第86話 黙ることと、隠れることは違います
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側で、噂の詳しい内容を受け取るお話です。
シャロンは傷つきながらも、隠れるのではなく、無防備に出るのでもない立ち方を考え始めます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。
よく眠れたわけではない。
夜中に何度か目が覚め、そのたびに昨日聞いた噂の言葉が胸の奥で冷たく響いた。
便利だから。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに重いのか。
わかっている。
私がずっと怖がってきたところを、まっすぐ突いてくる言葉だからだ。
大丈夫ではない。
けれど、引き返したいわけではない。
昨夜、帳面にそう書いた。
朝になって読み返しても、その気持ちは変わっていなかった。
身支度を終えて小サロンへ行くと、父と母がすでにいた。
リディアとフローラも呼ばれている。
机の上には、新しい文が置かれていた。
グランフェル伯爵家からの報告。
胸が少しだけ詰まる。
「シャロン」
父が私を見る。
「昨日の噂について、グランフェル家が詳しく確認してくださった」
「はい」
「聞けるか」
私は一度だけ息を吸った。
「聞きます」
父は頷き、文面を要約してくれた。
王都の小さな茶会。
マルヴェル男爵夫人の主催。
そこにいた、カサンドラ・ベリス夫人という女性。
ラングレー家とは母方で遠縁にあたる人物。
フィリップ様本人はいなかった。
ラングレー家本家の関与も、まだ断定できない。
けれど、その場で前の婚約について話が出た。
跡継ぎではなくなったことで婚約がなくなったそうですね、と。
今回も、領地のことに明るい令嬢だから望まれているのでしょうか、と。
ハイレン領の市の件でも助言したとか、とても便利な方ですものね、と。
便利な方。
昨日より具体的な言葉になって、胸に刺さる。
リディアが息を呑んだ。
フローラの表情が、静かに冷える。
母は私を見ていた。
大丈夫、と言わなくていい。
その目が、そう言っている気がした。
「……やはり、ひどいですね」
私は言った。
昨日より、声は少しだけ落ち着いていた。
「はい。ひどいです」
リディアが即座に言う。
「とても、ひどいです」
「リディア」
「言わせてください。お姉様が、便利な方ですものね、なんて言われる筋合いはありません」
リディアの声は震えていた。
怒りと悔しさで、目が潤んでいる。
「お姉様は、便利な方ではありません。お姉様です」
その言い方があまりにもリディアらしくて、胸が痛いのに、少しだけ笑いそうになった。
「ありがとう」
「笑うところではありません」
「笑ってはいないわ」
「少し笑いそうでした」
「……少しね」
リディアは泣きそうな顔で、けれど少しだけ安心したようにも見えた。
フローラが静かに口を開く。
「発言の形が卑怯です」
「フローラ」
「断定せず、疑問の形にして、周囲に想像させています。否定された時に逃げやすい言い方です」
父が深く頷いた。
「その通りだ」
「しかも、前の婚約に関する痛点を知っている者の言い方です」
フローラの声はいつもより低い。
「偶然とは言いづらいです。ただし、断定はまだできません」
「ええ」
私は頷いた。
「まだ未確認です」
未確認。
その言葉は便利だ。
けれど、今は逃げ道ではない。
断定しないための線。
感情のまま相手を決めつけないための線。
同時に、放置しないための印でもある。
父は文面に目を落とした。
「ハーディ夫人は、その場で訂正してくださったそうだ。本人の意思も確認されている縁談を、そのように言うものではないと」
「ありがたいことですね」
「そうだな」
母も頷いた。
「でも、茶会の噂は厄介よ。誰も大きく同意しなくても、沈黙で広がることがあるもの」
「沈黙で」
私はその言葉を繰り返した。
誰かが大声で笑ったわけではない。
けれど、誰も止めなければ、言葉はそこに残る。
そして次の茶会で、少し形を変えてまた語られる。
「黙っていることは、いつも悪いわけではありません」
フローラが言った。
「でも、黙り方によっては、噂を育てます」
「そうね」
私は静かに頷いた。
昨日、エミリア様はまだフローラへ書かない方がいいと判断されたらしい。
それも沈黙だ。
でも、噂を広げないための沈黙。
黙ることと、隠れることは違う。
その違いを、今は間違えたくなかった。
「お父様」
「何だ」
「正式な婚約打診は、予定通り進めるのですよね」
「ああ。グランフェル家の意思も変わっていない。こちらの意思も、昨日確認した通りだ」
「はい」
「ただし、打診の文面には、本人の意思確認を重んじたことを明記するそうだ」
私は少し目を見開いた。
「文面に、ですか」
「ああ。この縁談は家の利益だけで進めるものではなく、両家と本人の意思を確認した上で進めるものだと、記録に残す形にする」
胸の奥が、少し熱くなった。
言葉だけではなく、記録に残す。
噂は勝手に形を変える。
だからこそ、こちらも形に残る言葉を持つ。
「セドリック様も、そのことを望まれたのでしょうか」
「おそらくな。文の中には、セドリック殿本人の意思として、お前を便利だから望んでいるのではないということも改めて記されていた」
私は視線を落とした。
便利だからではない。
昨日も聞いた。
それでも、もう一度聞くと胸が揺れる。
信じたい。
いや、信じている。
けれど、噂の言葉は、信じている場所にわざと泥をかけてくる。
だから痛い。
「……ありがたいです」
私は言った。
「でも、少し怖いです」
母が静かに頷く。
「ええ」
「正式な文に残していただくことは嬉しいです。けれど、それで噂がすぐに消えるわけではありません」
「そうね」
