第87話 騎士の詰所で、便利という言葉を斬ります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はグランフェル家側で、噂が騎士団内にも届き、セドリックが静かに線を引くお話です。
感情任せに怒鳴るのではなく、言葉で「便利」という噂を止めます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ベルフォール子爵家からの返答を読んだ時、セドリックはしばらく言葉を失った。
噂で傷ついてはいる。
けれど、昨日伝えた意思は変わらない。
ただし、傷ついていないふりはしない。
その一文は、短かった。
だが、何よりも重かった。
シャロン嬢は、傷ついている。
それを隠さないと決めた。
そして、それでも前へ進む意思は変わらないと言ってくれた。
セドリックは便箋を机に置き、静かに息を吐いた。
「……強い方だ」
強い。
だが、それは傷つかないという意味ではない。
傷ついても、自分の答えを手放さない強さ。
痛みをなかったことにせず、それでも立とうとする強さ。
それを、軽く扱う者がいる。
便利な方。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。
「セドリック」
父ギルバートの声に、セドリックは顔を上げた。
小サロンには、父と母アメリアもいる。
正式な婚約打診の文面を整えるため、朝から確認を重ねていたところだった。
「はい」
「打診の文は、この形で出す」
父は書類を差し出した。
そこには、通常の婚約打診に必要な形式に加え、本人の意思確認を重んじてきたことが明記されていた。
両家の合意。
シャロン嬢本人の意思。
セドリック自身の意思。
未確認事項については、婚約後も両家と本人たちで確認を続けること。
形式としては丁寧で、余計な感情はない。
だが、逃げてもいない。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
ギルバートはいつものように短く返す。
「これは必要なことだ」
アメリアが静かに続けた。
「シャロン嬢の一文も、きちんと受け止めましょう。傷ついていないふりをしない。これは、こちらにも向けられた言葉よ」
「こちらにも」
「ええ。こちらが『傷つかせてしまったから、もう触れないでおこう』と遠ざけすぎるのも違うでしょう?」
セドリックは少しだけ視線を伏せた。
「はい」
「痛みに触れる時は丁寧に。でも、触れないふりはしない。難しいけれど、必要なことよ」
「承知しています」
その日の午前、セドリックは騎士団の詰所へ向かった。
正式な打診の準備が進む中でも、騎士団の務めはある。
日常は止まらない。
詰所では、いつものように鎧の音と男たちの声が響いていた。
報告書を提出し、午後の巡回予定を確認する。
そこで、奥の卓から低い笑い声が聞こえた。
「グランフェルも、ずいぶん実利的な縁談を選んだものだな」
セドリックの足が止まった。
声の主は、同じ騎士団に所属する若い男爵家の次男、ロイド・カーヴァンだった。
悪人というほどではない。
だが、軽口が過ぎる男だ。
周囲には数人の騎士がいる。
ロイドは、セドリックに気づいていなかったのか、あるいは気づいていて言ったのか、さらに続けた。
「領地に口を出せる令嬢なら、確かに便利だ。前の婚約が流れたのも、かえって都合が良かったのではないか?」
空気が変わった。
誰かが咳払いをする。
別の騎士が、慌てて視線を逸らす。
セドリックはゆっくりとロイドの方へ向いた。
「カーヴァン卿」
声は荒げなかった。
だが、詰所の音が一つ減った。
ロイドがこちらを見て、少し引きつった笑みを浮かべる。
「これは、グランフェル卿。いや、ただの噂話だ。悪気はない」
「悪気がないなら、何を言ってもよいのですか」
セドリックは静かに尋ねた。
ロイドの笑みが固まる。
「そういう意味では」
「未確認の噂を、本人のいない場で語る。それも、前の婚約で傷ついた方を便利などと評する。騎士の詰所で口にする話として、相応しいとお考えですか」
周囲が完全に黙った。
ロイドは顔を赤くした。
「そこまで大げさに取らなくても」
「大げさではありません」
セドリックは一歩も動かなかった。
「婚約に関する噂は、家同士の名誉にも、令嬢本人の尊厳にも関わります。軽口で済ませられるものではありません」
「だが、実際に領地の件で助言したのだろう?」
「それが何か」
セドリックの声が、さらに低くなる。
「能力がある方を、便利という言葉で貶めてよい理由にはなりません」
ロイドは言い返せなくなった。
セドリックは続ける。
「シャロン・ベルフォール嬢は、グランフェル家にとって都合の良い道具ではありません。私が婚約を望む一人の女性です」
はっきり言った。
詰所の中で。
騎士たちの前で。
噂を押し返すためではなく、線を引くために。
「今後、同じような言葉を聞いた場合、私は正式に抗議します」
ロイドの顔色が変わった。
「……失礼した」
