第52話 答えにする前に、持ち帰ります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は市を見た後の整理と、シャロンが少しだけ気持ちを言葉にするお話です。
答えを急がず持ち帰ることを、少しずつ覚えていきます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
市から屋敷へ戻る頃には、私は思っていたよりも疲れていた。
歩いた距離そのものは、そこまで長くない。
けれど、目に入るものが多すぎた。
南門から入る荷車。
広場の低い石畳。
井戸の横に置かれた空き樽。
食料品の通りと布商人の通り。
焼き菓子店の前で、香りに足を止める人々。
配置図の上では線だったものが、現実の人の動きとして見えた。
面白かった。
そして同時に、頭がかなり忙しかった。
「シャロン嬢」
屋敷の玄関前で馬車を降りた時、セドリック様が声をかけてくださった。
「お疲れではありませんか」
「少し疲れています」
今度は、反射で「大丈夫です」とは言わなかった。
セドリック様が、ほんの少し嬉しそうに見えた。
「では、まず休みましょう」
「ですが、忘れないうちに整理を」
「休んでからでも、整理はできます」
「忘れます」
「覚え書きはあります」
「抜けます」
「ノエルの記録もあります」
「……ありますね」
私は少し黙った。
確かに、ノエル様は今日の道中、必要なことを丁寧に書き留めていた。
私が口にした仮説も、リディアが焼き菓子店の香りに反応したことも、フローラが古い看板の位置を指摘したことも。
あの記録表は、今日かなり頼もしかった。
「ノエル様」
私が振り返ると、ノエル様は少し背筋を伸ばした。
「はい」
「今日の記録、後ほど一緒に見せていただいてもよろしいですか」
「もちろんです」
返事は早かった。
それから、少しだけ照れたように視線を落とす。
「役に立てたなら、よかったです」
「役に立ちました」
私ははっきり言った。
ノエル様の目が、わずかに大きくなる。
「特に、井戸の空き樽の記録と、雨の日の停滞場所の記録は重要です。あれがなければ、今日見たものを以前の状況とつなげにくかったと思います」
「そう、ですか」
「はい。良い記録です」
ノエル様はしばらく黙った。
そして、とても小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声は、昨日より少しだけ確かだった。
小サロンへ戻ると、アメリア様が温かい茶を用意してくださっていた。
「まずは座ってくださいな。市は見るだけでも疲れるでしょう」
「ありがとうございます」
私は素直に座った。
リディアは隣に腰を下ろすなり、深く息を吐いた。
「市、とても賑やかでしたね」
「あなたは焼き菓子店の前で一番賑やかだったわ」
「でも、あの香りは本当に人を止めていました」
「それは否定しないわ」
悔しいけれど、あれは確かに確認事項だった。
リディアは少し得意そうな顔をする。
フローラは静かに茶を飲みながら言った。
「古い看板の位置も、人の流れに関係しているかもしれません」
「あなたはよくあれに気づいたわね」
「文字が古かったので」
「理由があなたらしいわ」
エミリア様が嬉しそうに頷く。
「フローラ様は、古いものを見る目がとても鋭いです」
「エミリア様も、古地図の棚の説明が的確でした」
二人は一瞬、目を合わせた。
何か通じ合ったような顔だった。
私は少しだけ怪しいと思ったが、今は追及しないことにした。
茶を一口飲むと、少し肩の力が抜けた。
けれど、抜けた分だけ、今度は頭が動き始める。
私は机の上に紙を置き、今日見たことを整理しようとした。
「まず、南門から広場へ入る荷車の流れですが――」
「シャロン嬢」
セドリック様が静かに止めた。
「はい」
「今は、休憩中です」
「……ですが」
「忘れないための一行だけなら」
加減が上手い。
私は少しだけ息を吐き、紙に短く書いた。
南門、雨の日は別紙。
井戸、空き樽。
交差路、時間帯別。
焼き菓子、香りで滞留。
最後の一行を書いた瞬間、リディアが満足そうに頷いた。
「正式に入りましたね」
「あなたは少し静かに」
「はい」
静かにはなったが、嬉しそうだった。
その時、ギルバート様が小サロンへ入ってこられた。
