第49話 書庫では、静かな協定が結ばれます
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は書庫でのエミリアとフローラのお話です。
本の話で距離を縮めた二人が、小さな約束を交わします。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル伯爵家の書庫に案内された瞬間、フローラは少しだけ息を止めた。
高い天井。
壁一面の書架。
磨かれた木の梯子。
古い革表紙の本と、整理された記録束。
華やかではない。
けれど、静かで、深くて、長い時間が積み重なっている場所だった。
「……素敵です」
思わず、声が出た。
エミリアは隣で嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけて嬉しいです。兄様には、長くなりすぎないようにと言われておりますので、今日は本当に少しだけ」
「少しだけ」
フローラはその言葉を繰り返した。
「はい。努力します」
「努力が必要なのですね」
「書庫ですので」
その返答に、フローラは思わず口元を緩めた。
「そのお気持ちは、よくわかります」
「わかってくださいますか!」
「はい」
二人は静かに頷き合った。
それだけで、どこか通じるものがあった。
エミリアはまず、旅行記の棚へ案内してくれた。
「こちらが、先日お話しした『北方街道記』です。写しですが、余白に祖父の代の書き込みがあります」
「書き込みがあるのですか」
フローラの目が動く。
「はい。道の状態や宿場の様子など、本文より実用的なことが書かれている箇所もあります」
「それは、かなり重要です」
「やはり」
エミリアは嬉しそうに本を開いた。
丁寧な字で書かれた本文の隅に、別の筆跡がある。
冬季通行難。
橋の補修必要。
水場まで馬で半刻。
宿場、麦粥は薄い。
最後の一文で、フローラは少し止まった。
「麦粥が薄い」
「祖父は食事の記録にも厳しかったようです」
「実用情報です」
「そう思います」
二人はまた頷き合った。
続いて、エミリアはハイレン領史の棚へ移った。
さらに、古い地図。
橋梁修繕の覚え書き。
騎士団の補給記録。
どれも、普通の令嬢同士の初めての書庫案内としては、少し渋い。
けれどフローラには、どれも面白かった。
「こちらは、十五年前の橋梁修繕覚書です」
「橋の場所が、さきほど玄関広間にあった古地図と対応していますね」
「気づかれましたか」
「はい。川沿いの街道が、今より少し北へ寄っています」
エミリアの目が輝いた。
「そうなのです。今の道は改修後のものですから、この記録を読むと、荷の流れが変わった理由が少しわかります」
「それは面白いです」
「ですよね」
声は控えめなのに、二人の間の熱だけは確実に上がっていた。
フローラは本の頁を見つめながら、ふと思った。
リディアお姉様なら、きっと途中で飽きる。
シャロンお姉様なら、興味を持つけれど、すぐに実務へ結びつけてしまう。
けれどエミリア様は、記録そのものを面白がっている。
それが、とても心地よかった。
「フローラ様」
書架の陰で、エミリアが少しだけ声を落とした。
「はい」
「もしご迷惑でなければ、今後は私個人として、お手紙を差し上げてもよろしいでしょうか」
フローラは顔を上げた。
「私宛てに、ですか」
「はい。これまでは兄様やシャロン様のお手紙に同封する形でしたけれど、それではどうしても、お二人を通すことになりますので」
「たしかに、お姉様は気を遣います」
「兄様もです」
二人は一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「兄様は、封筒の扱いや文面の礼儀まで確認しそうです」
「お姉様は、私がグランフェル家の方と親しくなることを喜びながらも、たぶん少し身構えます」
「それは、少し面倒ですね」
「はい。かなり」
今度は、二人とも先ほどよりはっきり笑った。
フローラは少し考える。
貴族令嬢同士の文通なら、本来は家を通してもおかしくない。
ただし、毎回兄姉の手紙に同封する必要はない。
自分の言葉で、直接本の話をしたい。
そう思った。
「直接お手紙をいただけたら、嬉しいです」
フローラが言うと、エミリアの顔が明るくなる。
「本当ですか」
「はい。ただし」
「ただし?」
「この約束のことは、しばらくお姉様とセドリック様には内緒にしてもよろしいでしょうか?」
エミリアは一瞬目を丸くした。
それから、楽しそうに目を細める。
「秘密ですか」
「悪い秘密ではありません」
「もちろんです!文通すること自体は、隠せませんしね」
「はい。ですが、ただ本の感想を交わすだけではなく、私たちが少し自由に話せる場所にすることまでは、まだ内緒にしたいです」
「兄様に知られると、きっと文面の礼儀や封筒の扱いまで整えようとします」
「お姉様も、私が無理をしていないか、失礼がないか、余計な心配をされると思います」
「それは少し困ります」
「かなり困ります」
二人はもう一度、小さく笑った。
エミリアはそっと手を差し出した。
「では、文通は普通に。本当の協定は秘密に」
フローラはその手を見た。
令嬢同士の正式な握手というには、少し子どもっぽい。
けれど、今の約束にはよく似合っている気がした。
フローラは静かに手を重ねる。
「はい。静かな協定です」
「素敵です」
「第一通目は、『西辺境紀行』の気になった箇所について書きます」
「では私は、『北方街道記』の補足と、この橋梁修繕覚書の写しを少し」
「写しまで」
「必要でしょう?」
「必要です」
二人は真剣に頷き合った。
その時、書庫の扉の方から足音が聞こえた。
「フローラ」
シャロンの声だった。
フローラはすぐに本を閉じた。
エミリアも、何事もなかったように本を棚へ戻す。
書庫の入口に現れたのは、シャロンとセドリックだった。
「……少しだけの範囲内かしら」
シャロンが静かに言う。
フローラは真面目に答えた。
「はい。まだ序盤です」
「それは範囲外の返事ね」
セドリックがエミリアを見る。
「エミリア」
「はい、兄様。長くなりすぎないよう努力しております」
「努力はしているのだな」
「しています」
シャロンとセドリックは、ほぼ同時に小さく息を吐いた。
その様子が少し似ていて、エミリアとフローラは思わず目を合わせた。
言わない。
まだ言わない。
静かな協定のことも。
直接文通のことも。
今はまだ、書架の陰で結ばれた小さな約束としてしまっておく。
「フローラ」
シャロンが言った。
「夕食前に支度を整える時間も必要よ」
「承知しました」
「本当に?」
「はい。橋梁修繕覚書は、途中で閉じました」
「そこまで読んでいたのね」
「かなり面白かったです」
シャロンは額に手を当てた。
セドリックは少し笑っている。
エミリアが控えめに言った。
「明日以降、また少しだけご案内してもよろしいでしょうか」
「少しだけなら」
シャロンとセドリックの声が、ほとんど重なった。
フローラとエミリアは、また目を合わせる。
やはり、兄姉は少し似ている。
けれど、それを口にするのは今ではない。
フローラは本を胸に抱え、静かに書庫を出た。
この屋敷に来て、よかった。
書庫が素晴らしいからだけではない。
自分の言葉で本の話をしたい相手ができたから。
そしてそれは、まだシャロンお姉様には内緒の、静かな協定だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
エミリアとフローラの間に、静かな協定が結ばれました。
兄姉にはまだ内緒の文通、今後どう効いてくるのか楽しみです。
次回もよろしくお願いします。




