第48話 ただ歩く練習は、思ったより難しいです
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はシャロン側のお話です。
ハイレン領に到着したシャロンが、セドリックと庭を歩きながら「ただ歩く」練習をします。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ハイレン領の屋敷に足を踏み入れた瞬間、私は少しだけ息を詰めた。
グランフェル伯爵家の屋敷は、王都の華やかな屋敷とは違っていた。
重厚で、落ち着いていて、無駄な飾りが少ない。
けれど冷たいわけではなく、磨かれた木の床や壁に掛けられた古い地図、廊下に差し込む光の具合から、この家が長く大切に守られてきた場所なのだとわかる。
セドリック様が生まれ育った場所。
そう思った瞬間、ただの屋敷ではなくなった。
「シャロン嬢」
隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
セドリック様が、穏やかな顔でこちらを見ている。
「お疲れではありませんか」
「大丈夫です」
反射的に答えた。
すると、セドリック様は少しだけ目を細める。
「本当に?」
「……少しだけ、緊張はしています」
言ってから、自分で驚いた。
大丈夫です、と押し通すつもりだったのに。
セドリック様は、ほんのわずかに表情を和らげた。
「緊張してくださっているのなら、こちらも丁寧に迎えなければなりませんね」
「そこは、すでに十分丁寧です」
「では、丁寧すぎないように気をつけます」
丁寧すぎないように。
その言い方が少し可笑しくて、私は口元を緩めそうになった。
横ではリディアが、屋敷の広間をきらきらした目で見回している。
フローラは壁の古い地図に視線を留め、完全に興味を持っていた。
エミリア様がそれに気づき、すぐに声をかける。
「フローラ様、その地図は後ほどゆっくりご覧いただけます。書庫にも古いものがございますので」
「ぜひ拝見したいです」
返事が早い。
私は心の中で、フローラ、と呼びかけた。
到着してまだ間もない。
せめて客室に荷を置くまでは、書庫へ飛び込まないでほしい。
もっとも、飛び込むほど無作法ではないのだけれど。
案内された客間で、私たちは移動の疲れを整えることになった。
私の部屋は、庭に面した明るい部屋だった。
窓を開けると、整えられた小道と低い生け垣、その向こうに季節の花が見える。
華やかすぎず、寂しすぎず。
とても落ち着く庭だ。
「お姉様」
隣の部屋から顔を出したリディアが、開口一番に言った。
「とても素敵なお部屋ですね」
「そうね」
「私の部屋も綺麗でした。窓から少しだけ庭が見えます」
「よかったわね」
「フローラは、廊下を挟んで向かいです」
「知っているわ」
「書庫に近すぎない配置でした」
「それは賢明ね」
リディアは笑った。
フローラが聞いたら、少し不満そうな顔をするかもしれない。
しばらく休んだ後、私たちは小サロンに通された。
アメリア様が用意してくださった茶は、香りが柔らかく、移動で固くなっていた体を少しずつほどいてくれる。
リディアは行儀よくしている。
かなり頑張っている。
フローラは静かにしているが、時折エミリア様と視線を交わしている。
おそらく、書庫の話をしたくてたまらないのだろう。
「明日の朝、市をご覧いただく予定です」
ギルバート様が静かに言った。
「今日は移動のお疲れもあるでしょうから、屋敷の中と庭を軽くご案内する程度にいたしましょう」
「お気遣いありがとうございます」
私は礼を言った。
市は明日。
なら今日は、ただ見る時間。
ただ歩く練習。
そう思った途端、逆に肩に力が入った。
ただ歩くというのは、こんなに難しいものだっただろうか。
茶の後、アメリア様がリディアを連れて屋敷の中を少し案内してくださることになった。
エミリア様はフローラへ、書庫は長くなりすぎない範囲で少しだけ、と微笑んでいる。
少しだけ。
その言葉に、フローラの目が静かに動いた。
かなり信用できない「少しだけ」だと思う。
私は注意しようとしたが、セドリック様が隣で小さく言った。
「エミリアには、長くなりすぎないよう伝えてあります」
「フローラにも、節度を持つよう言ってあります」
「では、双方の努力に期待しましょう」
「努力が必要な時点で不安です」
「同感です」
思わず目が合った。
そこで少し笑ってしまう。
この家に来てから、私はもう何度も笑いそうになっている。
そのことに気づいて、少しだけ困った。
「シャロン嬢」
セドリック様が庭へ続く扉の方を示した。
「よろしければ、庭を少し歩きませんか。明日の市とは違って、今日は確認事項なしで」
「確認事項なし…」
「はい。ただ歩く練習です」
真面目な顔で言われた。
だから、私も真面目に頷いた。
「承知しました。ただし、私が何かを確認し始めたら止めてください」
