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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第57話 撤回しないと言われたので、信じるしかありません

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はグランフェル家側のお話です。

シャロンからの返事を受けて、セドリックもノエルもエミリアも、それぞれ少しずつ前へ進みます。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

 シャロン嬢からの返事を読んだセドリックは、小書斎でしばらく動けなかった。


 机の上には、ノエルが作り始めた雨の日用の記録表案が置かれている。

 その横には、ハイレン領の市の配置図。

 さらに、焼き菓子店周辺の人の流れについて書いた覚え書き。


 確認すべきものは多い。


 けれど、今のセドリックの意識は、便箋の一文に奪われていた。


 ――また来たいという言葉を真面目に信じてくださると書いていただき、少し困りました。

 ――ですが、撤回するつもりはありません。

 ――本当に、また伺えたら嬉しいと思っております。


「……撤回するつもりはありません」


 声に出すと、胸の奥がじわりと熱くなった。


 シャロン嬢らしい言い方だ。


 少し困った。

 けれど、撤回しない。


 照れや戸惑いを隠しきれないまま、それでも言葉を引っ込めずにいてくれる。


 それが、どれほど大きいことか。


 セドリックにはわかっていた。


 彼女は簡単に自分の気持ちを断言しない。

 嬉しい、楽しい、安心した。

 そのどれも、慎重に選ばれた言葉だ。


 だからこそ、撤回しないと言われたら。


 信じるしかない。


「兄上」


 扉の外から、ノエルの声がした。


「入ってもよろしいでしょうか」


「ああ」


 入ってきたノエルは、数枚の紙を持っていた。

 顔は真剣だが、どこか少しだけ困っている。


「雨の日の別紙を作ってみたのですが」


「見せてくれ」


 差し出された紙を受け取り、セドリックは目を通した。


 天候。

 降り始めの時刻。

 雨量。

 水溜まりの位置。

 荷車の停滞場所。

 停滞した荷の種類。

 人の流れ。

 通行人の回避方向。

 地面の状態。

 備考。


 項目が多い。


「ノエル」


「はい」


「かなり増えたな」


「……はい」


 ノエルは視線を落とした。


「雨の日だけなら、細かくてもよいかと思ったのですが、書いているうちに増えました」


「増えることはある」


「ですが、これでは記録する方が大変です」


 自分で気づいている。


 セドリックはそこに少し安心した。


「シャロン嬢からも、その件についてお言葉があった」


 ノエルはすぐに顔を上げる。


「何と?」


「雨の日の別紙の案は良い。ただし、最初から細かくしすぎず、雨の日に目立った停滞場所を簡単に印で残す程度でも十分だろう、と」


 ノエルは紙へ視線を落とした。


「印で残す程度」


「ああ」


「……その方が、続けやすいですね」


「そうだな」


「私はまた、詰め込みすぎるところでした」


「気づけたなら十分だ」


 ノエルは少し考え、紙の端に新しい案を書き始めた。


 雨の日用。

 地図に印。

 停滞場所。

 理由がわかれば短く。

 無理に全部書かない。


 さきほどより、ずっと簡潔だ。


「こちらの方がよいと思いますね」


「私もそう思う」


「シャロン嬢に、また見ていただけるでしょうか」


 ノエルは言ってから、少し慌てたように続けた。


「もちろん、押しつけるつもりではありません。ただ、形が整ったら……」


「その時は、手紙で相談してみよう」


「はい」


 ノエルの返事には、以前よりも前向きな力があった。


 そこへ、エミリアが軽やかに小書斎へ入ってきた。


「兄様、ノエル。今よろしいですか」


「ああ」


「フローラ様から、お返事が来ました」


 エミリアの手には、小さな封筒があった。


 セドリックは目を細める。


「フローラ嬢から直接か」


「はい。先日の書庫のお話に関するお返事です」


「シャロン嬢もご存じなのか」


「文通すること自体は、ご存じだと思います」


 エミリアはにこりと微笑んだ。


「フローラ様が、私からの手紙を嬉しく受け取ってくださったそうです」


「それはよかった」


「はい。とても」


 あまりにも嬉しそうだった。


 セドリックは妹を見る。


「それで、何が書かれていた」


「『西辺境紀行』について、まず四点ほど」


「四点」


「三点だけと書かれていたのですが、四点ありました」


 エミリアは、なぜか誇らしそうだった。


「よかったな」


「はい」


「本当に気が合うのだな」


「はい」


 エミリアは迷わず頷いた。


 その顔は、ただ同年代の令嬢と交流できて嬉しいというだけではない。


 自分の興味を、そのまま受け取ってくれる相手を見つけた顔だった。


 それは良いことだ。


 だが、セドリックは少しだけ引っかかった。


「エミリア」


「はい」


「何か隠していないか」


「本の話をしております」


「それは知っている」


「地図と橋の話もしております」


「それも予想できる」


「では、必要な報告は以上です」


 またその言い方だ。


 必要な報告。


 セドリックは妹を見た。


 エミリアは淑やかに微笑んでいる。


