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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第61話 怖いと言ってくださったなら、置いていきません

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はグランフェル家側のお話です。

シャロンの「怖いけれど進みたい」という言葉を、セドリックがどう受け取るかの回です。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

 シャロン嬢からの手紙を読んだセドリックは、しばらく便箋を机の上に置けなかった。


 正式な返書を、父君と共に読んだこと。

 グランフェル伯爵家が彼女の意思を尊重すると知り、ありがたく思っていること。


 そこまでは、丁寧で落ち着いた文章だった。


 だが、次の数行で、セドリックは胸の奥を静かに掴まれた。


 ――正直に申しますと、正式に進むと聞いて少し怖くなりました。

 ――前の婚約のことを思い出したからです。

 ――ですが、セドリック様が「私の気持ちを置いていかない形で」と書いてくださったことで、少し安心しました。


 怖くなった。


 その一文を、セドリックは何度も読み返した。


 シャロン嬢が、自分の怖さを書いてくれた。


 それは決して小さなことではない。


 彼女は強い。

 けれど、強いから傷つかないわけではない。


 むしろ、強くあろうとしてきた分だけ、怖いと言うことは難しかったはずだ。


 正式な縁談。

 家同士の話。

 条件と釣り合い。


 その言葉が、彼女の古い傷に触れたのだろう。


 セドリックは、前の婚約のすべてを知っているわけではない。

 だが、シャロン嬢が跡継ぎでなくなった後に婚約を解かれたことは知っている。


 それが、彼女に何を残したのか。


 手紙の数行だけでも、十分に伝わった。


「……怖いと言ってくださったなら」


 セドリックは小さく呟いた。


 ならば、こちらがするべきことは決まっている。


 怖がらなくていい、と簡単に言うことではない。


 怖さをなかったことにしない。

 それを持ったままでも進めるように、隣にいる。


 急がず。

 けれど、曖昧にせず。


 置いていかない。


「兄様」


 扉の外からエミリアの声がした。


「今、入ってもよろしいですか?」


「ああ」


 入ってきたエミリアは、セドリックの表情を見てすぐに足を止めた。


「……重いお返事でしたか」


「重いというより、大切な返事だった」


 セドリックは便箋を丁寧に畳んだ。


「シャロン嬢は、正式に話が進むことを嬉しいと思ってくださっている。だが、少し怖くもなったそうだ」


 エミリアの表情から、いつもの軽やかさが消えた。


「前のご婚約のことですか?」


「ああ」


「……そうですよね」


 エミリアは静かに目を伏せた。


「家同士の話は、どうしても重くなりますもの。シャロン様にとっては、なおさら」


「だから、焦らない」


 セドリックは言った。


「だが、不安だからといって曖昧にもしない。怖いと言ってくださったなら、その怖さごと受け取る」


 エミリアは少しだけ微笑んだ。


「兄様らしいです」


「そうか」


「はい。少し重くて、でも誠実です」


「重いか」


「少し」


 容赦のない妹だった。


 だが、エミリアはすぐに続ける。


「でも、シャロン様には必要な重さだと思います。軽く扱われたくない方ですから」


「そうだな」


 その通りだ。


 軽く慰めることはできない。

 気にしなくていいと言えば、彼女はきっと余計に傷つく。


 気にしてよい。

 怖くてよい。

 それでも、こちらは逃げない。


 そう伝えたかった。


 小サロンへ向かうと、父ギルバートと母アメリアが揃っていた。

 ノエルは雨の日用の記録表を、今度こそ簡潔な形に直している。


 セドリックは父母へ、シャロン嬢からの手紙の内容を伝えた。


 彼女が正式に進むことを嬉しく思いながらも、前の婚約を思い出して怖くなったこと。

 それでも、前向きに進みたい気持ちは変わらないと書いてくれたこと。


 アメリアは胸元に手を当て、静かに目を伏せた。


「よく書いてくださいましたね」


「はい」


「怖いと書くのは、とても勇気がいることよ」


 母の声は柔らかかった。


 ギルバートはしばらく黙っていたが、やがて短く言った。


「こちらの態度を誤るな」


「はい」


「安心させようとして、約束できないことを言うな」


「心得ています」


「だが、約束できることは言え」


 セドリックは父を見た。


 ギルバートの目は静かだった。


「家同士の話は条件を含む。それは消せない。だが、条件だけで扱わないことは約束できる」


「はい」


「本人の意思を確認し続けることもできる」


「はい」


「なら、それを書け」


 父らしい助言だった。


 短く、実務的で、そして誠実だった。


 アメリアがそっと微笑む。


「それから、セドリック。シャロン嬢が怖いと書いてくださったからといって、あなたまで怖がりすぎて距離を取らないこと」


「……距離を」


「大切にしたいあまりに、一歩下がりすぎることがあるでしょう?」


 セドリックは言葉に詰まった。


 否定できない。


 エミリアが小さく頷いている。


「兄様は、踏み込みすぎないように気をつけすぎる時があります」


「お前まで」


