第92話 斜めの席で、正式な言葉を聞きます
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は正式な婚約の席のお話です。
セドリックは、噂への否定と、王都屋敷が決定事項ではないことをシャロン本人へ直接伝えます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
正式な婚約の席は、五日後の午後に設けられた。
場所はベルフォール子爵家の屋敷。
グランフェル伯爵夫妻は、ハイレン領本邸から馬車で朝早く発つ。
セドリック様は、前日まで王都騎士団の務めがあるため、当日の昼前に王都屋敷を出て、ベルフォール家へ直接向かう。
その予定は、事前に文で共有されていた。
移動の経路まで書かれていたのは、少し不思議でもあり、ありがたくもあった。
以前なら、私はそこまで気にしなかったと思う。
グランフェル家の方々が来る。
セドリック様が来る。
それだけで済ませていた。
けれど今は違う。
誰がどこから来るのか。
どの移動が負担になるのか。
王都屋敷とハイレン領本邸が、それぞれどう使われているのか。
それらも確認事項なのだと知った。
当日の朝、私はいつもより早く目が覚めた。
眠れなかったわけではない。
けれど、深く眠れたとも言い難い。
身支度を整えながら、何度も鏡を見る。
今日のドレスは、濃すぎない青灰色だった。
王都屋敷を訪ねた時のものより少し改まっていて、けれど威圧的ではない。
母が選んでくれたものだ。
「似合っているわ」
母が後ろから言った。
「確認ですか、慰めですか」
「事実よ」
「それは便利な言葉です」
「便利に使っているわけではありません」
母が少し笑った。
私は鏡の中の自分を見つめる。
緊張している顔だった。
でも、逃げたい顔ではない。
「お母様」
「何?」
「今日、私はきちんと答えられるでしょうか」
「答えられるわ」
「根拠は」
「あなたが、答えたいと思っているから」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
以前なら、それは根拠として弱いと思ったかもしれない。
けれど今日は、不思議と受け取れた。
答えたい。
その気持ちは、確かにある。
小サロンへ向かうと、リディアとフローラが待っていた。
リディアはすでに泣きそうだった。
「早いわ」
「まだ泣いていません」
「目がかなり準備済みよ」
「準備だけです」
フローラは静かに私を見る。
「お姉様、今日は帳面をお持ちになりますか」
「正式な席に?」
「持ち込みはしない方がよいと思います。ただ、終了後に記録する準備は必要です」
「あなた、私より冷静ね」
「いいえ。かなり緊張しています」
そう言ったフローラの手元を見ると、本が上下逆さまだった。
「フローラ」
「はい」
「本が逆よ」
フローラは一瞬止まり、静かに本を閉じた。
「今日は読書には向かない日のようです」
「そうね」
リディアが我慢できなくなったように近づいてくる。
「お姉様」
「何?」
「頑張ってください。でも、頑張りすぎないでください」
「難しい注文ね」
「はい。でも大事です」
私は少し笑った。
「ありがとう」
午前の終わり頃、グランフェル伯爵夫妻の馬車が到着した。
ハイレン領本邸からの移動は長い。
父は玄関で出迎え、母と私も続いた。
ギルバート様はいつも通り静かに礼を取り、アメリア様は穏やかに微笑んだ。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、遠いところをお越しいただきありがとうございます」
父が答える。
私は礼を取りながら、少しだけアメリア様の顔色を見た。
長い馬車移動の後だ。
疲れていないだろうか。
そう思った瞬間、アメリア様が私を見て微笑んだ。
「シャロン嬢」
「はい」
「お気遣いの目をなさっているわ」
「……失礼しました」
「失礼ではありません。嬉しいことです」
そう言われて、少し頬が熱くなる。
ギルバート様が静かに言った。
「セドリックは王都屋敷から直接こちらへ向かっている。少し遅れて到着する予定だ」
「承知しております」
父が頷く。
予定通り。
けれど、その一言で胸がまた鳴った。
セドリック様は、王都屋敷から来る。
王都騎士団の務めを調整して、直接ここへ来る。
私のために、ではなく。
いや、私のためでもある。
その区別がうまくつかず、少し落ち着かなくなった。
グランフェル伯爵夫妻を応接室へ案内してしばらくすると、二台目ではなく、一頭の馬が屋敷前に到着したと知らせが入った。
セドリック様だった。
王都屋敷から馬で来たのだ。
玄関で迎えると、セドリック様は外套を預け、丁寧に礼を取った。
「遅くなりまして申し訳ありません」
「予定通りです」
父が答えた。
セドリック様は私へ視線を向ける。
「シャロン嬢」
「はい」
「本日は、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
形式的な挨拶。
けれど、その声を聞いただけで、胸の奥が少し落ち着いた。
