第88話 正式な打診の日に、隠れません
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側で、正式な婚約打診が届くお話です。
噂を探りに来た来客に対し、シャロンが小さく線を引きます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル伯爵家から正式な婚約打診の文が届いたのは、午前の鐘が鳴って間もなくのことだった。
使者は丁寧に礼を取り、父へ封書を差し出した。
グランフェル家の封蝋が押された、重みのある文。
それを見た瞬間、胸の奥が強く鳴った。
ついに来た。
そう思った。
怖さはある。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
父の書斎に、母と私が呼ばれる。
リディアとフローラは小サロンで待つことになった。
父は封を切り、しばらく文面に目を通した。
その沈黙が長く感じられる。
やがて父は、静かに顔を上げた。
「正式な婚約打診だ」
短い言葉だった。
けれど、その重さに、私は息を止めた。
母が隣でそっと息を吐く。
「読み上げても?」
父が私を見る。
「はい」
私は頷いた。
父は文を手に取り、要点を丁寧に読み上げた。
グランフェル伯爵家として、ベルフォール子爵家長女シャロン・ベルフォールとの婚約を正式に望むこと。
この縁談は、両家の利益のみで進めるものではなく、本人同士の意思確認を重ねた上で進めるものであること。
未確認事項については、婚約後も両家と本人たちで確認を続けること。
そして、セドリック様本人も、家の条件だけではなく、私自身を望む意思を改めて示していること。
言葉が、一つずつ胸に落ちる。
本人同士の意思確認。
未確認事項を確認し続けること。
私自身を望む意思。
噂の後だからこそ、その文面は重かった。
ただの形式ではない。
噂に対する、静かな返答でもある。
「……記録に残るのですね」
私は小さく言った。
「ああ」
父は頷く。
「この縁談は、本人の意思を置き去りにして進めるものではないと、正式な文に残った」
胸の奥が熱くなる。
涙が出るほどではない。
けれど、息が少し震えた。
「シャロン」
母が柔らかく声をかける。
「今の気持ちは?」
すぐには答えられなかった。
嬉しい。
怖い。
傷ついた噂を思い出す。
でも、正式な言葉で支えられた気もする。
全部が混ざっている。
「……嬉しいです」
まず、そう言えた。
「でも、少し怖いです」
「ええ」
「噂のことを忘れたわけではありません。傷ついていないふりも、できません」
「それでいいわ」
母が頷く。
私は文面へ視線を戻した。
「でも、これを受けたい気持ちは変わりません」
父の目が静かに細められる。
「正式な返答に、その意思を記してよいか」
「はい」
声は震えなかった。
私は、自分の言葉で答えた。
「お願いします」
書斎を出ると、小サロンではリディアとフローラが待ち構えていた。
リディアは立ち上がり、私の顔を見た瞬間に目を潤ませる。
「お姉様」
「まだ何も言っていないわ」
「でも、顔が」
「顔で読まないで」
フローラは静かにこちらを見る。
「正式な打診でしたか」
「ええ」
私が頷くと、リディアが両手を口元に当てた。
「では」
「正式に、婚約を望む文が届いたわ」
言った瞬間、リディアの涙がこぼれた。
「泣かないで」
「無理です」
「正式な返答はまだよ」
「でも、お姉様が受けるのでしょう?」
私は少しだけ息を吸った。
「ええ。受けたいと思っているわ」
リディアは泣きながら笑った。
フローラも、ほんの少しだけ表情を柔らかくする。
「お姉様が、受けたいと仰ったのですね」
「ええ」
「それなら、とても良いです」
「また実務評価みたいね」
「最大限の祝意です」
そう言うフローラの声は、いつもより少し温かかった。
その時、廊下の向こうから侍女が来た。
「奥様。モーリス夫人がお越しです」
母の表情が、ほんのわずかに変わった。
モーリス夫人は、王都の社交で顔が広い男爵夫人だった。
母とは茶会で何度か顔を合わせる程度の関係だ。
親しいとは言い難い。
この時期に、急な訪問。
理由は、考えなくてもわかった。
噂だ。
「用件は?」
母が尋ねる。
「奥様にご挨拶を、と。ベルフォール家の皆様を心配しているとも」
心配。
その言葉が、今日は妙に冷たく聞こえた。
リディアの顔が険しくなる。
「お母様」
「リディア、顔」
「……はい」
リディアは慌てて表情を整えようとした。
整っていない。
フローラが静かに言う。
「噂の確認に来た可能性が高いですね」
「そうね」
母は落ち着いていた。
「お断りしてもいいのよ、シャロン」
母が私を見る。
「今、会う必要はないわ」
確かに、会わなくてもいい。
正式な打診が届いたばかりだ。
噂で傷ついた後だ。
無理に人前へ出る必要はない。
でも、私は昨日決めた。
隠れない。
無防備に出るのとは違う。
けれど、ただ奥へ下がり続けるのも違う。
「……お母様が同席してくださるなら、少しだけお会いします」
母は私をじっと見た。
「無理ではない?」
「無理ではありません。ただ、長くは難しいと思います」
「それなら、短くしましょう」
父も頷いた。
「私も隣室にいる」
「ありがとうございます」
リディアが立ち上がりかける。
「私も」
「あなたは顔に出るから駄目」
「でも」
「駄目」
母にきっぱり言われ、リディアは座り直した。
フローラが小さく言う。
「私も出ません。記録係の顔になるので」
「自覚があるのね」
「あります」
少し笑ってしまった。
その笑いで、肩の力がわずかに抜ける。
応接室に入ると、モーリス夫人はすでに席についていた。