「事実ですので」


 どこかで聞いたような言い方だった。


 おそらく、フローラ嬢の影響を受けている。


「待つことと、遠ざかることは違うわ」


 アメリアが言った。


「シャロン嬢が怖いと書いてくださったなら、怖さを抱えたままでもこちらに来られるように、手を差し出しておくの。無理に引っ張らず、でも見えない場所へ隠さずに」


 セドリックは静かに頷いた。


「はい」


「それが、あなたの加減よ」


 加減。


 またその言葉だ。


 最近、自分はその言葉ばかり考えている気がする。


 ノエルが控えめに手を上げた。


「兄上」


「何だ」


「シャロン嬢は、私の言葉も褒めてくださったのでしょうか」


 一瞬、空気が柔らかくなった。


 セドリックは手紙の追伸を思い出し、少し笑った。


「ああ。『早すぎない範囲で嬉しい』という表現は、とても良いと」


 ノエルの顔が少し赤くなった。


「そうですか」


「それから、リディア嬢は再審査という言葉に強く反応しているそうだ」


 エミリアが明るく笑った。


「やはり」


「公平性を証明するために再審査が必要だと主張しているらしい」


「リディア様らしいです」


 アメリアも楽しそうに微笑んだ。


「なら、次にいらっしゃる時には、きちんと候補を用意しなくてはね」


「母上」


「もちろん、審査員買収にならない範囲で」


 セドリックは少しだけ眉を下げた。


「その範囲が難しいです」


「あなたは甘いものが絡むと真面目すぎます」


「普段も真面目です」


「知っています」


 母の返事に、小サロンに笑いが広がった。


 重かった空気が、少しだけほどける。


 セドリックはその空気の中で、改めて思った。


 怖さを話しても、笑える時間はなくならない。


 重い話をしても、焼き菓子の話はできる。


 その両方を、一緒に持てる関係でありたい。


 夜、自室に戻ったセドリックは、便箋を広げた。


 書き出しで、しばらく迷う。


 怖かったと書いてくれた相手に、どう返すべきか。


 軽くしすぎず、重くしすぎず。


 けれど、逃げずに。


 セドリックは筆を取った。


 ――お手紙をありがとうございました。

 ――正式に話が進むことについて、嬉しさだけでなく怖さもあると書いてくださったことを、大切に受け取りました。


 一度、筆を止める。


 大切に受け取る。


 その言葉は、何度も使っている。

 けれど、今はこれ以外にない。


 続けた。


 ――怖がらなくてよい、と簡単に申し上げるつもりはありません。

 ――シャロン嬢がそう感じられたことには、きっと理由があるのだと思います。

 ――ですから、その怖さをなかったことにはせず、けれどその怖さだけで決めることにもならないよう、ひとつずつ確かめながら進めていければと思っております。


 少し長い。


 だが、削れなかった。


 ――家同士の話である以上、条件や手順がなくなることはありません。

 ――それでも、私はシャロン嬢を条件だけで見たくありません。

 ――そして、そう扱われないよう、私自身も気をつけ続けます。


 胸の奥が静かに熱くなる。


 これは、約束だ。


 できないことは言わない。

 だが、気をつけ続けることはできる。


 ――もし途中で怖くなったり、立ち止まりたくなったりした時は、どうかそのままお知らせください。

 ――急かさないよう努めます。

 ――ただし、遠くへ下がりすぎないようにも努めます。


 書いてから、少し苦笑した。


 母に言われたことが、そのまま滲んでいる。


 しかし、これは必要な言葉だと思った。


 ――置いていかない形で、という私の言葉を少し安心だと受け取ってくださったことが、私にはとても嬉しかったです。

 ――その言葉を、今後も軽く扱わないようにいたします。


 次に、ノエルのことを書く。


 ――ノエルは、シャロン嬢に表現を褒めていただいたことを、早すぎない範囲で大変喜んでおります。

 ――雨の日用の記録表は、地図に印をつける形で落ち着きそうです。

 ――増やしすぎない、という教訓は、本人にも私にも必要だったようです。


 そして、追伸。


 少し迷ったが、やはり焼き菓子のことは外せなかった。


 ――リディア嬢の再審査へのご反応、承知しました。

 ――公平性を証明するための再審査という論理には、こちらでも慎重な検討が必要だと判断しております。

 ――なお、母はすでに候補を用意する気でおります。


 書き終えると、自然に息が抜けた。


 怖いと言ってくださったなら、置いていきません。


 その一文を手紙にそのまま書くことはしなかった。


 けれど、文面のすべてに、その気持ちを込めたつもりだった。


 封を閉じる前、セドリックはもう一度便箋を読み返す。


 重すぎないだろうか。

 踏み込みすぎていないだろうか。

 逆に、下がりすぎていないだろうか。


 答えはすぐには出ない。


 だが、これもまた加減なのだろう。


 セドリックは丁寧に封を閉じた。


 彼女が怖さを言葉にしてくれたことを、軽くしないために。


 そして、その怖さの向こう側にある前向きな気持ちを、確かに信じるために。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

セドリックも、怖さを消すのではなく一緒に持つ形を選びました。

重い話の中でも、焼き菓子の再審査はしっかり進みそうです。

次回もよろしくお願いします。

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