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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第51話 仮説は、朝の市で確かめます

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はハイレン領の市を実際に見るお話です。

シャロンの仮説とノエルの記録表が、少しずつ現地でつながっていきます。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

翌朝のハイレン領は、よく晴れていた。


 窓の外には、朝の光を受けた庭が静かに広がっている。

 昨日見た時よりも、花の色が少し柔らかく見えた。


 私は身支度を整えながら、窓辺で少しだけ立ち止まった。


 今日は市を見る。


 配置図の上で考えていたことを、実際の道と人の流れで確かめる日だ。


 気持ちが自然と仕事の方へ傾く。


 どこを見るべきか。

 何を確認するべきか。

 どの順番で歩けば効率がよいか。


 頭の中で確認事項が並び始めたところで、私はふと息を吐いた。


「……ただ歩く時間も」


 小さく呟く。


 今日は市を見る日だ。

 だから、考えることをやめる必要はない。


 けれど、すべてをすぐ答えにしなくてもいい。


 昨日、セドリック様が言ってくださったことを思い出す。


 見つけたまま、持っていてもいい。


 それはまだ難しい。

 けれど、少し試してみる価値はあると思った。


 朝食後、私たちは屋敷の玄関前に集まった。


 セドリック様は落ち着いた外套を羽織り、隣にはノエル様が記録表を抱えて立っている。

 ノエル様は昨日より少し表情が固い。


 だが、逃げてはいない。


「本日はよろしくお願いいたします」


 ノエル様が丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ。記録表を作られた方と一緒に市を見られるのは心強いです」


