第58話 真面目に信じられると、逃げ道がなくなります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側のお話です。
セドリックからの返事を受けて、シャロンが自分の意思を父に伝えます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
セドリック様からの返事が届いた日、私は小サロンで雨の日用の記録案を眺めていた。
ノエル様が作る予定の別紙について、こちらでも簡単に考えておこうと思ったのだ。
地図に印をつける。
停滞場所だけを残す。
理由がわかれば短く書く。
すべてを書かせようとしない。
それだけで十分なはずなのに、気づけば私は余白に細かな注意を書き足そうとしていた。
「……危ないわね」
思わず呟く。
「何がですか?」
リディアが長椅子から顔を上げた。
「項目を増やしすぎないように、と言いながら、自分が増やしそうになっていたの」
「お姉様らしいです」
「褒めている?」
「半分くらいは」
「最近、半分という返しが増えていない?」
「便利なので」
リディアはにこにこと笑った。
窓辺では、フローラが静かに手紙を読んでいる。
エミリア様からの二通目だ。
文通そのものは、もう隠されていない。
父も母も、グランフェル家の令嬢とフローラが本や地図の話を交わしていることを歓迎している。
けれど、フローラの表情を見るたびに、私は少しだけ引っかかる。
ただの本の話にしては、妙に大切そうなのだ。
「フローラ」
「はい」
「エミリア様からは、今度は何を?」
「『北方街道記』の補足と、橋梁修繕覚書の写しについてです」
「また橋なのね」
「橋は大事です」
「それは否定しないわ」
フローラは便箋を丁寧に畳み直した。
その手つきが、いつもより少しだけ慎重だった。
「ほかには?」
私が尋ねると、フローラは一拍置いて答えた。
「必要なことは書かれていました」
「必要なこと」
「はい」
怪しい。
とても怪しい。
けれど、追及するほど悪い気配ではない。
むしろ、楽しそうなのだ。
フローラなりに、かなり。
「そう。よかったわね」
「はい」
フローラは静かに頷いた。
そこへ侍女が入ってきた。
「シャロンお嬢様、グランフェル伯爵家よりお手紙でございます」
盆の上には、私宛ての封筒が載っていた。
私は封を受け取り、少しだけ息を整える。
もう何度も見ている封蝋。
もう何度も読んでいる筆跡。
それなのに、封を切る前はいつも少し緊張する。
リディアがこちらを見ている。
フローラも、手紙を膝に置いてこちらへ視線を向けた。
「見すぎよ」
「見守っています」
「同じことよ」
私はそう言いながら、封を切った。
手紙には、まず私の言葉への返事が書かれていた。
また伺えたら嬉しい、という言葉を撤回しないと書いたこと。
それを嬉しく読んだこと。
そして。
――では、私はそのお言葉を真面目に信じ続けます。
私は便箋を持ったまま、固まった。
真面目に信じ続けます。
続ける、という言葉がずるい。
その場で信じるだけではない。
その日だけ大切にするのでもない。
この先も、持っていてくれるということだ。
私が勢いで書いたわけではないと。
照れて後で撤回するような言葉ではないと。
セドリック様は、真面目に信じると言う。
逃げ道がない。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
「お姉様」
リディアが小声で呼ぶ。
「何?」
「今、かなり何か届いた顔をしていました」
「顔で読まないで」
「読めてしまいます」
「あなたの観察眼も、フローラ寄りになってきていない?」
「よい傾向です」
フローラが静かに言った。
「あなたが言わないで」
私は咳払いをして、続きを読んだ。
次にハイレン領のこと。
次に訪れる機会があれば、今回見られなかった朝の庭や、昼過ぎの市も案内したいこと。
確認事項としてだけでなく、ただ見る時間としても。
その一文に、胸が少し温かくなる。
昼過ぎの市。
確認したいことは確かにある。
布商人の通りの人の流れ。
食料品の通りとの交差。
焼き菓子店の前の滞留が時間帯でどう変わるか。
けれど、セドリック様はそれだけではないと言う。
ただ見る時間としても。
私はその言葉を、もう少し素直に受け取れるようになっている気がした。
「セドリック様、次は朝の庭や昼過ぎの市も案内したいと書いてくださっているわ」
「次があるのですね!」
リディアが明るく言った。
「まだ決まってはいないわ」
「でも、お姉様はまた行きたいのでしょう?」
私はすぐには答えなかった。
以前なら、まず家同士の都合や日程、訪問の理由を並べたはずだ。
けれど今、最初に浮かんだ答えは違う。
「……ええ」
小さく頷く。
「また行きたいわ」
言ってから、少し顔が熱くなった。
リディアの表情がぱっと明るくなる。
フローラは静かに目を細めた。
「お姉様が素直です」
「今のは追及しない約束でしょう」
「そんな約束はしていません」
「今からしなさい」
「努力します」
「努力が必要なのね」
母が小サロンへ入ってきたのは、その時だった。
「何の努力かしら」
「お姉様を追及しすぎない努力です」
リディアが正直に答える。
母は一瞬だけ目を瞬き、それから笑った。
「それは少し必要かもしれないわね」
「お母様まで」
私は肩を落とした。
母は私の手元の便箋を見て、穏やかに尋ねる。
「セドリック様から?」
「はい」
「よいお返事だったのね」
「……はい」
私は便箋をそっと畳んだ。
「とても」
その言葉を口にすると、母の表情が柔らかくなった。
