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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第84話 噂で、私の答えを奪わせません

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はベルフォール家側で、王都に流れ始めた噂をシャロンが知らされるお話です。

傷つきながらも、自分の答えを噂に奪わせないと踏みとどまります。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

 グランフェル伯爵家から急ぎの文が届いたのは、午後のことだった。


 父は書斎でそれを受け取り、しばらく返事をしなかった。

 侍女が母を呼びに行き、母が書斎へ入ってからも、扉はしばらく閉じられたままだった。


 私は小サロンで針仕事をしていたが、針先はまったく進まなかった。


 何かがあった。


 それだけは、わかる。


 リディアも落ち着かない様子で、何度も廊下の方を見ている。

 フローラは本を開いているが、ページは一枚も進んでいない。


「お姉様」


 リディアが小声で言った。


「何か、ありましたよね」


「ええ」


「縁談のことでしょうか」


「まだ、わからないわ」


 そう答えながらも、胸の奥は重かった。


 正式な婚約打診へ進む前の返答を、昨日出したばかりだ。

 その直後の急ぎの文。


 嫌な想像をしない方が難しい。


 ほどなくして、父の使いが小サロンへ来た。


「シャロンお嬢様、旦那様がお呼びです」


 私は立ち上がった。


 リディアも一緒に立ちかけたが、フローラが静かに袖を引いた。


「リディアお姉様」


「でも」


「まずは、お姉様です」


 リディアは唇を結び、ゆっくり座り直した。


「……わかりました」


 私は二人を見る。


「大丈夫よ」


 そう言いかけて、止めた。


 まだ大丈夫かどうかもわからない。


「話を聞いてくるわ」


 それだけ言って、書斎へ向かった。


 書斎には、父と母がいた。


 机の上には、グランフェル伯爵家の封蝋が押された文が置かれている。


 父の顔は硬い。

 母の表情は穏やかに整えられているが、目が少し沈んでいた。


「座りなさい、シャロン」


「はい」


 私は椅子に腰を下ろした。


 父はすぐには話し出さなかった。

 その沈黙が、かえって怖い。


「先に言っておく」


 父が静かに口を開いた。


「グランフェル伯爵家からの正式な婚約打診の意思は、変わっていない」


 私は息を止めた。


 最初にそれを言われたということは、変わったのではないかと思うような何かがあったということだ。


「では、何が」


「王都の茶会で、お前とグランフェル家の縁談について、不確かな噂が出たらしい」


「噂……」


 胸の奥が冷える。


 父は続けた。


「まだ発言者も経緯も確認中だ。断定はしない。ただ、内容がお前を傷つけるものだったため、グランフェル家が先に知らせてくださった」


 母が静かに私を見る。


「シャロン。聞くのがつらければ、今はここで止めてもいいわ」


「……いいえ」


 私は膝の上で指先を重ねた。


「聞きます」


 怖い。


 けれど、知らないまま想像する方がもっと怖い。


 父は少しだけ目を伏せ、それから言った。


「ベルフォール家の長女は、跡継ぎではなくなったから前の婚約を失った。今度は、グランフェル家の領地運営に便利だから望まれているのではないか、と」


 言葉が、落ちた。


 便利だから。


 その一言だけが、妙にはっきりと耳に残った。


 便利だから。


 役に立つから。

 条件に合うから。

 いらなくなれば、切り捨てられるから。


 前の婚約の時、何度も考えないようにしていた言葉が、勝手に胸の奥から出てくる。


 息が少し浅くなった。


 母が立ち上がりかける。


「シャロン」


「大丈夫、ではありません」


 私は先に言った。


 声は少し震えていた。


「ですが、聞けています」


 母は立ち上がりかけた姿勢のまま止まり、静かに頷いた。


「ええ」


 父の表情が、かすかに痛む。


「すまない」


「お父様が謝ることではありません」


「それでも、聞かせることになった」


「知らないままにされる方が、嫌です」


 それは本当だった。


