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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第83話 未確認の噂は、減点では済みません

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はグランフェル家側で、正式な婚約打診の直前に王都社交で不穏な噂が出始めるお話です。

穏やかに進んでいた縁談に、前の婚約に関わる影が差します。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

 ベルフォール子爵家からの返書が届いた時、グランフェル家の小サロンには、穏やかな空気が流れていた。


 正式な婚約打診を受ける用意があること。

 シャロン嬢本人の意思を改めて確認し、前向きに受ける気持ちであること。

 未確認事項については、婚約後も両家で確認を続けたいこと。


 そして、最後に添えられた一文。


 ――未確認のことはありますが、確認しながら前へ進みたいと思っております。


 セドリックは、その一文を何度も読み返した。


 未確認がある。

 それでも、前へ進みたい。


 シャロン嬢らしい、慎重で、けれど確かな言葉だった。


「よくお返事くださいましたね」


 アメリアが柔らかく言った。


「はい」


 セドリックは頷いた。


「怖さが消えたわけではないと思います。それでも、受けたいと答えてくださった」


「大事にしなさい」


 ギルバートが短く言う。


「はい」


「ここからは、正式な打診だ。今までより周囲の目も増える」


「承知しております」


「曖昧にせず、だが急がせるな」


「はい」


 父の言葉に、セドリックは背筋を伸ばした。


 ようやく、ここまで来た。


 縁談を前向きに進める話から、正式な婚約打診へ。


 まだ終わりではない。

 むしろ、始まりに近い。


 けれど、確かに二人はそこへ向かっていた。


 エミリアは嬉しそうに口元を押さえ、ノエルは真面目な顔で何かを考えている。


「ノエル」


 セドリックが声をかけると、ノエルははっと顔を上げた。


「はい」


「何を考えていた」


「お祝いを申し上げる時期についてです」


「まだ正式打診前だ」


「はい。ですので、早すぎない範囲で喜ぶ段階だと思いました」


 エミリアが小さく笑う。


「ノエル、それは正しいと思います」


「本当ですか?」


「はい。かなり」


「かなり…」


 ノエルは嬉しそうに頷いた。


 その時だった。


 小サロンの扉が控えめに叩かれた。


 家令が入ってきて、深く礼を取る。


「旦那様。王都屋敷より、急ぎの報告が届いております」


 ギルバートの表情が変わった。


 穏やかだった空気が、わずかに張る。


「何だ」


 家令は一通の封書を差し出した。


「王都での茶会にて、ベルフォール子爵家のご令嬢に関する話が出たとのことです。差出人は、奥様のお知り合いであるハーディ夫人からです」


 アメリアの目が細くなった。


「ハーディ夫人が急ぎで知らせてくださったのなら、軽い話ではなさそうね」


 ギルバートが封を切る。


 短い書面だった。


 読み進めるにつれ、父の表情が静かに険しくなる。


「父上」


 セドリックが声をかけると、ギルバートは手紙を机に置いた。


「王都の茶会で、ベルフォール嬢とグランフェル家の縁談について噂が出た」


 セドリックの胸が、冷たく沈んだ。


「まだ正式に公表しておりません」


「ああ。だが、我々の出入りを見た者がいる。そこから話が広がったらしい」


 それ自体は、完全には防げない。


 貴族の屋敷に馬車が出入りすれば、誰かが見る。

 正式な打診前でも、噂は勝手に形を作る。


 問題は、その中身だ。


 アメリアが手紙を受け取り、目を通した。


 そして、珍しくはっきりと眉を寄せた。


「……悪意があるわね」


「何と?」


 セドリックの声は、自分でも驚くほど低かった。


 アメリアは一度迷ったように見えたが、隠さなかった。


「ベルフォール家の長女は、跡継ぎではなくなったから前の婚約を失った。今度はグランフェル家の領地運営に便利だから望まれているのではないか、と」


 小サロンが、静まり返った。


 ノエルが息を呑む。


 エミリアの表情から笑みが消えた。


 セドリックは、しばらく何も言えなかった。


 便利だから。


 その言葉が、胸の奥で鋭く刺さる。


 シャロン嬢が一番傷ついてきたところだ。

 役に立つから価値がある。

