第60話 正式な返書は、少し重くて温かいです
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側のお話です。
正式な返書を受け取り、シャロンが嬉しさと怖さの両方を言葉にします。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル伯爵家から正式な返書が届いたのは、よく晴れた午後のことだった。
父宛ての封書と、私宛ての手紙。
その二つが同じ盆の上に載せられているのを見た瞬間、私は自然と背筋を伸ばした。
いつもの手紙とは違う。
セドリック様から私への手紙は、これまで何度も受け取ってきた。
蜂蜜の焼き菓子の王座がどうとか、ノエル様の記録表がどうとか、ハイレン領の庭がどうとか。
もちろん、どれも大切だ。
けれど、父宛ての正式な封書が並んでいると、急に現実の重さが増す。
縁談が進む。
その言葉が、頭の中で静かに形を取った。
「シャロン」
父が私を見る。
「一緒に聞くか」
「はい」
私は頷いた。
小サロンには、母とリディア、フローラもいた。
レオンは母の隣で、侍女に支えられながら木の小さな玩具を握っている。
父は封を切り、グランフェル伯爵からの返書に目を通した。
小サロンが静かになる。
紙をめくる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……グランフェル伯爵家としても、この縁談を前向きに進めたいとのことだ」
父の声は落ち着いていた。
けれど、その言葉が胸に落ちた瞬間、私は息を止めた。
「シャロン本人の意思を尊重し、急がせることなく、両家で今後の進め方を相談したい、とある」
母がそっと目を伏せる。
リディアは両手を胸の前で握っていた。
フローラは静かにこちらを見ている。
「また、ハイレン領訪問への礼も丁寧に記されている。娘たちを迎えられたことを、グランフェル家として嬉しく思っているそうだ」
「……そう、ですか」
私はようやく声を出した。
嬉しい。
嬉しいはずだ。
私自身が、前向きに進めたいと言った。
セドリック様も、同じ気持ちだと伝えてくださった。
なのに、胸の奥が少しだけ冷える。
正式。
家同士。
縁談。
その言葉が並ぶと、どうしても前の婚約を思い出してしまう。
条件が合ったから結ばれて。
条件が変わったから、解かれた。
あれは恋ではなかった。
だから失恋ではない。
けれど、自分の価値が書類の上で測られ、そして不要になったような感覚は、まだ消えていなかった。
「お姉様?」
リディアが心配そうに私を見た。
私はすぐに首を振る。
「大丈夫よ」
そう言ってから、少しだけ止まる。
大丈夫。
また、いつもの言葉が出た。
父が静かに私を見ている。
「シャロン」
「はい」
「大丈夫で済ませなくてもいい」
その一言で、喉の奥が詰まった。
母が柔らかく続ける。
「嬉しいことでも、怖くなることはあるわ」
「……はい」
私は膝の上で指を組んだ。
「嬉しいです。本当に」
声にすると、少し震えた。
「でも、正式に進むと聞くと……少し、怖くなりました」
リディアが泣きそうな顔になる。
フローラは何も言わない。
母は私の言葉を急かさず、父も待ってくれている。
「前の婚約のことを、思い出しました」
言ってしまうと、胸が痛んだ。
「条件が変わったら、関係も変わるのではないかと。私自身ではなく、私に付いているものだけを見られるのではないかと。そういうことを、考えたくないのに考えました」
小サロンは静かだった。
レオンだけが、玩具を握ったまま「あう」と小さく声を出す。
その声が、少しだけ私を現実に戻した。
父はしばらく黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「前の婚約は、我々にも責任がある」
「お父様」
「お前が跡継ぎであることを前提に進めた話だった。その前提が崩れた時、相手の家がどう動くかまで、十分に見ていなかった」
父の声は静かだったが、重かった。
「すまなかった」
謝罪の言葉に、私は目を見開いた。
父が、私に頭を下げるようなことではない。
そう言おうとして、言葉が出なかった。
母がそっと私の手に触れる。
「私たちも、あなたなら大丈夫だと思いすぎていたの」
「……」
「でも、今回は違う形にしたいの。家の話であることは変わらないわ。けれど、あなたの気持ちを置いていくつもりはないのよ」
置いていかない。
また、その言葉に近いものが胸に届く。
セドリック様も、父も、母も。
少しずつ、同じ場所へ私を戻してくれる。
「シャロン」
父が言った。
「この話は、家同士で進める。だが、お前が嫌だと言えば止める」
「……はい」
「不安があれば言いなさい。条件ではなく、お前自身の話として聞く」
私は唇を引き結んだ。
泣くほどではない。
けれど、胸の奥が熱くなる。
「ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
