第53話 また来たいと言われた場所で
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はグランフェル家側のお話です。
シャロンたちを見送った後、セドリックたちが訪問の余韻を受け取ります。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ベルフォール家の馬車が門を出ていくのを、セドリックは玄関前で見送っていた。
車輪の音が、石畳の上をゆっくり遠ざかっていく。
馬車の窓から、リディア嬢が明るく手を振っていた。
その隣でフローラ嬢が静かに会釈をし、最後にシャロン嬢がこちらを見た。
ほんのわずかな時間だった。
けれど、確かに目が合った。
シャロン嬢は小さく頭を下げた。
その表情は、来た時よりも少し柔らかかった。
セドリックも礼を返す。
馬車が角を曲がり、見えなくなる。
それでもしばらく、セドリックはその場を動けなかった。
「兄様」
隣からエミリアの声がした。
「馬車はもう見えません」
「わかっている」
「本当に?」
「……わかっている」
エミリアが少し笑った。
母アメリアも、穏やかな顔で門の方を見ている。
父ギルバートはいつも通り静かだが、どこか満足そうだった。
ノエルは少し離れた場所で、記録表の束を抱えている。
訪問は終わった。
正式な挨拶。
庭の案内。
書庫。
夕食。
蜂蜜の焼き菓子。
市の確認。
どれも滞りなく終わったはずだ。
だが、セドリックの胸に一番強く残っているのは、庭で言われた一言だった。
――また、来たいです。
シャロン嬢が、そう言った。
ハイレン領に。
自分が生まれ育った場所に。
ただ役に立つためだけではなく、楽しかった場所として。
また来たい、と。
「よかったわね、セドリック」
アメリアが柔らかく言った。
「はい」
セドリックは素直に頷いた。
「とても」
「素直ね」
「隠せそうにありませんので」
「賢明だわ」
母は楽しそうに微笑んだ。
ギルバートが静かに口を開く。
「良い訪問だった」
「はい」
「ベルフォール嬢は、よく見ていた。だが、見すぎて疲れきる前に止まれていた」
セドリックは少しだけ息を吐いた。
そこは、自分も気にしていたところだ。
「セドリック」
「はい」
「お前の加減も悪くなかった」
父からそう言われるとは思わず、セドリックは一瞬言葉に詰まった。
「ありがとうございます」
「ただし、まだ少し見すぎだ」
「……私がですか」
「そうだ」
エミリアが口元を押さえた。
アメリアは微笑んでいる。
ノエルは聞こえないふりをしているが、耳は聞いている。
「気をつけます」
「気をつけすぎるな。余計に不自然になる」
「難しいですね」
「難しいだろうな」
父は淡々と言った。
その言い方があまりに父らしくて、セドリックは少しだけ笑った。
小サロンへ戻ると、使用人たちが茶器を片づけているところだった。
卓には、昨日の蜂蜜の焼き菓子の皿がまだ残っている。
リディア嬢が臣下候補として高く評価した菓子は、ほとんど残っていなかった。
「リディア様、とても楽しそうでしたね」
エミリアが言った。
「ああ」
「焼き菓子にあれほど真剣な評価をされる方は、初めて見ました」
「シャロン嬢の妹君らしい真面目さだった」
「方向は違いますけれど」
「確かに」
二人で少し笑う。
その後、エミリアはふと書庫の方へ視線を向けた。
「フローラ様も、楽しんでくださったでしょうか」
「かなり楽しんでいたように見えた」
「そうでしょうか」
「ああ。橋梁修繕覚書を持ち出されて、シャロン嬢が少し困っていた」
エミリアは嬉しそうに笑った。
「それは、かなり楽しんでくださった証拠です」
「そうなのか」
「はい」
エミリアの表情は明るい。
だが、何かを大事に隠しているようにも見えた。
「エミリア」
「はい」
「何かあったか」
「書庫で、ですか?」
「ああ」
「本のお話をしました」
「それは知っている」
「では、地図と橋の話もしました」
「それも聞いた」
「なら、それだけです」
にこり、と妹は微笑んだ。
あまりにも綺麗な笑みだった。
セドリックは少し目を細める。
「本当に?」