「加減が重要でしたね」
「覚えていらしたのですね」
「重要事項ですので」
その返事があまりにも真面目で、私はまた笑いそうになった。
庭へ出ると、午後の光が柔らかく降っていた。
石畳の小道は歩きやすく、両脇には淡い色の花が咲いている。
風が通るたび、葉が小さく揺れた。
「綺麗ですね」
口から自然に出た。
言ってから、私は少し驚いた。
花の配置がよいとか、歩線が整っているとか、手入れが行き届いているとか。
そういう言葉ではなく。
ただ、綺麗だと。
「ありがとうございます」
セドリック様は静かに答えた。
「母が好んで整えている庭です。派手ではありませんが、季節ごとに少しずつ表情が変わります」
「落ち着く庭です」
「そう言っていただけると、母も喜びます」
私は庭を見渡した。
低い生け垣。
曲がりすぎていない小道。
日陰になる場所に置かれた長椅子。
そこで、つい言いかけた。
「この小道は、雨の日でも水が――」
途中で止まる。
セドリック様がこちらを見ていた。
「止めましょうか?」
「……今のは、かなり確認事項に近かったですね」
「少しだけ」
「少しですか」
「はい。まだ反論されない程度です」
「加減を覚えるのが早いですね」
「努力しています」
私は扇を持ってくればよかったと思った。
顔が少し熱い。
「でも」
セドリック様は、庭の奥へ視線を向けた。
「気づかれたことを無理に消さなくていいと思います」
「確認事項なしでは?」
「はい。けれど、シャロン嬢が見たものを、なかったことにする必要はありません」
私は言葉を失った。
セドリック様は続ける。
「ただ、今日はすぐ答えにしなくてもいいのだと思います」
「……答えにしない」
「見つけたまま、持っていてもいい。そういう時間でもよいのではないかと」
胸の奥に、その言葉が落ちた。
見つけたまま、持っていてもいい。
私はいつも、見つけたものを整理しようとしていた。
役に立つ形に。
誰かへ伝えられる形に。
正しい答えとして。
けれど、見たものをそのまま持っているだけでもいい。
そんな考え方は、あまりしたことがなかった。
「難しいですね」
「はい」
「そこは否定しないのですね」
「難しいことだと思います」
セドリック様の声は穏やかだった。
「ですから、今日は練習です」
「練習…」
「はい。失敗しても減点はありません」
私は思わず彼を見る。
「減点がないのですか」
「ありません」
「珍しい採点方式ですね」
「シャロン嬢限定です」
「それは不公平では?」
「ええ。不公平かもしれません」
そう言って、セドリック様は少し笑った。
ずるい。
そう思った。
真正面から甘い言葉を言われたわけではない。
けれど、こういう言い方の方が、私にはよほど効く。
庭の小道を並んで歩く。
無言の時間が少しあった。
気まずくはなかった。
風の音。
遠くで聞こえるリディアの明るい声。
おそらく書庫の方向へ向かったのだろう、エミリア様とフローラの控えめな足音。
私は、ただ歩いている。
何かを決めるためではなく。
何かを直すためでもなく。
セドリック様の隣で、ハイレン領の屋敷の庭を歩いている。
「セドリック様」
「はい」
「少しだけなら、できている気がします」
「ただ歩く練習ですか」
「はい」
「では、初回としてはかなり良い評価ですね」
私は足を止めた。
「それは私の言い方ではありませんか」
「はい」
「流用は減点です」
「虚偽申告ではありません」
真面目に返された。
私はとうとう笑ってしまった。
声は小さかったけれど、確かに笑った。
セドリック様が少し驚いたように私を見る。
その目があまりに優しくて、私は慌てて視線を逸らした。
「……今のは、少しだけです」
「はい」
「笑いすぎではありません」
「承知しております」
「本当に?」
「本当に」
胸の奥が、ふわりと軽くなる。
不思議だった。
ここは私の家ではない。
初めて来た屋敷で、初めて歩く庭だ。
それなのに、少しだけ安心している。
その後、小サロンへ戻る頃には、リディアはアメリア様と楽しそうに話していた。
どうやら屋敷の厨房近くを通った時、焼き菓子の香りに反応したらしい。
フローラとエミリア様は、まだ戻っていない。
「書庫ですね」
私が言うと、セドリック様も頷いた。
「書庫でしょうね」
「少しだけ、の範囲内でしょうか」
「確認に行きますか?」
「……行きましょう」
姉として。
そして兄として。
私たちは、互いに少し苦笑しながら、書庫へ向かった。
ただ歩く練習は、思ったより難しいです。
けれど、セドリック様が隣にいるなら。
今日の私は、その難しさを少しだけ楽しめる気がしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンにとって、ただ見る、ただ歩くというのは意外と難しいようです。
次回は書庫で、エミリアとフローラの交流が進みます。
次回もよろしくお願いします。