「婚約が整えば、社交の場で私を見る人が増えます。きっと、便利な令嬢なのかと見る人もいるでしょう」
言葉にすると、胸が重くなる。
けれど、ここで目を逸らしても仕方がない。
「私は、そういう視線に耐えられるでしょうか」
問いは、父母に向けたものでもあり、自分自身へのものでもあった。
父はすぐに「耐えられる」とは言わなかった。
母も「大丈夫」とは言わなかった。
代わりに、父が静かに言った。
「一人で耐える必要はない」
私は顔を上げた。
「婚約が整った後の社交については、もともと段階を分ける予定だった。噂があるなら、なおさら慎重にする。小規模な場、信頼できる家、こちらとグランフェル家の目が届く場所から始める」
「はい」
「噂を避けるために隠れ続ける必要はない。だが、無防備に場へ出る必要もない」
隠れ続ける。
無防備に出る。
どちらでもない形。
それなら、少し考えられる。
母が続けた。
「あなたが社交に出る時、最初から一人で立たせることはしません。私かお父様、あるいはグランフェル家の方がそばにいる形を選びましょう」
「リディアもいます!」
リディアが勢いよく言った。
「あなたはまず怒りを顔に出さない練習をしなさい」
母が穏やかに言うと、リディアは一瞬で黙った。
「……努力します」
「かなり必要ね」
「はい」
そのやり取りに、少し空気が緩んだ。
フローラが静かに言う。
「私は社交の場ではあまり役に立ちませんが、噂の文脈整理ならできます」
「それはそれで怖いわ」
「必要なら」
「必要にならないことを祈るわ」
「私もです」
フローラは本気でそう言った。
その真面目さに、胸が少し温かくなる。
皆、怒ってくれている。
けれど、私の代わりに勝手に走り出そうとはしていない。
そこがありがたかった。
父が文を整えながら言った。
「グランフェル家への返答には、こう書く。詳細確認への礼。ベリス夫人の発言については、ラングレー家本家の関与を断定せず、引き続き確認したいこと。正式な打診を受ける意思は変わらないこと」
「はい」
「それから、お前の言葉を入れるかどうかは、お前が決めなさい」
「私の言葉」
「昨日の一文のようにだ」
私は少し考えた。
今すぐセドリック様へ直接手紙を書くのは、まだ難しい。
整えすぎてしまう気がする。
けれど、公式な返答に一文添えることならできるかもしれない。
「……一文だけ、お願いします」
「何と」
私はゆっくり言葉を探した。
「噂で傷ついてはおりますが、昨日お伝えした意思は変わりません」
父は静かに頷いた。
「それでよいか」
「はい」
少し迷ってから、もう一文足した。
「ただし、傷ついていないふりはいたしません、と」
母の目が、わずかに潤んだ。
リディアはまた泣きそうになっている。
フローラは小さく頷いた。
父は文にその言葉を書き留めた。
「わかった」
傷ついていないふりはしない。
それは、今の私に必要な線だった。
夕方、父が返答を整えている間、私は庭へ出た。
昨日と同じように、リディアとフローラが少し離れてついてくる。
「また見守り?」
「はい」
リディアが即答した。
「今日は少し近めの見守りです」
「距離設定があるのね」
「あります」
フローラが頷く。
「噂対応中ですので」
「何その分類」
「暫定です」
私は少し笑った。
笑うと、胸の痛みが少しだけ和らぐ。
完全に消えるわけではない。
けれど、痛いままでも歩ける。
庭の途中で立ち止まると、リディアが小さく言った。
「お姉様、社交の場に出るのが怖いですか?」
「怖いわ」
「……そうですよね」
「でも、隠れたいわけではないの」
私は庭の先を見る。
「噂があるから隠れたと思われるのも嫌。けれど、何も準備せずに出て、また傷つくのも嫌」
「はい」
「だから、段階を分けたい。信頼できる場から。誰かがそばにいる形で」
言ってから、私は少しだけ驚いた。
これも、私の希望だ。
社交の範囲について、以前は確認表に書いた。
でも今は、それがもっと現実味を持っている。
噂があるからこそ、確認表が必要になる。
「お姉様」
フローラが静かに言った。
「それは、とても妥当です」
「実務評価ね」
「感情面も含めた評価です」
「それは珍しいわね」
「今回ばかりは必要です」
リディアが私の横に並ぶ。
「私も、怒りを顔に出さない練習をします」
「本当に必要ね」
「でも、もし誰かがお姉様にひどいことを言ったら」
「その時は、顔に出す前にお母様を見る」
「……はい」
「お母様の方がたぶん強いわ」
リディアは一瞬考え、それから深く頷いた。
「確かに」
母への信頼がとても厚い。
私も同意見だった。
その夜、父はグランフェル家へ返答を出した。
私は自室で帳面を開く。
昨日のページの下に、新しい言葉を書き足した。
詳細を聞いた。
便利な方、と言われていた。
痛い。
ひどい。
でも、噂に隠れたくない。
無防備に出るのも違う。
段階を分ける。
信頼できる場から。
傷ついていないふりはしない。
そこまで書いて、筆を止めた。
私は噂に強いわけではない。
悪意ある言葉を笑い飛ばせるわけでもない。
でも、黙っていることと、隠れることは違う。
今はまだ、すぐに社交の場で堂々と立てるとは思わない。
けれど、部屋の奥に閉じこもるつもりもない。
私の答えは、私のものだ。
噂に奪わせない。
そう決めたなら、次に必要なのは、無理をしない立ち方を選ぶこと。
私は帳面を閉じ、静かに息を吐いた。
大丈夫ではない。
けれど、私は隠れません。
その言葉はまだ少し震えているけれど、虚偽申告ではなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
噂の痛みは消えませんが、シャロンは「傷ついていないふりをしない」と決めました。
ここからは、正式な婚約打診と社交での立ち方がさらに重要になっていきます。
次回もよろしくお願いします。




