」
「承知いたしました」
セドリック様が低く言った。
「使いの者の特徴も記録してください。馬車か徒歩か、服装、年齢、訛り、どの方向へ去ったか」
侍女はすぐに頷いた。
「はい」
その声は落ち着いていた。
屋敷の者たちも、ただ慌てるだけではない。
母と父が、そういう家にしてきたのだ。
私はカードを見つめた。
有用なご縁。
やはり、噂は終わっていない。
正式に婚約したからといって、悪意が消えるわけではない。
むしろ、婚約が整ったからこそ、こうして形を変えてくる。
「シャロン嬢」
セドリック様が静かに呼んだ。
「はい」
「傷つきましたか?」
まっすぐな問いだった。
大丈夫ですか、ではない。
傷つきましたか。
私は一度、息を吸う。
「はい。傷つきました」
「怒っていますか?」
「はい。怒っています」
「ありがとうございます。聞かせてくださって」
私はカードを母へ返した。
「ですが、今日は正式に婚約した日です」
「はい」
「このカードに、今日の全部を持っていかれるのは嫌です」
言うと、セドリック様の目が少しだけ柔らかくなった。
「私も、そう思います」
「対応はします。記録もします。確認も必要です。でも」
私は少しだけ庭の方を見た。
「私は、今日のことを、これだけで終わらせたくありません」
母が静かに微笑んだ。
「ええ。終わらせないわ」
アメリア様も頷く。
「では、まずは小サロンへ戻りましょう。旦那様方へ報告して、必要な対応を決めます。その後で、改めてお茶を」
「お茶ですか?」
「ええ。祝いの日ですもの。棘のある花籠ではなく、ちゃんと選んだ茶菓子をいただきましょう」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
アメリア様らしい。
悪意を無視するわけではない。
けれど、悪意に場を明け渡さない。
小サロンへ戻ると、父とギルバート様の表情はすぐに硬くなった。
カードを見せる。
花籠の扱いを伝える。
門番から聞き取りをするよう指示する。
父は静かに言った。
「これは保管する。差出人がわかるまでは捨てない」
ギルバート様も頷く。
「こちらでも王都側の動きを確認する。文面からして、茶会の噂を知る者だろう」
「ベリス夫人でしょうか」
私が尋ねると、父はすぐに首を横に振った。
「断定しない」
「はい」
「だが、無関係とも決めない」
「はい」
未確認。
それでも、放置はしない。
セドリック様が言った。
「この件は、婚約発表の時期にも関わります」
「そうだな」
父が頷く。
「発表を遅らせれば、噂に怯えたように見える。急ぎすぎれば、噂を打ち消すために慌てたように見える」
ギルバート様が低く続ける。
「予定通り、整った手順で進める」
「はい」
リディアとフローラは、少し遅れて事情を聞いた。
リディアは予想通り怒った。
「有用って何ですか。人を道具みたいに」
「リディア、声」
「すみません。でも、腹が立ちます」
「ええ。私もよ」
私がそう言うと、リディアは目を見開いた。
最近、私は怒っていると言うことが増えた気がする。
良いことなのかはわからない。
けれど、少なくとも今は必要だった。
フローラはカードの文面を見て、静かに眉を寄せた。
「祝意の形を取っているので、外から責めづらいですね」
「そうね」
「ですが、差出人を隠している時点で、堂々とした祝意ではありません」
「その通りだ」
父が頷いた。
リディアが私を見る。
「お姉様、大丈夫ですか」
「大丈夫ではないわ」
私は正直に言った。
「でも、今日の全部をこのカードに奪わせるつもりはない」
リディアの目に、また涙が浮かぶ。
「お姉様」
「泣かないで」
「今日は無理です」
「今日は何回目かしら」
「数えていません」
フローラが静かに言う。
「記録しましょうか」
「しなくていいです!」
そのやり取りに、小サロンの空気が少しだけ緩んだ。
その後、母とアメリア様の言葉通り、改めてお茶が出された。
今度は、屋敷で用意した焼き菓子だった。
蜂蜜の香りがほんのりする、小さな丸い菓子。
セドリック様がそれを見た瞬間、ほんの少しだけ表情を和らげた。
私は気づいてしまった。
リディアも気づいた。
フローラも、もちろん気づいた。
けれど誰も言わなかった。
今日は、言わない優しさも必要だ。
しばらく穏やかな会話が続いた後、セドリック様が静かに言った。
「シャロン嬢」
「はい」
「今日の正式な婚約のことを、私は大切に覚えています。あのカードではなく」
胸の奥が、また熱くなった。
「私もです」
私は頷いた。
「斜めの席で、正式な言葉を聞いたことを覚えています」
「はい」
「それから、蜂蜜菓子を見て少し嬉しそうにされたことも」
セドリック様が固まった。
リディアが口元を押さえる。
フローラは視線を逸らす。
アメリア様は楽しそうに微笑んでいる。
「……確認されていたのですね」
「はい」
「負担だけでなく、甘いものの反応も」
「必要に応じて」
「それは、少し困ります」
「では未確認にしておきます」
「ありがとうございます」
小サロンに、控えめな笑いが広がった。
棘はあった。
確かにあった。
でも、今日のすべてが棘になったわけではない。
正式に婚約した日。
セドリック様が、便利だからではないと言ってくれた日。
王都屋敷は決定事項ではないと、直接聞いた日。
私が自分の名前を書き、セドリック様の名前と並んだ日。
そして、差出人不明の棘を前にしても、皆でそれを記録し、対応し、それでもお茶を飲み直した日。
夜、私は帳面に書いた。
正式に婚約。
斜めの席。
便利だからではない。
隣にいてほしい方。
王都屋敷は決定事項ではない。
移動負担の確認。
差出人不明の花籠。
有用なご縁、という棘。
傷ついた。
怒った。
でも、今日を奪わせなかった。
最後に、少し迷ってから一行を足した。
婚約者になりました。
その文字を見た瞬間、頬が熱くなった。
まだ慣れない。
けれど、消さなかった。
今日の私に必要な記録だから。
祝福にも、棘が混じることはある。
でも、棘が混じったからといって、祝福そのものを捨てる必要はない。
私は帳面を閉じ、静かに息を吐いた。
婚約者になった。
その事実は、棘よりもずっと重かった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
正式に婚約者となった二人ですが、噂の悪意はまだ形を変えて残っています。
それでも、棘だけで一日を終わらせないことも、シャロンにとって大事な一歩でした。
次回もよろしくお願いします。