四十代ほどの女性で、柔らかそうな笑みを浮かべている。
けれど、その目はよく動いていた。
私が入ると、その視線が一瞬だけ鋭くなる。
「まあ、シャロン様。お久しぶりでございます」
「ご無沙汰しております、モーリス夫人」
母が隣に座り、私はその近くの席へ腰を下ろした。
真正面ではない。
母がさりげなくそう配置してくれたのだろう。
「急にお訪ねして申し訳ございません。王都で少し気になるお話を耳にいたしまして。ベルフォール家の皆様がお心を痛めていらっしゃるのではと」
心配そうな声。
けれど、心配そのものより、何を知っているのかを確かめたい気配が強い。
母が穏やかに微笑む。
「お気遣いありがとうございます。ただ、不確かな噂について、こちらから詳しくお話しすることはございません」
静かな拒絶だった。
モーリス夫人は一瞬だけ笑みを強める。
「もちろんですわ。ただ、シャロン様も大変でしょう。前のお話もございましたし、今回も領地のことで色々と頼られていらっしゃるとか」
来た。
私は膝の上で指先を重ねた。
大丈夫ではない。
でも、逃げない。
「夫人」
母が口を開きかけたが、私は先に声を出した。
「ご心配ありがとうございます」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「ですが、私はどなたかの便利な相談役として婚約を受けるわけではありません」
モーリス夫人の目が、わずかに見開かれる。
母は黙って私を見守ってくれていた。
「まだ正式な発表前ですので、詳しいことは控えさせていただきます。ただ、この縁談は、私の意思も確認された上で進めているものです」
言えた。
息は浅い。
胸は痛い。
けれど、言えた。
「まあ……もちろん、そのような意味で申し上げたわけでは」
「はい。ですので、誤解が広がらないよう、夫人にもご承知おきいただければ幸いです」
母がそこで柔らかく続けた。
「シャロンの申した通りです。不確かな噂で、本人の意思が歪められることは望んでおりません」
モーリス夫人の笑みが、少しだけ固くなる。
「ええ、ええ。もちろんですわ。私も心配しただけですの」
「ありがとうございます」
母の声は最後まで穏やかだった。
けれど、もう話は終わりだとわかる響きだった。
茶は出されたが、長居はさせなかった。
しばらく形式的な会話をした後、モーリス夫人は帰っていった。
応接室の扉が閉まった瞬間、私は大きく息を吐いた。
「……疲れました」
「よく言えたわ」
母がすぐに言った。
「震えていませんでしたか」
「少し震えていたわ」
「隠してくれても」
「隠さない方がいいでしょう?」
母に微笑まれて、私は少しだけ笑った。
「はい」
隣室から父が出てきた。
「十分だ」
「聞こえていましたか」
「ああ」
「変ではありませんでしたか」
「変ではない。不確かな噂に線を引いた。必要なことだ」
その言葉で、やっと胸の奥が少しほどける。
小サロンへ戻ると、リディアが椅子から立ち上がった。
「お姉様!」
「聞き耳を立てていたの?」
「少しだけ」
フローラが淡々と訂正する。
「かなりです」
「フローラ!」
「虚偽申告はよくありません」
リディアは目を潤ませながら、私のところへ来た。
「お姉様、言えたのですね」
「ええ」
「便利な相談役じゃないって」
「そこまで聞こえていたのね」
「かなり」
私はため息をついた。
けれど、怒る気にはなれなかった。
フローラが静かに言う。
「良い線引きでした」
「また評価ね」
「今回は感情面も含みます」
「それなら、ありがとう」
リディアが悔しそうに言う。
「私も出たかったです」
「あなたは顔に出るから無理よ」
「でも、練習します」
「ええ。必要ね」
母が優しく、しかしはっきりと言った。
リディアは真剣に頷いた。
「はい。お姉様のために、怒りを顔に出さない練習をします」
「半分くらいは出ると思うわ」
私が言うと、リディアは涙目で笑った。
「では、半分までにします」
「目標が低いわ」
小サロンに少しだけ笑いが戻る。
正式な婚約打診が届いた日。
それは、ただ幸せで穏やかな日にはならなかった。
噂を探りに来る人がいた。
心配という言葉で近づき、私がどう反応するかを見ようとする人がいた。
けれど、私は隠れなかった。
傷ついていないふりもしなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、線を引いた。
その日の夕方、父はグランフェル伯爵家への正式な返答を整えた。
婚約打診を受ける意思があること。
本人の意思も改めて確認済みであること。
未確認事項については、婚約後も確認を続けたいこと。
そして、噂については両家で慎重に対応したいこと。
私は最後に、自分の言葉を一文添えた。
――噂で傷ついてはおりますが、私の意思は変わりません。隠れるのではなく、確認しながら前へ進みたいと思っております。
父はその一文を読み、静かに頷いた。
「よい」
「少し強すぎませんか」
「強くてよい」
母も微笑む。
「あなたの言葉だもの」
封が閉じられ、使者へ託される。
その背を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
怖くないわけではない。
噂が消えたわけでもない。
でも今日、私は一つだけ実践できた。
正式な打診の日に、隠れません。
それは、まだ小さな一歩だ。
けれど、虚偽申告ではなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
正式な婚約打診の日は、ただ穏やかな祝いの日にはなりませんでした。
それでもシャロンは、隠れず、自分の意思を奪わせない一歩を踏み出しました。
次回もよろしくお願いします。