 悪いことをしている顔ではない。

 けれど、何かを大切にしまっている顔ではある。


「……無礼のないようにな」


「もちろんです」


「フローラ嬢に負担をかけないように」


「はい」


「長文になりすぎないように」


 エミリアは少しだけ視線を逸らした。


「努力します」


「努力が必要なのか」


「文通ですので」


 書庫と同じ調子で言われた。


 セドリックは小さく息を吐いた。


「ほどほどに」


「はい。ほどほどに四点までにします」


「もう四点なのか」


「フローラ様も四点でしたので」


 基準がおかしい。


 だが、エミリアはとても楽しそうだった。


 その日の夕方、小サロンで家族が集まった時、アメリアはエミリアの手元の便箋を見て微笑んだ。


「フローラ嬢へのお返事?」


「はい、母上」


「もうずいぶん親しくなったのね」


「本の話ですので」


「便利な言葉ね」


 アメリアは楽しそうに笑った。


 ギルバートはノエルの雨の日用の記録表案を見ていた。


「簡潔になったな」


「はい。最初は項目を増やしすぎました」


「気づいたならよい」


「シャロン嬢からも、細かくしすぎない方がよいと」


「よい助言だ」


 ギルバートは頷いた。


「続く記録でなければ意味がない」


「はい」


 ノエルはしっかり頷いた。


 セドリックはその様子を見ながら、シャロン嬢の手紙を思い出していた。


 ノエルが無理なく続けられる形が、最も良い記録になる。


 それはノエルだけの話ではない。


 シャロン嬢自身も、きっと少しずつ覚えているのだろう。


 無理なく続けること。

 答えを急がないこと。

 ただ歩く時間を、すぐ役目に変えないこと。


 それを一緒に覚えていけるのなら。


 セドリックは、それが嬉しかった。


「セドリック」


 母に呼ばれ、顔を上げる。


「はい」


「シャロン嬢からの手紙には、何と?」


 家族の視線が集まる。


 すべてを読むわけにはいかない。

 だが、伝えてよい部分はある。


「またハイレン領へ来たいという言葉は、撤回しないと」


 言った瞬間、エミリアがぱっと笑った。


 アメリアは柔らかく目を細める。


 ギルバートも、静かに頷いた。


「そうか」


「はい」


「なら、次もきちんと迎えられるようにしておけ」


「はい」


「ただし、急ぐな」


「心得ています」


 父の言葉は短い。


 だが、今のセドリックには十分だった。


 夜、自室に戻ったセドリックは、シャロン嬢への返事を書いた。


 まずは、手紙への礼。


 ――また伺えたら嬉しい、というお言葉を撤回しないと書いてくださったことを、嬉しく拝読しました。

 ――では、私はそのお言葉を真面目に信じ続けます。


 書いてから、少しだけ手を止める。


 少し強いだろうか。


 だが、シャロン嬢が撤回しないと言ってくれた。

 なら、自分も曖昧に逃げたくなかった。


 続ける。


 ――次にお越しいただける時には、今回見られなかった朝の庭や、昼過ぎの市もご案内できればと思っております。

 ――もちろん、確認事項としてだけでなく、ただ見る時間としても。


 ノエルのことも添える。


 ――ノエルは、雨の日用の別紙をさっそく作り直しております。

 ――最初は項目を増やしすぎておりましたが、シャロン嬢のお言葉を受けて、地図に印を残す程度の形へ整え始めました。

 ――無理なく続ける、という視点を学んでいるようです。


 そして、エミリアのこと。


 ――エミリアは、フローラ嬢からのお手紙を大変喜んでおります。

 ――本と地図と橋の話で、ずいぶん楽しそうにしております。

 ――妹同士もよい時間を重ねているようで、私も嬉しく思います。


 静かな協定のことは、セドリックは知らない。


 だから、これでよい。


 追伸を書く前に、少しだけ笑みがこぼれた。


 ――蜂蜜の焼き菓子の情勢については、リディア嬢の中立性に疑問があるとのご報告、承知しました。

 ――こちらも、審査員買収と疑われないよう慎重に臣下候補を育成いたします。


 書き終えて、セドリックは封を閉じた。


 一方その頃、エミリアは自室でフローラへの返事を書いていた。


 机の上には、フローラからの手紙。

 『西辺境紀行』の気づきが四点。

 しかも四点目の横には、小さく「必要事項です」と書かれていた。


 エミリアはそれを見て、思わず笑った。


 静かな協定は、順調に育っている。


 文通そのものは、兄様もシャロン様も知っている。

 けれど、この手紙がただの本の感想以上のものになりつつあることは、まだ知らなくていい。


 エミリアは筆を取り、最後に小さく書き添えた。


 ――静かな協定、第二通目です。

 ――なお、兄様は少し気づきかけていますが、必要な報告は済ませています。


 書いてから、少し考える。


 フローラ様なら、きっとこの意味を正確に受け取ってくれる。


 エミリアは満足そうに頷き、便箋を丁寧に折った。


 撤回しないと言われたので、信じるしかありません。


 兄も妹も、それぞれ別の手紙を前に、似たような温かさを胸に抱えていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

文通そのものは知られていても、エミリアとフローラの静かな協定はまだ内緒です。

セドリックはシャロンの「撤回しない」を真面目に信じることにしたようです。

次回もよろしくお願いします。

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