第78話 検査ではないので、帳面は置いていきます
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側で、王都屋敷への招待を受け、実際に訪問へ向かうお話です。
検査ではなく確認として、シャロンが新しい場所へ足を踏み入れます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル伯爵家から正式な招待が届いたのは、昼前のことだった。
父の書斎に呼ばれた私は、母と並んで席についた。
机の上には、封を切られたばかりの招待状が置かれている。
王都屋敷への招待。
そう聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ固くなった。
いずれ見ることになるかもしれない場所。
婚姻後の暮らしに関わるかもしれない場所。
けれど、まだ私にとっては何も知らない場所。
父は招待状を手に取り、要点を伝えた。
「グランフェル伯爵家より、王都屋敷を短時間見てほしいとのことだ。暮らしに関わる場所を確認するためで、決定ではないと明記されている」
「決定ではない」
私は小さく繰り返した。
「ああ。さらに、無理にすべてを見る必要はなく、途中で休むことも、そこで終えることもできる、とある」
その言葉に、少し驚いた。
招かれた以上、案内される場所はすべて見なければならない。
礼儀として、疲れても最後まできちんと受ける。
そう思っていた。
けれど、最初から「途中で終えてもよい」と示されている。
逃げ道ではない。
息をするための余白だ。
母が柔らかく微笑んだ。
「よく考えてくださっているわね」
「はい」
父も頷いた。
「見る場所は、玄関、応接室、小サロン、庭への道が中心らしい。必要があれば食堂も少し。範囲を絞るとのことだ」
「……本当に検査ではないのですね」
「そうだな」
父の口元がわずかに緩む。
「だから、帳面は置いていきなさい」
「まだ持っていくとは言っておりません」
「顔に出ていた」
「……そんなに出ていましたか」
「出ていた」
母まで静かに頷いた。
私は少しだけ視線を逸らす。
正直に言えば、持っていこうか迷っていた。
小さな帳面なら目立たない。
気になる点を書き留めれば、後で整理しやすい。
けれど、それを始めたら本当に検査になる。
「帳面は置いていきます」
「それがよい」
父は満足そうに頷いた。
「ただし、気になったことを覚えておくなとは言わない」
「よろしいのですか」
「見るために行くのだからな。ただ、判定するためではない」
その違いは大きい。
見る。
感じる。
気になるところに、心の中で印をつける。
けれど、その場で点数をつけない。
「……わかりました」
私は頷いた。
「検査ではなく、確認として見ます」
「それでよい」
話を終えて小サロンへ向かうと、リディアとフローラが待ち構えていた。
「お姉様!」
リディアが立ち上がる。
「王都屋敷へ行くのですよね?」
「情報が早いわね」
「お母様が書斎に向かわれた時点で、何かあると思いました」
「あなたも観察力が伸びているわ」
「家族ですので」
便利な言葉だ。
フローラは落ち着いて本を閉じた。
「同行者は、お父様とお母様とお姉様ですか」
「ええ。今回はその三人」
「そうですか」
一瞬だけ、フローラの目が静かに沈んだ。
けれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「主目的が、お姉様の住まいの確認であるなら妥当です」
「納得が早いわね」
「書庫は次の機会で構いません」
「やっぱり書庫のことは考えていたのね」
「当然です」
リディアが少し身を乗り出した。
「私も行きたかったです。王都屋敷、絶対に素敵ですもの」
「遊びではないわ」
「わかっています。でも、お姉様がどんな場所を見るのか気になります」
「帰ってから話すわ」
「全部ですか?」
「検査ではないから、全部は見ないわ」
「お姉様がその言葉を言うと、少し安心します」
「どういう意味?」
リディアはにこりと笑っただけだった。
フローラが静かに言う。
「帳面は持っていかない方がいいと思います」
「もう言われたわ」
「お父様に?」
「ええ」
「では、私は補足しません」
「すでに補足しているわ」
フローラは少しだけ残念そうに見えた。
もしかすると、帳面を持たないよう注意するつもりで待っていたのかもしれない。
「フローラ」
「はい」
「書庫については、今回は確認しないわよ」
「はい」
「地図棚も」
「はい」
「本当に?」
「お姉様が見かけた場合は、存在の有無だけでも」
「フローラ」
「主目的ではありません」
「その言い方は抜け道を探しているわね」
リディアが笑い出した。
「フローラ、今回は我慢よ」
「わかっています」
「顔がわかっていないわ」
「リディアお姉様ほどではありません」
「私は行きたい顔を隠していないもの」
「それは強いです」
「褒められた?」
「半分くらいは」
いつものやり取りに、緊張が少しほぐれた。
その日の午後、母と一緒に当日の衣装を選んだ。
正式すぎる夜会用のドレスでは重い。
かといって、ただの訪問着では軽すぎる。
母は淡い青灰色のドレスを選び、私の前に広げた。
「これくらいがよいと思うわ」
「濃い青ではなく?」
「今回は正式な席ではなく、確認のための訪問でしょう。少し柔らかい色の方がいいわ」
「柔らかい色」
「あなた自身も、少し呼吸しやすいでしょう?」
確かに、濃い青は背筋が伸びる。
正式な席には合っていた。
けれど今回は、知らない場所を歩く日だ。
少し柔らかい色の方が、足が動く気がした。
「では、これにします」
「ええ」
母は飾りを選びながら、さりげなく言った。
「当日は、疲れたら言いなさいね」
「はい」
