第54話 楽しかったと、帰ってから言えました
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家へ帰ってきた後のお話です。
シャロンが父母に「楽しかった」と言えるところまで、少しずつ変わってきました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ベルフォール家の屋敷が見えた時、私は思っていたよりもほっとした。
ハイレン領で過ごした一泊二日は、決して長い時間ではない。
けれど、見たものが多すぎた。
グランフェル家の落ち着いた屋敷。
庭の小道。
書庫の古い地図。
朝の市。
井戸の横の空き樽。
焼き菓子店の香り。
ノエル様の記録表。
そして、セドリック様の隣で歩いた時間。
それらが頭の中で重なり合い、まだ整理しきれていない。
けれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
「お姉様」
向かいに座るリディアが、窓の外を見ながら言った。
「帰ってきましたね」
「ええ」
「楽しかったですね」
あまりにもまっすぐに言うので、私は少し返事に詰まった。
すると、隣のフローラが静かに続ける。
「はい。かなり」
「フローラは書庫でしょう?」
「書庫です」
「迷いがないわね」
「ありません」
フローラは膝の上に置いた本をそっと撫でた。
グランフェル家から借りたものではない。
自分で持っていった本だ。
だが、その表情は明らかに、グランフェル家の書庫に何かを置いてきたような顔をしている。
「フローラ」
「はい」
「書庫で何かあった?」
「本の話をしました」
「それは知っているわ」
「地図の話もしました」
「それも聞いたわ」
「橋の話もしました」
「それも聞いた気がするわ」
「では、だいたい報告済みです」
妙な言い方だった。
だいたい。
私は少し目を細めたが、フローラは涼しい顔をしている。
追及しても、今はきっとかわされる。
それに、悪いことを隠している顔ではない。
むしろ、大切なものを胸にしまっている顔だ。
私は小さく息を吐いた。
「節度は守ったのね?」
「はい」
「本当に?」
「少なくとも、夜に書庫へ忍び込んではいません」
「比較対象がおかしいわ」
リディアが笑った。
馬車が屋敷の前で止まると、父と母が玄関前で待っていた。
侍女に抱かれたレオンもいる。
レオンは私たちを見るなり、小さな手をぱたぱた動かした。
「ただいま戻りました」
私たちは三人揃って礼を取った。
父は静かに頷き、母は柔らかく微笑んだ。
「おかえりなさい。疲れたでしょう」
「はい。少し」
私が答えると、母の目がほんの少し丸くなった。
以前の私なら、まず大丈夫ですと答えただろう。
そう思うと、少しだけ照れくさくなる。
父は私たちを一人ずつ見た。
「大きな問題はなかったか」
「ありませんでした。グランフェル家の皆様に、とても丁寧に迎えていただきました」
「そうか」
父の声は落ち着いていたが、どこか安堵が混じっていた。
レオンが「あー」と声を上げる。
私は近づいて、その小さな手に指を差し出した。
レオンはすぐに握ってくる。
「ただいま、レオン」
「あー」
「返事としては良い方ね」
リディアが笑う。
母が私たちを小サロンへ促した。
「まずはお茶にしましょう。話は座ってから聞かせてちょうだい」
小サロンに入ると、いつもの空気に包まれた。
見慣れた窓。
見慣れた茶器。
見慣れた椅子。
それなのに、少し違って見える。
ハイレン領を見て帰ってきたからだろうか。
それとも、私の中で何かが少し変わったからだろうか。
母が茶を注ぎ、父が向かいに腰を下ろした。
「それで」
父が静かに言う。
「ハイレン領はどうだった」
その問いに、私は一瞬、答えを探した。
市の構造。
荷車の流れ。
井戸周辺の問題。
記録表の改善点。
雨の日の別紙。
時間帯別の追加記録。
報告すべきことはたくさんある。
けれど、最初に出てきた言葉は違った。
「楽しかったです」
言ってから、自分で驚いた。
小サロンが静かになる。
リディアが嬉しそうに笑った。
フローラは少しだけ目を細めた。
母は、泣きそうなほど柔らかい顔をしている。
父はしばらく黙っていた。
「そうか」
やがて、静かにそう言った。
「楽しかったか」
「はい」
私は頷いた。
「市を見るのも、庭を歩くのも、夕食も、焼き菓子も……全部、楽しかったです」
「焼き菓子も入るのね」
