第46話 置いていかないと言われると、困ります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側のお話です。
ハイレン領訪問に向けて、シャロンたちの出発準備が進みます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
セドリック様からの手紙は、出発準備が本格的に始まった日の午後に届いた。
小サロンの机の上には、持参する予定の品が並んでいる。
市の配置図の写し。
確認事項をまとめた薄紙。
ノエル様の記録表についての覚え書き。
そして、ミルディア領の春市で使っていた古い配置表の写し。
最後のものは、持っていくかどうか少し迷っていた。
ハイレン領の市を見るのに、ミルディア領の資料を持ち出す必要があるのか。
余計なお節介に見えないか。
それとも、比較例として役に立つか。
そんなことを考えていると、リディアが長椅子から身を乗り出した。
「お姉様、それも持っていけばいいと思います」
「まだ何も説明していないわ」
「でも、迷っている顔です」
「最近、あなたたちは本当に顔を読みすぎよ」
「お姉様がわかりやすくなったのです」
「それは前にも聞いたわ」
リディアはにこにこと笑っている。
フローラは窓辺で本を閉じ、静かに言った。
「比較できる資料は役に立つと思います。ただし、最初から出すと助言の圧が強くなるので、必要になった時に出す程度がよいかと」
「あなた、時々本当に的確ね」
「時々ですか」
「かなり的確ね」
「ありがとうございます」
フローラは満足そうに頷いた。
その表情は静かだが、どこか出発前の浮き立ちがある。
理由はわかっている。
書庫だ。
ここ数日、フローラは持っていく本を選んでは戻し、また選び直している。
エミリア様に見せるならこれがいい。
けれど重すぎる。
でも話題にするならこちらも捨てがたい。
そんな独り言を、私は三度聞いた。
リディアはリディアで、ハイレン領で着る衣装よりも、焼き菓子を食べる時に失礼のない振る舞いを母に確認していた。
真面目なのか、不真面目なのか、判断に迷う。
「お嬢様」
侍女が入ってきて、銀盆に手紙を載せて差し出した。
「グランフェル伯爵家より、お手紙でございます」
私は封筒を受け取った。
グランフェル家の封蝋。
もう何度も見ているはずなのに、まだ少し胸が跳ねる。
「セドリック様からですね」
リディアがすぐに言った。
「封蝋を見ればわかるでしょう」
「お姉様の顔でもわかります」
「リディア」
「少し黙ります」
「少しではなく、読む間は黙って」
「はい」
返事は良い。
守られるかは別として。
私は封を切り、便箋を開いた。
手紙には、正式な日程が決まったことへの礼が書かれていた。
私とリディア、フローラの同行を歓迎すること。
客室や行程は無理のないよう整えること。
ノエル様が、私の返事に安心したようだということ。
――短くてもよいのなら、きちんとお礼を申し上げたいと、改めて練習しております。
――緊張は残っておりますが、前向きな緊張のように見えます。
その一文に、私は少し頬を緩めた。
「ノエル様、まだ練習していらっしゃるそうよ」
「真面目な方ですね」
フローラが言った。
「ええ」
「お姉様に似ているところがありますね」
「会ったこともない相手を簡単に似ていると言わないで」
「真面目さの方向です」
「それなら、まあ」
少しだけ納得してしまった。
ノエル様は、きっと緊張しながらも誠実に言葉を選ぶ方なのだろう。
まだ会ったことはない。
けれど、記録表から伝わる丁寧さがある。
会うのが、少し楽しみになっている自分がいた。
手紙を読み進める。
そして、次の一文で指が止まった。
――私と一緒なら、と書いてくださったことを、大切に受け取りました。
――ただ歩くことを試してみる時間が、少しでも穏やかなものになるよう、私もご一緒いたします。
――急がず、けれど置いていかずに。
息が止まった。
急がず、けれど置いていかずに。
それは、ずるい。
本当にずるい。
急がないと言われるだけなら、まだ受け取れる。
待つと言われるだけなら、こちらも距離を保てる。
けれど、置いていかないと言われると、逃げ場がなくなる。
置いていかれることには慣れている。
跡継ぎではなくなった時。
婚約が解消された時。
周りが私の新しい立場を当然のように受け入れていく時。
私の方はまだ立ち止まっていたのに、いろいろなものが先へ進んでいった。
仕方がない。
そう思っていた。
けれど、セドリック様は言う。
急がず。
でも、置いていかずに。
その言葉が、胸の奥にゆっくり染みていく。
「お姉様?」
リディアの声がした。
私は顔を上げる。
「何」
「今、また困った顔をしていました」
「困っているわ」
「認めるのが早くなりましたね」
「あなたたちが追及するからよ」
そう返した声は、思ったより柔らかかった。
母が静かに微笑む。
「何が書かれていたの?」
私は少し迷った。
これは、私宛ての言葉だ。
けれど、隠したいだけのものではない。
「……ただ歩く時間が穏やかになるよう、一緒にいてくださるそうです」
それだけでは足りない気がして、私は小さく続けた。
「急がず、けれど置いていかずに、と」
小サロンが静かになった。
リディアは目を丸くし、フローラは少しだけ目を伏せた。
母は、何も言わずに私を見ている。
その沈黙が、少し恥ずかしい。
「…何か言いなさいよ」
「お姉様」
リディアが両手を胸の前で握った。
「それは、とても……とても素敵です」
「あなたは本当に、その言葉が好きね」
「でも、今のはそれ以外に言いようがありません」
フローラも静かに頷いた。
「置いていかない、という言葉を選ばれるのは、かなり誠実だと思います」