 痛い。

 とても痛い。


 けれど、知らないまま周りだけが動いている方が、私はきっともっと傷つく。


 私は机の上の文へ視線を落とした。


「グランフェル家は……何と」


 父が文の一部を指で押さえる。


「不確かな噂を耳にしたこと。詳細を確認中であること。正式な打診の意向に変わりはないこと。まずは我々と相談したいこと」


 そこで父は一度言葉を切った。


「そして、セドリック殿本人の意思として、お前を家の都合や便利さのために望んでいるのではないことを、改めて明確に伝える、とある」


 胸の奥が、別の意味で震えた。


 便利だからではない。


 その言葉が、噂の刃に少しだけ布を巻いてくれた気がした。


 傷が消えるわけではない。

 痛くないわけでもない。


 でも、そこに立ってくれる人がいる。


「……そう、書いてくださったのですね」


「ああ」


 父は頷いた。


「グランフェル伯爵家は、噂を放置するつもりはない。ただし、感情のまま騒ぎ立てることもしない方針だ」


「それが、正しいと思います」


 自分でも驚くほど、冷静な言葉が出た。


 たぶん、冷静なふりではない。


 傷ついている。

 怒ってもいる。

 けれど、考えられなくなるほどではない。


「噂の出どころは、ラングレー家なのですか」


 私が尋ねると、父はすぐに首を横に振った。


「まだ断定できない。茶会にラングレー家の遠縁にあたる夫人がいたらしい、というところまでだ」


「そうですか」


「だから、今は名を出して責めない」


「はい」


 フィリップ様。


 その名が、頭の中に浮かぶ。


 彼本人が言ったのかどうかはわからない。

 言っていないかもしれない。

 別の誰かが、面白がって広げただけかもしれない。


 未確認。


 だから、断定はしない。


 けれど。


「ひどい、ですね」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。


 父と母が、同時に私を見る。


「ひどいです」


 もう一度、私は言った。


「便利だから、なんて。私が一番、そう思われるのが怖いと……そういうところを、わざわざ」


 喉が詰まる。


 でも、止めなかった。


「ひどいです」


 母の目が少し潤んだ。


「ええ。ひどいわ」


 父も低く言った。


「ああ。許されることではない」


 その二人の言葉で、私は少しだけ息ができた。


 ひどいと思っていい。


 傷ついたと認めていい。


 以前なら、私はきっと、そんな噂は気にしていませんと言った。

 実害がなければ問題ありません、と整えた。

 家の迷惑にならないよう、感情を押し込めた。


 でも今は、違う。


 私は傷ついた。

 腹も立っている。


 そして、それをなかったことにしなくていい。


「シャロン」


 父が静かに言った。


「正式な打診については、急いで今日答えを出さなくてもよい」


「昨日、受けたいと答えました」


「噂を聞いた後では、気持ちが揺れることもある」


「揺れています」


 私は正直に答えた。


「怖くなりました。前のことも、思い出しました。やっぱり条件なのではないかと、一瞬思いました」


 母が何か言いかけ、けれど黙って待ってくれる。


「でも」


 私は息を吸った。


「私が昨日答えたことを、この噂に奪わせたくありません」


 言葉にした瞬間、胸の奥に熱が戻った。


「私は、セドリック様との婚約打診を受けたいと答えました。それは、噂を知らなかったからではあります。でも、噂を聞いたからといって、私の答えが全部嘘になるわけではありません」


 父の目が、静かに細められる。


「そうだな」


「怖いです。傷つきました。でも、受けたい気持ちが消えたわけではありません」


 声は震えている。

 けれど、逃げてはいない。


「だから、今すぐ打診を進めてくださいとは言いません。でも、噂を理由に止めるのは嫌です」


 母が深く息を吐いた。


 安堵のような、痛みのような息だった。


「よく言えたわ」


「……よく言えたかは、わかりません」


「あなたの言葉だったわ」


 その言葉に、胸が少し詰まる。


 父はゆっくり頷いた。


「では、グランフェル家にはこう返す。噂については詳細確認を望む。シャロン本人にも伝えた。傷ついてはいるが、正式な打診を受けたいという意思は変わっていない。ただし、進め方は両家で慎重に確認したい、と」