 条件が変われば切り捨てられる。


 ようやく彼女が、自分の意思で前へ進みたいと言ってくれたところなのに。


 その足元へ、そんな言葉が投げ込まれようとしている。


「発言した者は」


 ギルバートが短く問う。


 アメリアは手紙の続きを見る。


「はっきり名を挙げてはいないわ。ただ、ラングレー家の遠縁にあたる夫人が、その場にいたそうです」


「ラングレー」


 セドリックはその名を繰り返した。


 シャロン嬢の前の婚約者、フィリップ・ラングレー。


 その家名が、ここで出てきた。


「フィリップ本人が言ったとは限りません」


 エミリアが静かに言う。


「ですが、無関係とも言い切れません」


「そうだ」


 ギルバートは頷いた。


「断定はしない。だが、放置もしない」


 セドリックは便箋を見つめた。


 未確認の噂。


 いつもなら、シャロン嬢の言葉を借りて、根拠のない断定は減点だと言えたかもしれない。


 だが、これは減点では済まない。


 人を傷つけるための未確認は、ただの間違いではない。


「父上」


「何だ」


「私は、怒っています」


「顔を見ればわかる」


「失礼しました」


「謝る必要はない。怒るべき時だ」


 ギルバートの声は静かだった。


「だが、怒り方を間違えるな」


「はい」


「ここでラングレー家へ感情のまま抗議すれば、噂に形を与えることになる」


「承知しています」


「まず、事実を確認する。誰が、どの場で、何を言ったのか。ハーディ夫人に詳しく聞く」


「はい」


 アメリアも続ける。


「それから、ベルフォール子爵家へは知らせるべきです」


 セドリックは顔を上げた。


「はい」


「ただし、シャロン嬢へ直接投げる形にはしない方がいいわ。まずはエドモンド様とマリエル様へ。どう伝えるかは、あちらのご両親とも相談しましょう」


「……はい」


 本当は、すぐにでもシャロン嬢へ伝えたい気持ちがあった。


 隠したくない。

 彼女を置いていきたくない。


 けれど、噂の刃をそのまま渡すことが誠実とは限らない。


 彼女の意思を尊重することと、傷つける言葉を無防備にぶつけることは違う。


 セドリックは深く息を吐いた。


「正式な婚約打診は」


 ノエルが不安そうに尋ねた。


「止まるのでしょうか」


 小さな声だった。


 セドリックはすぐに首を横に振りたいと思った。


 だが、感情だけで答えてはいけない。


 ギルバートが静かに言う。


「止める理由にはならない」


 ノエルが顔を上げる。


「本当ですか」


「ああ。ただし、進め方はより丁寧にする必要がある」


 アメリアも頷いた。


「噂があるから急いで婚約する、という形に見えてはいけません。かといって、噂に怯えて引くのも違います」


「では」


 エミリアが強い目で言った。


「予定通り、正式な打診へ進むのですね」


 ギルバートは頷いた。


「そのために、先に噂の出どころを確認する」


 セドリックは拳を握りそうになり、意識して力を抜いた。


 騎士団で学んだことがある。


 怒りは、剣を鈍らせる。

 だが、正しい方向へ置けば、足を止めない力になる。


 今、必要なのは後者だ。


「兄様」


 エミリアが声をかけた。


「何だ」


「シャロン様は、便利だから望まれている方ではありません」


「当然だ」


 即答だった。


 エミリアは頷く。


「でも、噂はそこを突いてくるのですね」


「ああ」


「なら、兄様がきちんと言葉にする必要があります」


 セドリックは妹を見た。


「どこで?」


「正式な打診の場でです」


 エミリアの声は静かだが、強かった。


「家同士の条件も大事です。でも、シャロン様ご自身を望んでいるのだと、もう一度はっきり言うべきです」


 セドリックは黙った。


 以前も言った。

 正式な席で、役目や条件だけではなく、シャロン嬢自身と向き合いたいと。


 けれど、今度はもっと必要になる。


 噂が彼女の傷を突くなら。

 こちらは、傷をなかったことにせず、違うと言葉にしなければならない。


「そうだな」


 セドリックは言った。


「必ず言う」


 アメリアが、少しだけ安心したように微笑んだ。


「ええ」


 ギルバートは家令へ指示を出した。


「ハーディ夫人へ、詳細を伺う使いを出せ。相手を責める文ではなく、事実確認だ」


「承知いたしました」


「それから、ベルフォール子爵へも文を出す。こちらで不確かな噂を耳にしたこと。詳細を確認中であること。正式な打診の意向に変わりはないこと。まずは子爵夫妻と相談したいこと」