同時に、私は思わず言ってしまった。
「移動のご負担は、大きすぎませんか」
言ってから、正式な場の前に何を聞いているのかと思った。
けれど、セドリック様は少し目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「大丈夫です、とだけ答えると叱られそうですね」
「叱りはしません」
「では、正確に。王都屋敷からこちらまでは負担がないわけではありませんが、今日は無理のない範囲で参りました。途中で馬を休ませる時間も取りました」
「そうですか」
「ご確認ありがとうございます」
ご確認。
その言葉に、胸が少し温かくなる。
私だけが確認されるのではない。
私も確認していい。
それを、セドリック様は受け取ってくれた。
正式な席は、応接室ではなく、家族用の大きめの小サロンに整えられていた。
以前の正式な席と同じように、真正面ではない。
父とギルバート様が向かい合う位置に座り、母とアメリア様がそれぞれ斜めに。
私は、セドリック様と真正面にならない席を選ばせてもらった。
斜めの席。
それだけで、少し息がしやすい。
リディアとフローラは、最初の正式な挨拶には同席しない。
別室で待つことになっている。
父が静かに口を開いた。
「本日は、グランフェル伯爵家よりいただいた正式な婚約打診について、ベルフォール家としてお返事をする席です」
空気が改まる。
私は膝の上で指先を重ねた。
震えてはいない。
少し力は入っている。
「まず、我が家としては、グランフェル伯爵家からの婚約打診をお受けする意思があります」
父の言葉に、胸が強く鳴った。
「ただし、これまで確認してきた通り、この婚約は家同士の都合だけで進めるものではありません。本人の意思を重んじ、未確認事項については婚約後も確認を続ける。その前提で、お受けしたいと考えております」
ギルバート様が深く頷いた。
「承知しました。グランフェル家も同じ考えです」
そして、ギルバート様は私を見た。
鋭い視線ではない。
でも、逃げられないほど真っ直ぐだった。
「シャロン嬢」
「はい」
「改めて確認します。あなたご自身は、セドリックとの婚約を受ける意思がありますか」
来た。
答えは決まっている。
けれど、言う瞬間はやはり怖い。
噂の言葉が、胸の奥でかすかに響く。
便利だから。
領地に明るいから。
前の婚約がなくなったから。
私は息を吸った。
母が隣にいる。
父もいる。
向かいにはアメリア様がいて、斜め前にはセドリック様がいる。
私は一人ではない。
「はい」
声は、思っていたより静かに出た。
「私は、セドリック様との婚約をお受けしたいと思っております」
言った。
正式な場で。
自分の言葉で。
父の肩が、ほんのわずかに下がった。
母が静かに微笑む。
アメリア様の目も柔らかくなった。
ギルバート様は頷き、今度はセドリック様へ視線を向ける。
「セドリック」
「はい」
「お前の意思を」
セドリック様は姿勢を正した。
私の方を向く。
真正面ではない。
斜めの位置から、静かに。
「シャロン嬢」
「はい」
「まず、噂についてお伝えします」
胸が、少しだけ強張った。
けれど、目を逸らさなかった。
「私は、あなたを便利だから望んでいるのではありません」
短く、はっきりとした言葉だった。
余計な飾りはない。
だからこそ、胸に届いた。
「あなたの考える力を、私は尊敬しています。けれど、それは家にとって都合がよいからという意味ではありません」
セドリック様の声は穏やかだった。
でも、揺れていなかった。
「怖さを認めながらも、確認しながら前へ進もうとするところ。傷ついていないふりをせず、それでも自分の意思を手放さなかったところ。自分だけでなく、私の負担まで見ようとしてくださったところ」
息が止まりそうになる。
そんなところまで、言われるとは思わなかった。
「私は、そういうあなたの在り方を大切に思っています」
目の奥が熱くなった。
けれど、泣くまいと堪える。
今泣いたら、たぶん言葉が聞けなくなる。
セドリック様は続けた。
「家の条件に合う方としてだけではなく、私自身が隣にいてほしい方として、あなたとの婚約を望みます」
部屋が静かになった。
私は、すぐに答えられなかった。
便利だからではない。
条件だけではない。
隣にいてほしい方。
その言葉を、どう受け取ればいいのか一瞬わからなかった。
嬉しい。
恥ずかしい。
怖い。
そして、少しだけ安心した。
「……ありがとうございます」
ようやく出た声は、小さかった。
「今のお言葉は、受け取ります」
セドリック様がわずかに目を細める。
「はい」
「ただ、すぐに全部を理解できたとは言えません」
「構いません」
「後で帳面に書いて確認すると思います」
「ぜひ」
母が横で少し笑った気配がした。
アメリア様も、口元を押さえている。
けれど、誰もからかわなかった。
それがありがたかった。
父が静かに言う。
「もう一点、今後の住まいについて確認しておきたい」
私は頷いた。
セドリック様も、すぐに視線を戻す。
「はい。私からお話ししてもよろしいでしょうか」
「頼む」