その後、私は手紙の残りを読み上げられる範囲で家族に伝えた。
ノエル様が雨の日用の別紙を作り直していること。
最初は項目を増やしすぎたが、地図に印を残す程度へ整え始めたこと。
無理なく続ける視点を学んでいること。
「良い方向ね」
母が言う。
「はい。ノエル様は、自分で増やしすぎに気づかれたようです」
「それは大事だ」
父の声がした。
いつの間にか、小サロンの入口に立っていた。
「お父様」
「市の報告書を見に来たのだが、手紙が届いていたのか」
「はい」
父は私の向かいに座った。
「ハイレン領の市については、明日一度整理しよう。今日は手紙の返事が先か?」
「いえ、市の整理も進められます」
「急がなくてよい」
父は静かに言った。
「だが、逃げなくてもよい」
私は言葉に詰まった。
父の言葉は、時々まっすぐすぎる。
「……はい」
「シャロン」
「はい」
「この縁談を、どう思っている」
小サロンの空気が、少しだけ変わった。
リディアが口を閉じる。
フローラも便箋を膝に置いたまま静かになった。
母は何も言わず、私を見ている。
この問いは、いつか来ると思っていた。
最初のお見合いの時とは違う。
手紙を重ね、家族と会い、ハイレン領を訪れ、また来たいとまで言った後の問いだ。
もう、条件だけでは答えられない。
けれど、条件を無視する話でもない。
グランフェル伯爵家は誠実な家だ。
セドリック様は跡継ぎで、私は子爵家の元跡継ぎ令嬢。
家同士の釣り合いも、今後の立場も、考えるべきことは多い。
それでも。
「進めたいと、思っています」
私は言った。
声は少し小さかったが、震えてはいなかった。
「セドリック様とのお話を、前向きに進めたいです」
言ってしまった。
リディアが息を飲む音がした。
フローラは静かにこちらを見ている。
母の目元が柔らかく緩んだ。
父はしばらく黙っていた。
「理由を聞いてもよいか」
「はい」
私は便箋を膝の上で握りすぎないよう、そっと置いた。
「セドリック様は、私に役に立つことだけを求めません。けれど、私が考えることや、見てきたものを軽くも扱いません」
言葉を一つずつ選ぶ。
「私が急いで答えを出そうとすると、止めてくださいます。でも、考えること自体をやめさせようとはなさいません」
父の目が静かに私を見ている。
「それから」
少しだけ息を吸う。
「私が、ただ楽しかったと言える時間をくださいました」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
「私はまだ、全部が上手ではありません。甘えることも、楽しむことも、役目ではない自分でいることも。でも……セドリック様の隣なら、少しずつ試してみたいと思っています」
小サロンは静かだった。
けれど、冷たい静けさではなかった。
父は長く黙った後、ゆっくり頷いた。
「わかった」
たった一言。
けれど、その一言で、私は少し息がしやすくなった。
「お前の意思は受け取った。グランフェル伯爵家とも、今後の話を進める」
「はい」
「ただし、急がない」
「はい」
「お前自身の気持ちを置いていかない形で進める」
その言葉に、胸が詰まった。
置いていかない。
セドリック様だけでなく、父も今、その言葉に近いものをくれた。
「ありがとうございます」
そう答えると、母がそっと私の手に触れた。
「よく言えたわね」
「……はい」
リディアは目を潤ませながら笑っていた。
「お姉様、とても素敵でした」
「そこで泣きそうにならないで」
「無理です」
「努力しなさい」
「これは努力では止まりません」
フローラが静かに言う。
「お姉様が自分の意思を言ったのですから、リディアお姉様が泣きそうになるのも仕方ありません」
「あなたまで」
「私も少し嬉しいです」
フローラは淡々と言った。
けれど、その言葉は本物だった。
夜、自室で、私はセドリック様への返事を書いた。
まずは、手紙への礼。
――真面目に信じ続けると書かれて、少し逃げ道がなくなった気がしました。
――ですが、逃げたいとは思いませんでした。
書いてから、一度筆を止める。
かなり正直だ。
でも、続けた。
――また伺いたいという気持ちは、今も変わっておりません。
――朝の庭も、昼過ぎの市も、確認事項としてだけではなく、ただ見る時間として見てみたいです。
ノエル様の件も書く。
――雨の日の別紙は、地図に印を残す形で十分だと思います。
――ノエル様がご自分で増やしすぎに気づかれたことが、とても良いことだと感じました。
――続けられる記録は、続けたいと思える形であることが大事です。
そして、少し迷った末に、父との会話のことも書いた。
全部を書くわけではない。
けれど、隠したくはなかった。
――本日、父からこの縁談をどう思っているかと尋ねられました。
――私は、セドリック様とのお話を前向きに進めたいと答えました。
――書いていて少し恥ずかしいですが、これは虚偽申告ではありません。
書いた瞬間、顔が熱くなった。
これはもう、手紙というより申告書ではないか。
でも、消さない。
最後に追伸を書く。
――リディアの中立性については、姉としても疑問があります。
――ただし、本人は非常に真剣ですので、審査員としての姿勢だけは評価できます。
封をする前に、私はもう一度文面を読み返した。
真面目に信じられると、逃げ道がなくなります。
けれど、今の私は。
その逃げ道のなさを、少しだけ安心だと思い始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンが「縁談を前向きに進めたい」と、自分の言葉で言えました。
少しずつですが、確実に前へ進んでいます。
次回もよろしくお願いします。