リディアが胸を張る。
「重要事項です」
「あなたは少し黙って」
「はい」
母がくすりと笑った。
父の表情も、ほんの少し緩んだように見えた。
「報告は、後でよい」
父が言った。
「今日はまず、旅の疲れを取れ」
「ですが、市については忘れないうちに」
「覚え書きはあるのだろう?」
「あります」
「なら、明日でよい」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
グランフェル家でも、同じように言われた。
答えを急がなくていい。
持ち帰っていい。
今、父にもそう言われている。
「……はい」
私は頷いた。
「明日、整理します」
「それでいい」
父は短く答えた。
母がリディアとフローラを見る。
「二人はどうだったの?」
「とても楽しかったです!」
リディアの返事は早かった。
「グランフェル家の皆様はとても優しくて、アメリア様のお話も楽しくて、エミリア様も素敵で、あと焼き菓子の臣下候補がかなり優秀でした」
「最後が一番詳しそうね」
「詳しく報告できます」
「後で聞きましょう」
母は笑いながら言った。
次にフローラが口を開く。
「書庫が素晴らしかったです」
「でしょうね」
私とリディアの声が重なった。
フローラは少しだけ不満そうにこちらを見る。
「本当に素晴らしかったのです。旅行記だけでなく、領地史や橋梁修繕の覚書まで整理されていました」
「橋梁修繕」
父が少し反応した。
「それは興味深いな」
「はい。古地図と合わせると、街道の変化がよくわかります」
「後で詳しく聞かせなさい」
「はい」
フローラの目が静かに輝いた。
これは父とフローラで、後ほどかなり渋い会話が始まるに違いない。
私はお茶を飲みながら、少しだけ肩の力を抜いた。
帰ってきた。
けれど、ただ元に戻ったわけではない。
ハイレン領で見たものを、私は持って帰ってきた。
答えにする前の仮説も。
楽しかったという気持ちも。
また来たいと思ったことも。
その日の夜、自室へ戻った私は、机の前に座った。
本当なら、今日は早く休むべきだ。
わかっている。
けれど、どうしても少しだけ書きたかった。
セドリック様への礼状だ。
正式な礼は父からも送られる。
けれど、私自身の言葉も伝えたい。
私は便箋を広げ、ゆっくり筆を取った。
――この度は、ハイレン領へお招きいただき、ありがとうございました。
――グランフェル家の皆様に温かく迎えていただき、妹たちも大変楽しく過ごしたようです。
まずは礼。
そこまでは、簡単に書ける。
次に、市のこと。
――市については、いくつか確認事項を持ち帰りました。
――すぐに結論にせず、ノエル様の記録表と照らし合わせながら、改めて整理したいと思います。
――ノエル様の記録は、やはり良いものだと感じました。
ここまでも、まだ書ける。
問題は、その先だった。
私は少し迷い、ハイレン領の庭を思い出す。
夕方の光。
隣を歩くセドリック様。
楽しかったと言った時の、彼の顔。
また来たいです、と言った自分の声。
私は息を吐き、続けた。
――市も、庭も、焼き菓子も、どれも楽しかったです。
――ただ歩く練習はまだ上手ではありませんが、セドリック様が隣にいてくださったので、少しだけできた気がします。
書いてから、顔が熱くなった。
かなり素直だ。
けれど、もう消したいとは思わなかった。
さらに、少しだけ付け足す。
――また来たいと申し上げたことは、虚偽申告ではありません。
――本当に、そう思いました。
ここまで書いて、私は筆を止めた。
これは、完全に言い逃れできない。
でも、いい。
セドリック様になら、伝えてもいいと思えた。
追伸には、いつものように少しだけ軽いことを書く。
――蜂蜜の焼き菓子の臣下候補について、リディアは帰りの馬車でも評価を続けていました。
――現時点では、王座側にかなり有利な情勢です。
書き終えると、自然に笑ってしまった。
旅の疲れはある。
けれど、胸の奥は不思議と温かい。
楽しかったと、帰ってから言えました。
父にも、母にも。
そして、手紙の中でセドリック様にも。
それは私にとって、思っていたよりも大きなことだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ハイレン領で過ごした時間は、シャロンにとって大事なものになったようです。
フローラの書庫での余韻も、少し怪しいですね。
次回もよろしくお願いします。