リディアがとうとう目元を押さえた。
「リディア」
「泣いていません」
「泣きそうではあるでしょう」
「それは否定できません」
フローラが静かに言う。
「今回は、リディアお姉様が泣きそうになるのも仕方ありません」
「あなた、最近そればかりね」
「事実ですので」
小さな笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
私は深く息を吐き、それから自分宛ての手紙を手に取った。
セドリック様の封蝋。
見慣れた字。
父宛ての正式な返書の後に読むには、少し心臓に悪い。
けれど、今は読みたかった。
封を切ると、丁寧な文字が目に入る。
――ベルフォール子爵様に、私との話を前向きに進めたいとお答えくださったこと、深く、嬉しく拝読しました。
私はゆっくり読み進めた。
――虚偽申告ではないとのことですので、こちらも正式に、そして真面目に受け取ります。
――私も、シャロン嬢とのお話を前向きに進めたいと、父母へ伝えました。
胸がまた熱くなる。
正式に。
真面目に。
けれど、先ほど感じた冷たさとは違う。
これは、条件だけの重さではない。
私が差し出した言葉を、セドリック様が同じだけの重さで受け取ってくださったのだ。
さらに読み進める。
――とはいえ、急がせたいわけではありません。
――シャロン嬢のお気持ちを置いていかない形で、ひとつずつ進めていければと思っております。
私は便箋を持つ手に、少し力を込めた。
置いていかない。
手紙の中にも、同じ言葉があった。
偶然かもしれない。
けれど、今の私には十分だった。
「お姉様」
リディアが小声で尋ねる。
「大丈夫ですか」
私は少しだけ考えた。
そして、今度は正直に答える。
「少し怖いわ」
リディアの目が揺れる。
「でも、嬉しい」
そう言うと、リディアは泣きそうなまま笑った。
「はい」
私は手紙の続きを読んだ。
次にハイレン領へ行く機会があれば、朝の庭や昼過ぎの市を一緒に見たいこと。
確認事項があっても構わないこと。
その合間に、また少しだけ何も決めずに歩ける時間があれば嬉しいこと。
ノエル様が、早すぎない範囲で嬉しく思っていること。
そこまで読んで、私は少し笑ってしまった。
「ノエル様らしいわ」
「何と?」
フローラが尋ねる。
「早すぎない範囲で嬉しく思っているそうよ」
「良い表現ですね」
「ええ。とても」
追伸には、当然のように焼き菓子のことが書かれていた。
――リディア嬢の審査員としての姿勢が評価されているとのこと、安心しました。
――公平性に疑問が残る場合は、次回、複数の候補を並べて再審査をお願いする必要がありそうです。
リディアの顔が真剣になる。
「再審査…!」
「反応が早いわ」
「審査員ですので」
「公平性に疑問が残る場合と書かれているわよ」
「では、公平性を証明するためにも再審査が必要です」
「都合よく解釈したわね」
母が笑い、父もほんの少し口元を緩めた。
その日の夜、私は自室で返事を書いた。
父宛ての正式な返書は、父が改めて出す。
けれど、私も自分の言葉を返したかった。
――正式な返書を、父と共に拝見しました。
――グランフェル伯爵家が私の意思を尊重してくださると知り、ありがたく思っております。
少し硬い。
けれど、今日は硬い言葉も必要だ。
続ける。
――正直に申しますと、正式に進むと聞いて少し怖くなりました。
――前の婚約のことを思い出したからです。
――ですが、セドリック様が「私の気持ちを置いていかない形で」と書いてくださったことで、少し安心しました。
筆が止まる。
ここまで書くのは、かなり勇気がいる。
けれど、消さなかった。
セドリック様は、私の「虚偽申告ではない」を正式に受け取ってくださった。
なら、私も自分の怖さを少しだけ渡してもいいのかもしれない。
――嬉しいことでも怖くなるのだと、今日知りました。
――それでも、前向きに進みたいという気持ちは変わっておりません。
――これも虚偽申告ではありません。
書き終えて、息を吐く。
かなり、正直だ。
最後に少しだけ軽いことを書く。
――ノエル様の「早すぎない範囲で嬉しい」という表現は、とても良いと思いました。
――リディアは再審査という言葉に強く反応しております。
――公平性を証明するために再審査が必要だと申しておりますが、主張にはやや疑問があります。
封をする前に、私はもう一度読み返した。
正式な返書は、少し重い。
けれど、その重さの中には、温かさもあった。
条件だけではない。
役目だけでもない。
私の気持ちを、置いていかないと言ってくれる人たちがいる。
それなら、この重さを少しずつ受け取っていけるかもしれない。
私は丁寧に便箋を折った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
正式に進むからこそ、シャロンの古い傷も少し顔を出しました。
それでも「置いていかない」と言ってくれる相手がいることで、少しずつ受け取れるようになっています。
次回もよろしくお願いします。