セドリック様は私を見る。
「私は王都騎士団に所属しており、普段は王都屋敷を使っています。それは事実です」
「はい」
「ですが、婚姻後にシャロン嬢が王都屋敷を主な住まいにすることは、まだ決定事項ではありません」
改めて直接聞くと、文で読むよりも胸に響いた。
「王都屋敷をご案内したのは、そこに住んでいただくと決めるためではなく、私が普段使う場所を知らないまま婚約を進めたくなかったからです」
「はい」
「今後の住まいについては、王都屋敷、ハイレン領本邸、季節ごとの行き来、私の勤務の調整も含めて、確認しながら考えたいと思っています」
セドリック様は少しだけ言葉を切った。
「もちろん、私の都合だけで決めたくはありません。ですが、シャロン嬢がおっしゃってくださったように、私の負担も含めて確認していただけるなら、私も無理をしていないふりをしないよう努めます」
私は思わず瞬いた。
「努めます、ですか」
「はい」
「虚偽申告の可能性があります」
言ってから、しまったと思った。
正式な席だ。
父が咳払いをした。
母は完全に笑いをこらえている。
セドリック様は少しだけ肩を揺らした。
「可能性を減らせるよう努めます」
「……それなら確認継続です」
「はい。確認継続でお願いいたします」
そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
けれど、軽くなりすぎたわけではない。
大事なことは、ちゃんと言葉にされた。
父が正式な文書を机の上へ置いた。
「では、両家として、婚約を受ける方向で合意したことをここに記録する」
ギルバート様が頷く。
「グランフェル家として、確かに受け取りました」
文書の確認が行われ、父とギルバート様が署名する。
母とアメリア様も確認者として名を記した。
そして、最後に私とセドリック様が署名する欄があった。
手が少し震えた。
父が何も言わずに待ってくれる。
私は筆を取り、自分の名前を書いた。
シャロン・ベルフォール。
書き終えた瞬間、何かが静かに変わった気がした。
次に、セドリック様が署名する。
セドリック・グランフェル。
二つの名前が、同じ文書の上に並んだ。
婚約。
その言葉が、初めて紙の上で形になった。
まだ婚姻ではない。
まだ確認事項はたくさんある。
噂も消えていない。
けれど、正式に進む。
それは、もう曖昧ではなかった。
父が文書を整え、静かに言った。
「本日をもって、ベルフォール子爵家は、グランフェル伯爵家との婚約を正式に受ける」
ギルバート様が答える。
「グランフェル伯爵家も、これを確かに受ける」
母が私を見た。
アメリア様も微笑んだ。
セドリック様は斜め前の席で、静かに私を見ている。
私は息を吸い、ほんの少しだけ頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
セドリック様も、同じように礼を返した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
それは、何度も交わしてきた言葉だった。
けれど今日のそれは、少し違った。
挨拶ではなく、約束に近かった。
正式な席が終わると、リディアとフローラが小サロンへ呼ばれた。
入ってきた瞬間、リディアは私の顔を見て止まった。
「お姉様」
「泣かないで」
「まだ何も」
「泣く前提の顔よ」
リディアは口元を押さえ、やはり泣いた。
フローラは静かに礼を取り、グランフェル伯爵夫妻とセドリック様へ挨拶をする。
その後で、私の方を見た。
「正式に、整ったのですね」
「ええ」
私は頷いた。
「正式に、婚約を受けました」
言った瞬間、リディアがさらに泣いた。
フローラも、ほんの少しだけ目元を赤くした。
「おめでとうございます、お姉様」
「ありがとう」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
おめでとう。
そう言われることが、怖くない。
少し前の私なら、どう受け取ればいいかわからなかったかもしれない。
けれど今は、受け取れる。
全部が解決したわけではない。
傷も残っている。
噂への対応もこれからだ。
それでも、今日は前へ進んだ日だ。
セドリック様が、斜めの席から私を見て言ってくれた。
便利だからではない。
条件だけではない。
隣にいてほしい。
その言葉を、私はきっと何度も帳面に書くだろう。
書いて、確認して、恥ずかしくなって、また読み返すのだと思う。
でも、それでいい。
すぐに全部を理解できなくてもいい。
確認しながら進んでいい。
今日、私たちは正式に婚約した。
噂に押されてではなく。
噂から逃げてでもなく。
斜めの席で、互いの言葉を聞いて。
私の名前と、セドリック様の名前が、同じ文書の上に並んだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
噂の痛みが残る中でも、シャロンとセドリックは正式に婚約へ進みました。
斜めの席で交わした言葉が、これからの二人の確認の始まりになります。
次回もよろしくお願いします。