「兄様」
「何だ」
「必要な報告はしております」
その言い方に、セドリックはかすかな引っかかりを覚えた。
必要な報告。
つまり、必要ではない報告があるのではないか。
だが、今ここで追及するほどのことでもない。
エミリアの顔は楽しそうで、悪いことを隠しているようには見えなかった。
「そうか」
「はい」
エミリアは満足そうに頷いた。
いずれ何か出てくるかもしれない。
そう思いながらも、セドリックは今は見逃すことにした。
ノエルは、少し離れた席で記録表を見直していた。
「ノエル」
セドリックが呼ぶと、弟は顔を上げた。
「はい」
「疲れていないか」
「少し疲れました」
「正直でよろしい」
「シャロン嬢にも、無理に役立とうとしなくていいと言われましたので」
ノエルはそう言ってから、少しだけ照れたように目を伏せた。
「でも、役に立ったとも言っていただきました」
「ああ」
「不思議です。役に立たなければと思うより、役に立ったと言われた後の方が、もっと続けたいと思いました」
セドリックは弟の言葉を静かに受け取った。
それは、とても大事な気づきのように思えた。
「良いことだ」
「はい」
「記録表は、続けられそうか」
「続けたいです」
今度は、はっきりした返事だった。
ギルバートもその言葉を聞いていたらしく、静かに頷いた。
「なら、管理人と話しなさい。雨の日の別紙、混む時間帯の追加記録。無理なく使える形に整える」
「はい、父上」
ノエルの声には、緊張よりも前向きさがあった。
それだけでも、今回の訪問には意味があったのだと思う。
夕方、セドリックはひとりで庭へ出た。
昨日、シャロン嬢と歩いた小道。
今日、帰る前に彼女が「また来たい」と言った場所。
夕方の光は昨日と同じようで、少し違って見えた。
彼女が歩いたからだろうか。
彼女が綺麗だと言い、落ち着くと言い、楽しかったと言ってくれたからだろうか。
ハイレン領は、セドリックにとって大切な場所だった。
だが今日からは、少しだけ意味が増えた気がする。
シャロン嬢がまた来たいと言ってくれた場所。
そう思うと、この庭も、市も、屋敷の古い地図も、昨日までより少し温かく感じられた。
「兄様」
エミリアが庭の入口に立っていた。
「また見ているのですか」
「何をだ」
「シャロン様が歩かれた庭です」
「……そう見えるか」
「はい」
エミリアは少し笑った。
「でも、良いと思います」
「そうか」
「兄様も、また来ていただきたいのでしょう?」
「ああ」
セドリックは迷わず答えた。
「また来ていただきたい」
口にすると、胸の奥が穏やかに熱くなる。
「その時は、フローラ様もご一緒だと嬉しいです」
「書庫か」
「書庫です」
エミリアは真面目な顔で頷いた。
その顔を見て、セドリックは少しだけ笑った。
「リディア嬢も来れば、焼き菓子の陣営もまた動くだろうな」
「大事ですね」
「ああ。大事だ」
以前の自分なら、こんな会話を真面目にするとは思わなかった。
けれど今は、それも悪くない。
夜、自室に戻ったセドリックは、机の上に便箋を置いた。
すぐに手紙を書くには、少し早いかもしれない。
シャロン嬢たちは、まだ帰路の途中かもしれないのだから。
それでも、書きたい言葉はもう胸の中にあった。
来てくださって嬉しかったこと。
市を一緒に見られてよかったこと。
ノエルが前向きになったこと。
エミリアがフローラ嬢との書庫の時間を大切にしていること。
リディア嬢の焼き菓子評が、家族の間でしばらく語られそうなこと。
そして。
また来たい、と言ってくださったことが、何より嬉しかったこと。
セドリックはまだ筆を取らず、窓の外を見た。
夜の庭は静かだった。
また来たいと言われた場所で。
自分は次に、彼女をどう迎えたいのだろう。
急がず。
けれど、置いていかずに。
その答えもまた、すぐに決めず、少し大切に持っておきたいと思った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンの「また来たい」は、セドリックにしっかり残ったようです。
ノエルも、自分の記録を続けたいと思えるようになりました。
次回もよろしくお願いします。




