第90話 決定事項ではないと、先に言われました
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側で、王都屋敷が住まいの決定ではないとシャロンが受け取るお話です。
婚約後の暮らしを、シャロンだけでなくセドリックの負担も含めて確認していく流れになります。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル伯爵家からの文が届いたのは、正式な婚約打診を受ける返答を出した翌日のことだった。
父の書斎に呼ばれた私は、少し身構えていた。
噂の件がある。
婚約打診の件もある。
このところ届く文は、どれも胸の奥を揺らすものばかりだった。
父は封を開き、文面に目を通す。
母も隣で静かに待っている。
「シャロン」
「はい」
「まず、グランフェル家より、こちらの返答を確かに受け取ったとの礼がある。正式な婚約へ進む日取りについては、改めて調整したいとのことだ」
正式な婚約。
何度聞いても、胸が少し鳴る。
嬉しい。
怖い。
けれど、嫌ではない。
その三つが、もう自然に並ぶようになっていた。
「それから、セドリック殿からの一文が添えられている」
「セドリック様から?」
「ああ。王都屋敷についてだ」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
王都屋敷。
広い玄関。
少し硬い応接室。
息がしやすかった小サロン。
庭への道。
未確認の食堂。
そして、主目的外の書庫。
父は文面を見ながら、丁寧に読み上げた。
「王都屋敷をご覧いただいたことは、王都での暮らしを決定するためではなく、自分が普段用いる場所を知っていただくための確認だった。今後の住まいについては、王都屋敷、ハイレン領本邸、行き来の形を含め、改めて負担を確認しながら考えたい、とある」
私は、すぐには何も言えなかった。
王都屋敷は、決定ではない。
そう言われて初めて、自分がどこかで思い込んでいたことに気づいた。
セドリック様は王都騎士団に所属している。
普段は王都屋敷を使っているはずだ。
ならば婚姻後は、私も王都屋敷で暮らすのだろう。
そんなふうに、口に出さないまま考えていた。
必要なら合わせます。
そう言う準備まで、たぶん私はしていた。
「……私、決められていないのに、決まっていると思いかけていました」
小さく言うと、母が柔らかくこちらを見た。
「そうね。あなたなら、そう思うかもしれないわ」
「セドリック様の勤務を考えれば、当然だと」
「当然ではないと、先に言ってくださったのね」
「はい」
胸の奥が、少しだけほどけた。
王都屋敷が嫌だったわけではない。
小サロンも、庭への道も、息ができる場所だった。
けれど、そこで暮らすと決まったわけではない。
その違いを、セドリック様はわざわざ言葉にしてくださった。
「王都屋敷を見せてくださったのは、そこに住むと決めるためではなく、知らないまま進まないためだったのですね」
「そういうことだろう」
父が頷いた。
「セドリック殿は、自分の勤務の都合を先に置けば、お前が合わせようとすると考えたのだと思う」
「……否定できません」
「だろうな」
父の言い方があまりにも迷いなくて、少しだけ複雑だった。
母がくすりと笑う。
「でも、大事な配慮ね。ただ、配慮して黙っていたことが、後で不安になることもあるわ」
「はい」
「だから今、言葉にしてくださったのでしょう」
私は頷いた。
押しつけないために、最初から決定事項として言わなかった。
けれど、曖昧なままにもしなかった。
王都屋敷。
ハイレン領本邸。
季節ごとの行き来。
セドリック様の勤務の調整。
それらを、これから確認していく。
また確認事項が増えた。
けれど、今回は増えても嫌ではなかった。
「シャロン」
父が静かに言う。
「この点について、お前の考えも整理しておきなさい。正式な婚約の席で、住まいを細かく決めるわけではない。だが、今後の確認事項としては重要だ」
「はい」
「王都屋敷をどう感じたか。ハイレン領本邸へまた行くなら、何を見たいか。王都と領地を行き来する形に不安はあるか」
「……たくさんありますね」
「ああ」
「また帳面が必要です」
「今回は持ってきなさい。検査ではなく整理のために」
私は少し笑った。
「はい」
書斎を出て小サロンへ向かうと、リディアとフローラが待っていた。
この数日、二人は待つことが上手くなった。
ただし、顔にはかなり出る。
「お姉様、何かありましたか」
リディアがすぐに尋ねる。
「王都屋敷のことよ」
「王都屋敷?」
フローラの目が静かに鋭くなる。
「書庫ですか」
「違います」
「では、住まいですか」
「そちらね」
私は席に座り、二人に説明した。
王都屋敷は、王都住まいを決めるために見たのではないこと。
セドリック様が普段使う場所を、私が知らないまま婚約へ進まないための確認だったこと。
今後の住まいは、王都屋敷、ハイレン領本邸、行き来の形を含めて、これから確認すること。
リディアは目を丸くした。
「そうですよね。セドリック様は王都騎士団ですもの。普通に考えれば王都に住むのかなと思います」
「私も、どこかでそう思っていたわ」
「でも、決定ではないのですね」
「ええ」
フローラが静かに頷いた。
「良い補足です」
「実務評価?」
「いえ、今回はかなり感情面も含みます」
「珍しいわね」
「お姉様は、必要なら合わせますと言いがちですので」
「皆に言われるわ」
「事実ですので」
否定できない。
リディアが少し考えてから言った。
「でも、王都屋敷が決定ではないなら、ハイレン領に住む可能性もあるのですか?」
「あると思うわ。ただ、セドリック様の勤務もあるから、簡単には決められないでしょうね」
「季節で行き来する形も?」