 私がそう言うと、ノエル様は一瞬目を見開き、それから小さく頷いた。


「できる範囲で、お役に立てれば」


「無理に役立とうとしなくて大丈夫ですよ」


 言ってから、少しだけ自分に返ってきた。


 無理に役立とうとしなくていい。


 自分で言った言葉なのに、なかなか重い。


 セドリック様が横で、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。


「シャロン嬢」


「何でしょう」


「今のお言葉、ご自分にも適用されますか」


「……減点対象です」


「質問がですか?」


「的確すぎる質問がです」


「承知しました」


 真面目に頷かれて、私は視線を逸らした。


 リディアはエミリア様と並び、すでに市への期待で目を輝かせている。

 フローラは静かにしているが、昨夜エミリア様に見せていただいた古地図の話をまだ考えている顔だった。


 屋敷から市までは、馬車で少し移動した後、歩いて向かうことになった。


 市が近づくにつれ、音が増える。


 車輪の音。

 人の声。

 荷を下ろす木箱の音。

 焼きたてのパンの香りと、煮込み料理の湯気。


 配置図で見た線が、少しずつ現実の場所になっていく。


「こちらが南門から入る荷車の通りです」


 セドリック様が示した。


「朝は、麦や野菜の荷が多く入ります」


 私は頷き、道幅と荷車の動きを見る。


 荷車は一列に進んでいる。

 だが、広場の手前で少し速度が落ちていた。


「ノエル様」


「はい」


「記録表で、雨の日に荷が止まった場所は、あちらでしたね」


 私が尋ねると、ノエル様はすぐに紙を開いた。


「はい。広場脇のこのあたりです。今日は晴れていますので水はありませんが、道の端が少し低くなっています」


「確かに」


 私は石畳の傾きを見る。


 乾いていても、低くなっている場所はわかる。

 雨の日なら、水が溜まりやすいだろう。


 そこへ荷車が止まれば、後ろが詰まる。


「雨の日に確認したい場所ですね」


 私が言うと、ノエル様が小さく頷いた。


「はい。晴れの日の記録だけでは、不十分でした」


「不十分というより、条件が違うのです」


 私は言った。


「晴れの日の記録には晴れの日の価値があります。雨の日には、また別の記録が必要になるだけです」


 ノエル様は少し驚いたように私を見た。


「別の記録」


「はい。すべてを一つの表に詰め込む必要はありません」


 ノエル様は紙へ視線を落とした。


「では、雨の日だけ別紙にして、溜まりやすい場所を印にする形でもよいでしょうか」


「良いと思います。毎日書かせるより、雨の日の観察だけ分けた方が負担も少ないでしょう」


「負担を増やしすぎない」


「重要です」


 ノエル様の表情が、少し明るくなった。


 セドリック様が静かに見守っている。


 その視線に気づいた私は、少しだけ咳払いをした。


「今のは、確認事項です」


「はい」


「答えを急いだわけではありません」


「承知しております」


「本当に?」


「本当に」


 そのやり取りを聞いていたリディアが、後ろで小さく笑った。


「お姉様、楽しそうですね」


「リディア」


「すみません、今は黙ります」


 黙る気配は薄い。


 次に向かったのは、井戸周辺だった。


 ここは朝から人が多かった。


 水を汲む者。

 店へ運ぶ者。

 煮込み料理の支度をする店主。

 買い物客。


 配置図で見た通り、井戸の周りに人の流れが集中している。


 さらに、井戸の横には空き樽が二つ置かれていた。


「……あれですね」


 フローラが静かに言った。


「空き樽」


「ええ」


 ノエル様が記録表を見る。


「以前の備考にもあります。井戸横、空き樽二つ。通行やや狭し」


「記録していて正解でしたね」


 私が言うと、ノエル様は少しだけ照れたように目を伏せた。


「ただ、見かけたことを書いただけです」


「見かけたことを書いておくのは、とても大事です。後で意味を持つことがありますから」


 そう言ってから、私は井戸の周囲を見る。


 樽そのものは大きくない。

 けれど、水を汲む人が身体を避けるたび、通りの中央へ出てしまう。

 そこへ料理店の客が並ぶと、道が細くなる。


「樽を少し奥へ寄せるだけでも、人の流れが変わるかもしれません」


 思わず言った。


 その瞬間、セドリック様がそっと声をかける。


「シャロン嬢」


「はい」


「今のは、答えでしょうか。仮説でしょうか」


 私は一度止まった。


 そして、井戸を見る。


「……仮説です」


「では、持っておきましょう」


「持っておく…」


「はい。今日すぐに動かすかどうかは、市の管理人にも確認してからで」


 私は小さく息を吐いた。


 止め方が、絶妙だった。


 強すぎない。

 けれど、確かに一度立ち止まらせてくれる。


「加減が上手ですね」


「努力しています」


「減点なしです」


「ありがとうございます」


 セドリック様が真面目に礼を言ったので、少し笑いそうになった。


 三つ目の確認場所は、布商人の通りと食料品の通りが交差する場所だった。


 午前の今は、食料品の客が多い。

 野菜、干し肉、穀物、焼きたてのパン。


 布商人の店はまだ本格的に客が増える前らしく、通りは比較的落ち着いていた。


「今の時間だけを見ると、そこまで混雑していませんね」


 私が言うと、ノエル様が頷く。


「はい。ですが、昼過ぎに布を見に来る方が増えると、違うかもしれません」


「時間帯を分けて見る必要がありますね」


「記録表も、午前と昼過ぎで分けた方がよさそうです」


「ただし、毎回細かくしすぎると負担が増えます」


「はい。混みやすい日だけ、追加記録にする形でしょうか」


「それが良さそうです」


 ノエル様は真剣に頷いた。


 昨日初めて会った時の緊張は、まだ残っている。

 けれど、市の話になると、少しずつ言葉が出てくるようだった。


 私はそれが嬉しかった。


 ふと、セドリック様が小さく言った。


「シャロン嬢」


「はい」


「少し歩きませんか。確認ではなく、ただ市を見る時間として」


 私は一瞬だけ迷った。


 まだ確認したいことはある。

 けれど、今すぐでなくてもいい。


「……はい」


 私たちは少しだけ列を離れ、市の通りをゆっくり歩いた。


 リディアはエミリア様と焼き菓子の店を見つけて目を輝かせている。

 フローラは古い看板の文字を読んでいる。

 ノエル様は記録表を抱えながらも、少しだけ周囲を見る余裕が出てきたようだった。


 私は、隣を歩くセドリック様を見上げる。


「難しいですね」


「ただ見ることですか」


「はい。でも昨日よりは、少しだけできている気がします」


「私もそう思います」


「採点が甘くありませんか」


「シャロン嬢限定ですので」


「不公平ですね」


「はい」


 悪びれない返事に、私は小さく笑った。


 その時、通りの奥から焼き菓子の甘い香りが流れてきた。


 リディアが振り返る。


「お姉様!」


「声が大きいわ」


「今の香りは確認事項です」


「違います」


 エミリア様が楽しそうに続ける。


「リディア様、あちらに昨日の臣下候補を作っている店があります」


「現地確認ですね」


「ええ」


「違います」


 私はもう一度言った。


 けれど、セドリック様が横で真面目に言う。


「市の人の流れを見るうえで、人気の店を確認することは意味があります」


「セドリック様」


「ただし、食べすぎは注意です」


「そこではありません」


 リディアはすでに嬉しそうだった。


 フローラまで、少しだけ口元を緩めている。


 私は諦めて息を吐いた。


「……確認は短時間です」


「はい!」


 リディアの返事は本日一番良かった。


 焼き菓子店の前には、確かに人が集まっていた。

 甘い香りに引かれて、客の足が少し止まる。

 そのせいで、通りの流れがゆるやかに滞っている。


 私はそれを見て、思わず言った。


「店の香りも、人の流れに影響するのですね」


「お姉様」


 リディアが満面の笑みで言う。


「焼き菓子も、立派な確認事項でしょう?」


「……今回は、認めます」


「勝ちました」


「何に?」


「わかりません!」


 小さな笑いが起きた。


 私はその空気の中で、ハイレン領の市を見渡した。


 まだ答えは出ていない。


 水が溜まる場所。

 井戸の空き樽。

 交差する通り。

 香りで人を止める焼き菓子店。


 確認すべきことは多い。


 けれど、今すぐすべてを整えなくてもいい。


 仮説は、朝の市で確かめます。


 そして確かめたものを、急いで答えにしすぎず、持って帰る。


 それが今日の私にできる、少し新しい見方なのかもしれなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

市を見ながら、シャロンもノエルもそれぞれ少し前へ進みました。

焼き菓子の香りも、立派な確認事項……かもしれません。

次回もよろしくお願いします。

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