「はい」


「それでよいか」


「はい」


 私は頷いた。


 その後、小サロンに戻ると、リディアとフローラがすぐに立ち上がった。


 二人とも、私の顔を見て何かを察した。


「お姉様」


 リディアの声が震えている。


「何があったのですか」


 私は父母を見た。


 母が静かに頷く。


 隠す話ではない。

 けれど、どこまでどう伝えるかは考える必要がある。


「王都で、私とグランフェル家の縁談について、よくない噂が出たそうよ」


 リディアの顔が強張る。


 フローラは本を持つ手を静かに下ろした。


「どのような」


 フローラの声は低かった。


 私は一度目を伏せ、言葉を選ぶ。


「私が、グランフェル家に便利だから望まれているのではないか、というような噂」


 リディアの目に、一気に怒りが浮かんだ。


「誰ですか!」


「まだ確認中よ」


「でも」


「リディア」


 父の声が静かに入る。


「今は断定しない」


 リディアは唇を噛んだ。


「……はい」


 フローラはじっと私を見ていた。


「お姉様は、傷つきましたか?」


「ええ」


 私はすぐに答えた。


「傷ついたわ」


 リディアの目が潤む。


 フローラも、わずかに眉を寄せた。


「でも、正式な打診を受けたい気持ちは変わっていない」


「お姉様…」


「噂で、私の答えを奪われたくないの」


 そう言うと、リディアが涙をこぼした。


「泣かないで」


「無理です」


「まだ正式打診前よ」


「そういう問題ではありません」


 リディアは涙を拭きながら、怒った顔をしている。


「お姉様がやっとご自分で答えたのに、それをそんなふうに言うなんて、ひどいです」


「ええ。ひどいわ」


 私は素直に頷いた。


 その返事に、リディアが少し驚いたように瞬いた。


「お姉様が、ひどいって言いました」


「言ったわ」


「もっと言っていいです」


「今は一度で十分よ」


 フローラが静かに言った。


「私は、必要なら十回分記録します」


「記録しなくていいわ」


「心の中に」


「それもやめて」


 けれど、少し笑ってしまった。


 笑えるとは思わなかった。


 噂は痛い。

 胸の奥はまだ冷えている。


 それでも、家族の前で少し笑えた。


 母がそっと言う。


「今日のところは、無理に元気でいなくていいのよ」


「はい」


「夕食も、食べられるだけでいいわ」


「……はい」


「それから、セドリック様へすぐに手紙を書かなくてもいいの」


 私は少し動きを止めた。


 書かなければ、と思っていた。


 大丈夫です。

 気にしていません。

 正式な打診をお願いします。


 そう書かなければならない気がしていた。


 母はそれを見抜いたように首を横に振る。


「今夜書くと、あなたはきっと整えすぎるわ」


「……そうかもしれません」


「まず、傷ついたままでいなさい」


「傷ついたまま」


「ええ。明日になっても、その次でもいい。言葉にするのは、少し落ち着いてからでいいのよ」


 私はゆっくり頷いた。


 傷ついたままでいる。


 それは、思っていたより難しい。


 けれど、今はその方が正しい気がした。


 その夜、私は手紙を書かなかった。


 机には向かった。

 便箋も出した。


 けれど、筆は取らなかった。


 代わりに、帳面を開いた。


 王都屋敷の感想を書いたページの次に、新しい日付を書く。


 王都の噂。

 未確認。

 便利だから望まれている、という内容。

 傷ついた。

 ひどいと思った。

 怖くなった。

 でも、婚約打診を受けたい気持ちは消えていない。

 噂で私の答えを奪われたくない。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 文字は少し乱れている。

 けれど、整えなくていい。


 これは公式文ではない。

 誰かへ見せる返事でもない。


 私のための確認だ。


 私は帳面の最後に、もう一行書いた。


 大丈夫ではない。

 けれど、引き返したいわけではない。


 書いた瞬間、目の奥が熱くなった。


 涙が一つ、帳面の端に落ちた。


 慌てて拭こうとして、やめる。


 残ってもいい。


 今日は、そういう日だ。


 噂は私を傷つけた。

 けれど、私の答えを奪うことはできない。


 私は帳面を閉じ、静かに息を吐いた。


 明日、また考える。


 今日はまず、傷ついた自分をなかったことにしない。


 それだけで十分だった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

平穏に進みかけた婚約打診の前に、シャロンの古傷を突く噂が出てきました。

けれど今回は、傷ついたことも、怒ったことも、前へ進みたい気持ちも、シャロン自身が言葉にしています。

次回もよろしくお願いします。

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