「すぐに」


 家令が退いた後、小サロンには重い沈黙が残った。


 さきほどまで、正式な打診へ進む喜びがあった。

 それは消えていない。


 けれど、その上に冷たい影が差した。


 エミリアが唇を引き結んでいる。


 ノエルは膝の上で指を握りしめ、視線を落としていた。


「ノエル」


 セドリックが呼ぶと、ノエルは顔を上げた。


「はい」


「怖いか」


「……少し」


 正直な答えだった。


「ですが、腹も立っています」


「そうか」


「シャロン嬢が、ようやく未確認があっても進めると仰ったのに」


 ノエルの声が少し震えた。


「それを、便利だからなどと」


 セドリックは静かに頷いた。


「その怒りは、持っていていい」


「はい」


「ただ、すぐに相手へ投げるな」


「はい」


「正しく使う」


 ノエルは真剣に頷いた。


「わかりました」


 エミリアがぽつりと言う。


「フローラ様には、まだ書けませんね」


「そうだな」


 セドリックは答えた。


「文通で先に伝える話ではない」


「はい」


「ベルフォール子爵夫妻がどう伝えるかを決めてからだ」


「わかっています」


 エミリアはそう言ったが、悔しそうだった。


 フローラ嬢へ何でも書けるわけではない。

 静かな協定があろうとなかろうと、これは家同士で扱うべき話だ。


 その区別を、今は守らなければならない。


 夕方、ハーディ夫人への使いが出され、ベルフォール家への文も整えられた。


 セドリックはその文面を父に確認させてもらった。


 不確かな噂を耳にしたこと。

 発言者と内容は確認中であること。

 グランフェル家として、噂によって正式な打診の意思が揺らぐことはないこと。

 ただし、シャロン嬢を傷つける形にならないよう、伝え方を子爵夫妻と相談したいこと。


 そこまで読んで、セドリックは口を開いた。


「父上、一文だけ加えてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「シャロン嬢が便利だから望んでいるという趣旨の噂が出ているなら、それは明確に違うと」


 ギルバートは少し考え、頷いた。


「入れろ」


 セドリックは筆を取った。


 ――セドリック本人の意思として、シャロン嬢を家の都合や便利さのために望んでいるのではないことを、改めて明確にお伝えいたします。


 書いた後、まだ足りない気がした。


 だが、公式文としてはこれ以上感情を乗せすぎない方がよい。


 その分は、正式な打診の場で言う。


 シャロン嬢本人の前で。


 夜、自室に戻ったセドリックは、机の前に座った。


 シャロン嬢へ直接手紙を書きたい気持ちがあった。


 だが、今は書かない。


 彼女がまだ知らされていないかもしれない噂を、こちらから先に投げるわけにはいかない。

 それは、彼女の意思を尊重しているようでいて、実際には準備も余白も奪うことになる。


 セドリックは便箋を出しかけ、手を止めた。


「……急ぐな」


 自分に言い聞かせる。


 だが、曖昧にもしない。


 明日、ベルフォール家に文が届く。

 エドモンド様とマリエル様が受け取る。

 その上で、どう動くかを決める。


 正式な打診は止めない。


 噂に押されて急ぐのではなく、噂に怯えて引くのでもなく。


 シャロン嬢が自分の言葉で前へ進みたいと言ってくれた、その事実を中心に置く。


 セドリックは机の上に置いた確認表を見た。


 社交。

 面会。

 住まい。

 嬉しい時間。

 未確認事項。


 そこへ、新しく一行を足した。


 噂への対応。


 その横に、少しだけ強く書き込む。


 シャロン嬢を、条件で語らせない。


 書いてから、セドリックはしばらくその文字を見つめていた。


 未確認の噂は、減点では済みません。


 人の痛みを知りながら、そこを利用するなら。


 こちらも、静かに、しかしはっきりと立たなければならない。


 明日から、ただの平和な確認だけでは済まない。


 けれど、それでも進む。


 セドリックは確認表を閉じ、静かに息を吐いた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

正式な婚約打診へ進む直前、シャロンの傷を突くような噂が動き始めました。

セドリックたちは感情のまま動かず、けれど決して見過ごさない形で向き合っていきます。

次回もよろしくお願いします。

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