「全部見たいと思っても、途中で止めてもいいのよ」
「……私が全部見たいと思う前提なのですね」
「違うの?」
「否定しづらいです」
母は小さく笑った。
「確認は、一度で終わらせなくてもいいの。何度かに分けてもいいのよ」
「はい」
「それから、気に入らない場所があっても言っていいのよ」
その言葉に、私は少し手を止めた。
「気に入らない場所」
「ええ。すべてを良いと言わなくてもいいの」
「……招いていただくのに?」
「だからこそ、丁寧に言えばよいの。好きな場所だけでなく、苦手な場所を知ることも確認でしょう」
母の声は穏やかだった。
私はゆっくり頷く。
気に入らないと言う。
苦手だと認める。
それは、思っていたより難しい。
でも、言ってよいのだと先に知っているだけで、少し楽だった。
訪問当日。
馬車に乗り込む前、リディアとフローラが玄関まで見送りに来た。
「お姉様、無理に全部見ないでくださいね」
「ええ」
「でも、庭への道は見てきてください」
「それは見る予定よ」
「あと、小サロンの雰囲気も」
「ええ」
フローラが静かに言う。
「書庫は」
「今回は見ません」
「存在の気配だけでも」
「フローラ」
「はい。言ってみただけです」
「本当に?」
「半分くらいは」
私は少し笑ってしまった。
「帰ったら、見た範囲で話すわ」
「はい」
「検査報告ではなく、感想として」
フローラは少し考えてから頷いた。
「わかりました。感想として受け取ります」
「今、少し残念そうだったわね」
「気のせいです」
リディアが私の顔を覗き込む。
「お姉様、緊張していますか?」
「しているわ」
「でも?」
私は少しだけ息を吸った。
「嫌ではないわ」
そう言うと、リディアは嬉しそうに笑った。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
馬車が走り出すと、見慣れたベルフォール家の門が遠ざかっていく。
父は向かいに座り、母は隣にいる。
私は膝の上で指を軽く重ね、窓の外を見た。
王都屋敷。
グランフェル家の、もう一つの場所。
セドリック様が騎士団の務めを終えて戻る場所。
アメリア様やエミリア様が王都で過ごす場所。
ノエル様が地図棚の位置を気にした場所。
そして、もしかしたら、いつか私が暮らすかもしれない場所。
そう考えると、胸が少し重くなる。
けれど、同時に思う。
今日は決めに行くのではない。
見るために行く。
確認するために行く。
帳面は置いてきた。
けれど、心の中に印をつける準備はしている。
「シャロン」
父が声をかけた。
「はい」
「到着してすぐに疲れたと思ったら、言いなさい」
「さすがに到着してすぐには」
「可能性の話だ」
「……はい」
母が微笑む。
「今日は、あなたがどれだけきちんと見られるかを試す日ではないわ」
「はい」
「息ができる場所かどうかを見る日よ」
息ができる場所。
その言葉を胸の中で繰り返す。
馬車は王都の通りを進み、やがて落ち着いた一角へ入った。
大きな屋敷が並ぶ通り。
門の紋章を見て、父が静かに言った。
「着いたな」
グランフェル家の王都屋敷は、想像していたよりも落ち着いた佇まいだった。
大きい。
けれど、威圧するような派手さはない。
門をくぐると、庭木の向こうに玄関が見える。
馬車が止まり、従者が扉を開けた。
降り立った瞬間、玄関扉の前に立つセドリック様と目が合った。
礼装ではあるが、正式な席の時より少し柔らかい装いだった。
彼は一礼する。
「ようこそお越しくださいました」
父と母が挨拶を返す。
私は少し遅れて礼を取った。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、来てくださりありがとうございます」
セドリック様は私を見て、少しだけ声を和らげた。
「今日は、検査ではありませんので」
私は思わず瞬いた。
「最初にそれを言うのですか」
「最初に言った方がよいと思いました」
「……的確です」
父が横で小さく咳払いをした。
母は微笑んでいる。
私は少し恥ずかしくなりながらも、肩の力が抜けるのを感じた。
玄関扉が開かれる。
中に入ると、高い天井と磨かれた床が目に入った。
広い。
最初にそう思った。
足音が少し響く。
それだけで、背筋が伸びそうになる。
けれど、玄関の奥にアメリア様が立っていて、柔らかく微笑んでくださった。
「ようこそ、シャロン嬢。今日はどうぞ、全部を見ようとなさらないでくださいね」
「……はい」
「まずは、少しずつ。疲れたら、その時点で終わりにしましょう」
その言葉に、私は静かに息を吐いた。
ここは、検査会場ではない。
そう言い聞かせる。
セドリック様が一歩横へ引き、廊下の先を示した。
「まずは応接室へご案内します。その後、小サロンへ。庭への道は、そこから見ていただけます」
庭への道。
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
知らない屋敷の中にも、外へ抜ける道がある。
私は頷いた。
「よろしくお願いいたします」
歩き出す前に、セドリック様が少しだけこちらを見た。
大丈夫ですか、と聞かれている気がした。
私は小さく頷く。
大丈夫、と言い切るほどではない。
けれど、今は歩ける。
帳面はない。
採点もしない。
ただ、自分の息のしやすさを確かめるために。
私は父母と並び、グランフェル家の王都屋敷の中へ足を踏み入れた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
王都屋敷へ向かう準備を経て、シャロンはいよいよグランフェル家のもう一つの場所へ入りました。
次回は、実際に屋敷の中を歩きながら、シャロンが何を感じるのかを描いていきます。
次回もよろしくお願いします。