私は立ち上がろうとしたが、ギルバート様が手で制した。
「そのままでよい。疲れているだろう」
「お気遣いありがとうございます」
「市はどうだった」
短い問いだった。
私は少し考えた。
以前なら、すぐに結論を出そうとしただろう。
問題点と改善案を並べ、できるだけ整った形で答えようとしたはずだ。
けれど今日は、少し違う。
「いくつか、確認したい点が見えました」
私は言った。
「ですが、今日見ただけで断定するのは早いと思います。雨の日や昼過ぎの流れも見なければ、答えにはできません」
ギルバート様は静かに頷いた。
「よい見方だ」
その短い言葉に、少し胸が軽くなる。
「ノエル様の記録表が、かなり役に立ちました」
私が続けると、ノエル様が驚いたようにこちらを見た。
ギルバート様の視線が、息子へ向く。
「そうか」
「はい。特に、何気ない備考が後から意味を持っています。必須項目を増やすより、備考欄の使い方を整える方向がよいかと」
「ノエル」
「はい」
「聞いたな」
「……はい」
「続けなさい」
それだけだった。
けれど、ノエル様にとっては十分だったのかもしれない。
彼は記録表を抱えたまま、しっかり頷いた。
「はい」
私はその横顔を見て、少しだけ嬉しくなった。
自分の言葉が、誰かの背を少し押せたのなら。
それは、役に立ったから嬉しいのではなく。
その人が自分の場所を見つける手伝いができたようで、嬉しかった。
「シャロン嬢」
ギルバート様が私を見る。
「詳しい話は、必要なら後日文書でもよい。今日は客人として過ごしなさい」
「はい」
「市を見る目はありがたい。だが、今日ここで答えを出す必要はない」
私は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
答えを出さなくていい。
その言葉が、今日は不思議と怖くなかった。
午後の時間は、思ったより穏やかに過ぎた。
リディアはアメリア様とエミリア様に、ハイレン領の菓子店について楽しそうに聞いている。
フローラはエミリア様と本の話をしていたが、先ほどから少し声が低い。
また何か静かな話をしている気がする。
後で聞いても、きっと「本の話です」と返ってくるのだろう。
それは間違いではないのだろうけれど。
夕方近く、帰りの支度が始まる前に、セドリック様が庭へ誘ってくださった。
「少しだけ、朝とは違う庭を見ませんか」
「確認事項なしで?」
「はい。今日はもう、答えにしない時間です」
私は小さく笑った。
「では、少しだけ」
庭の小道は、昨日とも朝とも違っていた。
夕方の光で、花の色が少し深く見える。
風も柔らかい。
私は隣を歩くセドリック様へ言った。
「今日は、忙しかったです」
「はい」
「疲れました」
「はい」
「でも」
言葉が喉で少し止まる。
それでも、言った。
「楽しかったです」
セドリック様が足を止めた。
私も少し遅れて立ち止まる。
彼は驚いたような、けれどとても嬉しそうな顔をしていた。
「そう言っていただけて、本当に嬉しいです」
「……大げさでは?」
「いいえ」
「少しは大げさです」
「では、少しだけ」
私は目を逸らした。
顔が熱くなる。
「市も、庭も、焼き菓子も」
私は小さく続けた。
「全部、楽しかったです」
言ってしまった。
かなり正直に。
セドリック様は、急かさなかった。
ただ、静かに隣にいてくれた。
「シャロン嬢」
「はい」
「また来ていただけますか」
胸が、どきりとした。
それは正式な招待の言葉ではなかった。
家同士の予定でも、領地の確認でもない。
ただ、また来てほしいという言葉だった。
私は少しだけ迷った。
けれど、今の答えはもう決まっている気がした。
「……はい」
小さく頷く。
「また、来たいです」
セドリック様の表情が、柔らかくほどけた。
その顔を見て、私は思う。
答えにする前に、持ち帰ります。
今日見た市のことも。
ノエル様の記録のことも。
この庭の夕方の光も。
そして、また来たいと思った自分の気持ちも。
急がず、けれど置いていかずに。
その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンが「楽しかった」「また来たい」と言えるところまで来ました。
ノエルも、自分の記録が役立った実感を少し得られたようです。
次回もよろしくお願いします。