「その可能性もあるそうよ」
リディアはふむふむと頷いた。
「では、お姉様がずっと遠くへ行ってしまうと決まったわけでもないのですね」
その言葉に、私は少し動きを止めた。
リディアの声は明るかった。
けれど、その奥に小さな不安があることがわかった。
私が婚姻すれば、家を出る。
それは当然のことだ。
けれど、どこで暮らすかによって、妹たちとの距離も変わる。
私は自分の不安ばかり見ていたが、リディアたちにも不安はあるのだ。
「まだ、決まっていないわ」
私は言った。
「でも、どこに住むことになっても、あなたたちと縁が切れるわけではないでしょう」
リディアの目が少し潤む。
「当たり前です」
「泣かないで」
「まだ泣いていません」
「最近、その言葉の信用度が下がっているわ」
フローラが静かに言う。
「行き来の形は重要ですね」
「あなたも寂しい?」
私が尋ねると、フローラは少しだけ視線を落とした。
「……書庫の共有頻度に関わります」
「素直に寂しいと言いなさい」
「少し寂しいです」
言った後、フローラは本当に少しだけ顔を赤くした。
リディアがすぐに抱きつきそうになったので、私は視線で止めた。
今抱きつかれたら、フローラはたぶん逃げる。
「ありがとう、フローラ」
「はい」
短い返事だったが、十分だった。
その日の午後、父母と改めて正式な婚約の席について話し合った。
場所はベルフォール家。
グランフェル伯爵夫妻とセドリック様が訪れる。
エミリア様とノエル様は今回は同席しない予定。
セドリック様は王都騎士団の勤務があるため、王都から直接来る可能性が高い。
ギルバート様とアメリア様はハイレン領本邸から馬車で来ることになるだろう。
父は地図を広げ、移動の日程を確認していた。
「移動が増えるな」
「はい」
「セドリック殿は馬で本邸と王都を行き来しているようだが、それを続けるのは負担になる」
「そうですね」
「正式に婚約が整えば、相談の場をどこに置くかも考えなければならない」
父の言葉に、私は頷いた。
セドリック様は、私に負担を確認すると言ってくださる。
でも、セドリック様自身にも負担はある。
王都勤務。
ハイレン領本邸での家族相談。
ベルフォール家への訪問。
できるからといって、負担がないわけではない。
「……セドリック様にも、負担確認が必要ですね」
私が呟くと、母が柔らかく微笑んだ。
「ええ。とても大事よ」
「私ばかり確認していただくのは、違う気がします」
「そう思えるようになったのね」
「少し」
「良いことだわ」
正式な婚約の席。
そこで私は、受けると答える。
セドリック様も、きっと何かを言ってくださる。
噂のこともある。
住まいのこともある。
未確認事項もまだ多い。
それでも、進む。
そのための席を整えなければならない。
「お母様」
「何?」
「当日の席は、やはり斜めがいいです」
母は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「もちろんよ」
「正式な婚約の席でも?」
「ええ。真正面で緊張が増すなら、斜めでいいでしょう」
「面接ではないので」
「そうね。婚約の席も、面接ではないもの」
その言葉で、少しだけ笑えた。
夕方、私は帳面を開いた。
新しいページに、住まいの確認事項を書く。
王都屋敷――小サロンと庭への道は息がしやすい。応接室は硬い。食堂は未確認。書庫は主目的外。
ハイレン領本邸――庭、市、書庫は確認済み。ただし暮らす場所としては未確認。日常動線は未確認。
王都勤務――セドリック様の通常拠点は王都屋敷。だが住まいの決定ではない。
行き来――季節、勤務、領地継承準備により変わる可能性。
負担確認――私だけでなく、セドリック様にも必要。
最後の一行を書いて、筆を止めた。
私だけではない。
それは、少し新しい感覚だった。
今まで私は、自分が合わせる側だと思っていた。
必要なら、できるだけ合わせる。
迷惑をかけないようにする。
相手の都合を先に考える。
けれど、婚約は片方だけが合わせるものではない。
たぶん。
まだ、完全には言い切れない。
けれど、そう思い始めてもいい気がした。
夜、グランフェル家への返事に、私は一文を添えた。
――王都屋敷を拝見したことが、王都での暮らしの決定ではないとお伝えくださり、安心いたしました。私も、今後の住まいについては、私だけでなくセドリック様のご負担も含めて確認していきたいと思っております。
書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
セドリック様の負担。
それを私が気にしてよいのか、少し迷う。
でも、消さなかった。
確認しながら前へ進むなら、私だけが確認される側ではない。
私も、セドリック様を見る。
セドリック様の負担を知る。
それも、きっと必要なことだ。
封が閉じられる前、父がその一文を読み、静かに頷いた。
「よい」
「よいですか」
「ああ。婚約する相手を気遣う言葉だ」
母も微笑む。
「とても良いわ」
私は少し視線を落とした。
嬉しかった。
怖いこともある。
噂もまだ消えていない。
正式な婚約の席も、これからだ。
けれど、王都屋敷は決定事項ではないと、先に言われた。
私は、それに安心した。
そして、私もまた、相手の負担を確認したいと思った。
それはきっと、ただ受け身で婚約を待つのとは違う。
少しずつだけれど、私はこの縁談の中に、自分の席を作り始めているのだと思った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
王都屋敷を見たことは、そこに住むと決めるためではなく、知らないまま進まないための確認でした。
シャロンも少しずつ、自分だけでなく相手の負担を見る側へ変わっていきます。
次回もよろしくお願いします。