「謝罪は、私にだけ向けるものではありません」
そう言うと、ロイドはさらに顔を強張らせた。
セドリックはそれ以上言葉を重ねなかった。
ここで相手を追い詰めすぎれば、また別の噂になる。
必要なのは、勝つことではない。
線を引くことだ。
しばらく沈黙が続いた後、年長の騎士が低く言った。
「カーヴァン卿。今のは軽率だったな」
「……はい」
別の騎士も続ける。
「俺も聞き流しかけた。すまない、グランフェル卿」
セドリックはそちらを見た。
「私への謝罪より、次に同じ話を聞いた時に止めてください」
「わかった」
その返事を聞いて、ようやくセドリックは少しだけ息を吐いた。
怒鳴らなかった。
剣も抜かなかった。
けれど、黙らなかった。
それで十分だった。
午後の務めを終え、屋敷へ戻ると、アメリアが玄関近くで待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「何かあった顔ね」
母には隠せない。
セドリックは小サロンへ移り、騎士団の詰所であったことを説明した。
ロイドの軽口。
便利という言葉。
周囲の沈黙。
そして、自分が止めたこと。
アメリアは黙って聞いた後、静かに頷いた。
「よく怒鳴らなかったわね」
「怒鳴りそうでした」
「でしょうね」
「ですが、怒鳴れば、私の感情の話になります」
「ええ」
「これは、感情だけの話にしてはいけないと思いました」
アメリアは柔らかく微笑んだ。
「よくできました」
「子どものようです」
「いくつになっても、よくできた時は褒めます」
そこへエミリアとノエルも入ってきた。
話の終わりだけ聞こえていたのか、二人とも緊張した顔をしている。
「兄様」
エミリアが静かに言う。
「騎士団でも、噂が出ているのですか」
「ああ」
「では、もう茶会だけの話ではありませんね」
「そうだ」
ノエルが拳を握りしめた。
「ひどいです」
「ひどいな」
セドリックは頷いた。
「だが、こちらが焦って騒げば、噂に火を足すことになる。必要な場所で、必要なだけ止める」
「必要な場所で」
「そうだ」
ギルバートが小サロンへ入ってきたのは、その時だった。
セドリックから再度話を聞くと、父は短く言った。
「良い対応だ」
「ありがとうございます」
「カーヴァン家には、こちらから大事にはしない。ただし、騎士団内で同じ話が続くなら、上官を通す」
「はい」
「そして、正式な打診は予定通り明日出す」
エミリアが息を呑んだ。
ノエルも背筋を伸ばす。
ついに。
正式な婚約打診。
「文面は整っている」
ギルバートはセドリックを見る。
「お前の言葉も、別に用意しておけ」
「はい」
「公式文とは別だ。打診の場で、お前自身が言う言葉だ」
「承知しています」
夜、セドリックは自室で、昨日書いた紙を広げた。
シャロン嬢を便利だから望んでいるのではありません。
その一文は必要だ。
だが、それだけでは足りない。
母に言われた通り、なぜ望むのかを言葉にしなければならない。
詰所で、セドリックは言った。
私が婚約を望む一人の女性です、と。
それは本音だった。
けれど、正式な打診の場では、もっと丁寧に伝えたい。
セドリックは筆を取った。
――私は、シャロン嬢の考える力を尊敬しています。
――ですが、それは便利だからという意味ではありません。
――考え続ける真摯さ、自分の怖さを認める誠実さ、未確認を隠さず前へ進もうとする勇気を、大切に思っています。
書いてから、胸が少し熱くなった。
続ける。
――家の条件に合う方としてだけではなく、私自身が隣にいてほしい方として、婚約を望みます。
その一文で、筆が止まった。
以前にも似たことは言った。
だが、今度は噂の後だ。
だからこそ、もう一度言う意味がある。
シャロン嬢が傷ついていないふりをしないと言ったなら。
自分も、望んでいることを曖昧にしない。
セドリックは紙を見つめた。
便利という言葉は、人を道具にする。
ならば、自分はその言葉を斬る。
剣ではなく、言葉で。
翌朝、グランフェル伯爵家からベルフォール子爵家へ、正式な婚約打診の文が出された。
封蝋が押された文を使者へ託す時、セドリックは深く息を吸った。
噂が消えたわけではない。
出どころも、まだ完全には明らかになっていない。
けれど、噂を理由に引くつもりはない。
噂に押されて急ぐのでもない。
シャロン嬢が自分の答えを奪わせないと言ったから。
こちらも、自分の答えを噂に歪めさせない。
使者が出ていくのを見送りながら、セドリックは静かに頷いた。
便利という言葉は、騎士の詰所で一度止めた。
だが、本当に斬るべき場所は、これからだ。
正式な打診の場で。
シャロン嬢本人の前で。
彼女を条件ではなく、彼女自身として望むのだと、必ず伝える。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
噂は茶会だけでなく騎士団にも広がり始めましたが、セドリックは逃げずに向き合いました。
そしてついに、正式な婚約打診の文がベルフォール家へ向かいます。
次回もよろしくお願いします。