「分析しないで」
「しています」
「素直ね」
「お姉様も、少し素直になった方がよろしいかと」
「今刺したわね」
「照らしました」
「便利な言葉にしないで」
母がくすりと笑った。
私は扇で口元を隠す。
顔が熱い。
セドリック様の手紙を読んで顔が熱くなることにも、そろそろ慣れていいはずなのに、まったく慣れない。
いや、慣れたくないのかもしれない。
その日の夕方から、荷造りは本格的に始まった。
母は衣装を確認し、侍女たちは旅行用の箱を整える。
リディアは明るい色のドレスを選びたがり、母に「初日は少し落ち着いた色にしましょう」とやんわり止められていた。
フローラは本を三冊並べて、真剣に悩んでいる。
「一冊にしなさい」
私が言うと、フローラは顔を上げた。
「二冊では駄目ですか」
「一泊二日よ」
「移動時間があります」
「グランフェル家にも本があるでしょう」
「それは読む本ではなく、見る本です」
「違いがわからないわ」
「かなり違います」
フローラは本気だった。
母が助け舟を出す。
「一冊は手元に、もう一冊は荷に入れるならよいでしょう」
「お母様…」
「ありがとうございます」
フローラは即座に頷いた。
この妹は、こういう時だけ判断が早い。
リディアは横で衣装のリボンを手にしながら言った。
「フローラ、書庫で夜更かししては駄目よ」
「リディアお姉様も、焼き菓子を食べすぎては駄目です」
「私は節度を持ちます」
「私もです」
「二人とも、信用が微妙ね」
そう言うと、リディアとフローラが同時にこちらを見た。
「お姉様もですよ」
「私?」
「ハイレン領の市で、夢中になりすぎないように」
リディアが言う。
「庭園で、改善点を探し始めないように」
フローラが続ける。
「あなたたち、姉に遠慮がなくなりすぎていない?」
「家族ですので」
リディアがにこりと笑う。
「必要な指摘です」
フローラが静かに言う。
私は何も言い返せなかった。
確かに、気をつけるべきは私も同じだ。
ただ見て、歩いて、知る。
それを試しに行くのだから。
夜、自室で、私はセドリック様への返事を書いた。
まずは、ノエル様のこと。
――ノエル様が安心されたと伺い、私もほっとしております。
――ご挨拶は短くて十分です。緊張されていても、失礼とは思いません。
――記録表を作られた方と、市を見ながらお話しできることを楽しみにしております。
次に、訪問準備のこと。
――持参する資料として、ミルディア領の春市で使っていた古い配置表の写しを一部用意しております。
――必要があれば比較例としてお見せできますが、最初から助言の形にしすぎないよう、扱いには気をつけます。
書きながら、自分で少し笑う。
気をつけます、と書くことが増えた。
以前なら、間違えないようにする、と書いていただろう。
今は少し違う。
間違えないためではなく、無理をしすぎないために気をつける。
それを覚え始めている。
そして、あの言葉への返事を書く。
――急がず、けれど置いていかずに、と書いてくださったことを、どう返せばよいのか少し迷いました。
――その言葉は、私には少し重く、けれど温かいものでした。
手が止まる。
重く、温かい。
かなり正直だ。
けれど、嘘ではない。
続ける。
――当日、私はつい何かの役に立とうとしてしまうかもしれません。
――その時は、少しだけ止めてください。
――ただし、強く止められると反論すると思いますので、加減は重要です。
書いてから、思わず笑ってしまった。
これは何の注意書きだろう。
でも、セドリック様なら真面目に受け取る気がする。
そしてたぶん、きちんと加減を考えてくれる。
最後に追伸を書く。
――蜂蜜の焼き菓子については、虚偽申告をしないとのこと、承知しました。
――こちらも中立を保つ努力をしますが、リディアの動向には注意が必要です。
封をする前に、もう一度読み返す。
少し素直すぎる。
少し軽すぎる。
少し、近すぎる。
けれど、今の私たちはたぶん、この少しずつで進んでいる。
翌朝。
出発の支度は、まだ夜明け前から始まった。
馬車の前には荷が積まれ、護衛が確認をしている。
リディアは眠そうにしながらも、どこか楽しそうだった。
フローラは本を一冊しっかり抱えている。
父と母は玄関前で私たちを見送ってくれた。
「シャロン」
父が静かに呼ぶ。
「はい」
「楽しんできなさい」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
助言してこい、ではなく。
役目を果たせ、でもなく。
楽しんできなさい。
「……はい」
私は頷いた。
母が私の手をそっと握る。
「無理をしすぎないこと」
「はい」
「困ったら、困ったと言っていいのよ」
私は少しだけ目を伏せた。
「努力します」
「努力が必要なのね」
「少し…」
母は柔らかく笑った。
馬車に乗り込む時、レオンが侍女に抱かれて「あー」と声を上げた。
私は振り返り、小さく手を振る。
「行ってくるわ」
「あー」
返事のような声が返ってきた。
馬車がゆっくり動き出す。
ベルフォール家の屋敷が少しずつ遠ざかる。
隣ではリディアが窓の外を見て、向かいではフローラが本を抱えたまま静かに座っている。
私は膝の上で手を重ねた。
ハイレン領へ向かっている。
セドリック様が大切にしている場所へ。
ただ見て、歩いて、知るために。
そして、急がず、置いていかれずに進むために。
不安はある。
けれど、その不安はもう、ひとりで抱えるものではない気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
いよいよシャロンたちがハイレン領へ向かいます。
セドリックの「置いていかずに」という言葉も、シャロンにしっかり届いたようです。
次回もよろしくお願いします。




